異世界の神に呼ばれてるとかマジで言ってんのか? ふざけんな
毎週月曜19:00投稿です。
「ここしばらく日本列島を覆っていた不安定な気圧配置は去り、センター試験を直前に控えた受験生達もほっと胸をなでおろしていることでしょう」とスマートフォンのニュースクローラーが明滅し、告げる。空調を切った室内の空気は既に冷たくなり始めている。公共交通機関が使えない場合の試験会場までの移動手段についてあらかじめ策を練っていた東堂ではあったが、塾生達に余計な負担を強いる必要がないであろうことを知り、わずかに安堵した。ほっとしたのは受験生達だけではないということだ。
そもそも受験とは、一般企業の単位で考えるにしても、大きな大きなプロジェクトだ。3年というプロジェクト遂行期間の長さ(センター試験は1月に行われるため正確には2年9ヶ月)。人一人の進路の決定はその後本人が四十数年何をして生きていくかに、特に理系であればなおさら大いに関係し、その意思決定に関わる人数も本人・家族・教師・利用しているなら教育サービス業の担当者、とそこそこの人数だ。国家政策という観点から見ればその後の国家の産業別労働人口を占いもする。本人が勉強しているだけに見えて、受験というイベントが影響する範囲はことのほか広い。
東堂は「準備は全て整えて今日はさっさと寝ろ」と3年生全員に漏らさず伝えたことを手元のチェックリストで確認し、「公共交通機関がもしストップした場合でも試験会場に到着できるよう両親と話しておけ」と伝えるべき生徒は自習席で帰り支度をしている男女二人を残すのみであることを確認した。東堂はここまで一人も欠けることなく順調に準備できたことに、準備させることができたことに、またほんの少しの安堵を覚えた。今日はアルバイトも先に帰しており、もう校舎には彼らと東堂しか残っていない。時刻はまだ浅いが、建物の外の歩道には既に街灯がともっている。閉館時間だ。
「勉強し足りないのはわかるが今日は早く帰って寝ろ。今日ギリギリまで粘るようなバカに東大は無理だ。明日万が一JRが動かなくても会場には辿り着けるよう、親御さんとは今日のうちに話をしておけ」
辛辣な言葉遣いは半ば意図したものだ。偉そうに語る方が、たしなめるにせよ励ますにせよ生徒の反応は良く、結果合格者が増える。
声をかけられた二人は、しかし無反応であった。バスケで鍛えた筋肉質な長身を学ランに包んだ和久井は、眉間にしわを寄せ、言葉を返さない。視線の先の明日香は今にも泣き出しそうな顔でうつむき、ややオーバーサイズのカーディガンをまとった華奢な肩がわずかに震えている。東堂は二人の状態がことのほか深刻であると考え、ずれてもいない眼鏡を上げた。学習は労働ではなく武道やスポーツに近い。体調が悪いまま学習を進めるよりまず治した方が良い。本番前のコンディションの調整も武道やスポーツのそれに似る。メンタル面の問題は時に体調不良よりも厄介だ。
なるべく平静を装い、東堂は二人に声をかけた。
「どうした? 何かあったか?」
「先生、俺今年は受験やめるわ。将来のこと不真面目に考えてた」
「私も受けられません。でも、和久井くんは、受けてよ。私のことなんて関係ないよ」
「いや、それが思ったより関係があったんだ、俺にとって。ここまで頑張ってきたのも、理科一類に行って将来好きなものを形にする仕事に就けたらいいなと考えてたのも、どうも結局明日香さんが東大に行くことを前提に組み立ててた目標だったみたいだ。君が抱えてる問題の方が、もっと俺にとって深刻なんだ」
「……信じてくれるの? でも、それでも受けてよ。こんな言い方したくないけど、私は呼ばれているけど、和久井くんは呼ばれてないよ。東堂先生がいつも言っているけど、ここまで来て東大現役合格を棒に振るなんて、もったいないよ。和久井くんには平和で充実した人生を送って欲しい。私が行けば、そうできるんだよ。和久井くんが来ても、きっと変わらない」
「なかなかひどい言い方だな。頭も体もこの国の同年代じゃ一桁台だぜ、俺。ちょっとは役に立つって」
「私の『直知』でわからないこともあると思うけど…… 異世界の神様に聞いてみないと……」
「待て待てお前ら、何の話だ」
東堂は想定外の事態に天を仰ぎ、かぶりを振り、その拍子にオールバックの一部が乱れた。額にはうっすら冷や汗が浮かんでいる。東堂が質問対応で主に受け持っていたのは現代文の科目だが、文科三類(およそ文学部に相当)狙いの明日香はもちろん理科一類(およそ工学部に相当)狙いの和久井すら、東大は理系にも筆記の現代文を課すため、二人とは抽象度の高い文章をテーマにしたやり取りをこの一年で散々経ている。東堂には彼らが冗談を言っているわけではないことがわかった。しかし冗談だろう? 異世界の神に呼ばれている? ふざけるな!
「お前ら、今から親御さんに連絡して帰りが遅れると伝えろ。俺が車で二人共送ってやる。今から校舎は閉める。駅前の喫茶店、お前らもよく行ってたろう? あそこに行くぞ。最後の特別面談だ」
東堂は一方的にそう告げ、出入り口のドアから二人を追い出し、駐車場に向かうよう指示すると、すぐにシャッターを下ろして消灯した。車に向かう前に、手洗いに立つ。
顔を洗い、ハンドタオルでぬぐう。ここしばらく散髪できておらず、前髪の長さはあごに達する程になった。小さな容器に入った美容室御用達のグリースをすくい取り、あらためて前髪を後ろになでつける。ドイツ製の眼鏡に洗浄スプレーを振りマイクロファイバーのクロスで拭き上げる。紺無地のネクタイを少しだけタイピンで持ち上げ、タイピンの位置をベストからほんの少し覗く程度の位置に調整する。ネクタイの切っ先はベルトにかかる程度。スリーピーススーツの上着のボタンは留めない。保護者説明会や三者面談に際してのお決まりのスタイルだ。東堂は今から始まる面談が今年度で一番困難なものになるだろう予感に武者震いをした。
プレイヤー:東堂。塾講師。独身。
ターゲットA:和久井。一年次から在籍。元バスケ部。専門誌で「体力・テクニック・身長・更にルックスと学力まで申し分ない次世代のスター候補」と今年のMVPに選出。最終記述模試、マーク模試、ドッキング判定全て東大A判定。特に数学Ⅲ・物理は受験生全体の中でも突出する。
ターゲットB:明日香。一年次から在籍。出席番号順で前後の縁で、和久井と共にグループ入会。元新聞部。国語マークにおいては、2年次最初のマーク模試から最終マーク模試・センター過去問に至るまで、全て200点満点。筆記式の国語・世界史・日本史・英語・数学ⅠAⅡBに至るまで穴がない。最終記述模試、マーク模試、ドッキング判定全て東大A判定。能力を『直知』と自称。
オーダー:東大A判定なのに受験しないという二人の生徒を説き伏せ、無事受験・合格させること。※可否は東堂のボーナスに大きく影響する。