益城町
私もティファニーも学生寮に戻り、手早に準備に取り掛かった。まず、着替え。下着類と衛生用品。女はどうしても必要なものがある。それは生理用ナプキンだ。これだけは絶対に必需になる。しかし、現地ではどれくらいの期間、滞在するのか不透明だし自分の分だけ持参すればいいと思っていても手は2つしかない。運ぶにも限界がある。そのことを出発前にもう一度、理事長に確認しなければいけない。
また、下着類も洗濯もしなければならず、水道が遮断されてるであろう現地でどのようにすればいいのか?水道、電気、ガスなどのライフラインの問題もある。昼には秋田空港へ行ってなければならない。 時間がない。秒速に準備しなければ・・・・
(アイ? 必要最低限のものだけを持っていくのよ。あれもこれもなんてしてると重くなるだけでダメ。現地に行っても使わないだけよ。)
ティファニーは、支給されたユニフォーム類の他、小さなショルダーバックを背中にかけてるだけだった。
(ティファニー?たったそれだけで大丈夫なの?生理用品なんかどうすんのよ?)
(アイ・・ここは日本よ。震災直後は物資も届きにくいけど、3日も過ぎれば各地から捌ききれないほど、生活必需品が届くから。だって私、3.11前のニュージーランド大地震の経験者よ。笑。それに高校で救命救急や震災対策の訓練も受けてるから、私と一緒ならダイジョウブ!笑。)
ティファニーはニュージーランドから日本に来たんだ。ところでニュージーランドってどこ? アメリカでしたっけ? ま、そんなことは後にして私もティファニーに教わり身軽にした。ティファニーは、あれもいらない、これもいらないと続々と私が準備したものを弾いていく・・・
結果、持参するのはティファニーと同じ、小さなショルダーバック一つのみ。中身は生理用ナプキン数枚、ボールペン他、スカスカにスペースが空くほど収めただけ。
(本当にこれだけでいいの?)
(OK!現地には医療スタッフなどもいるでしょ?その人たちは自分たちの事はどうしてるのよ?よく考えてみて。)
そう言われればそうだ。現地はたしかに物資がない。でもそれは震災直後であって、何ケ月も続くわけがない。どんな状況でも必要な物はあるはずだ。医療チームの人たちだって食事や生活用品など必要になるはずだし、地震が起こったのは熊本県・・・近県からの支援もあるし、それに私たちから近県に行けば購入できるものは絶対にある。 そう思うと、どこか気持ちも楽になってきた。不謹慎かもしれないが・・・
私とティファニーは、ユニフォームに着替えて安全靴を履いてリュックとショルダーバックを背負い、帽子を被り、緊急支援スタッフの姿になった。手に持ってるのは医薬品などが入った小さなボストンバック一つのみ。体は少し窮屈だけどこんな身軽で本当に大丈夫?
出発まで時間が迫ってるため、手短に理事長のもとへ挨拶に行った。
(月岡さん、ティファニー、頼んだぞ。)
(はい。行ってきます。)
航空券とタクシーチケットをもらい、秋田空港へ向かった。
益城町には、大学の職員がすでに入っており滞在期間の生活費は職員が見てくれることになっている。熊本空港は震災の影響で機能が全面ストップ。福岡空港で降りることになった。この福岡にある高度医療救急救命センターから被災地に向かうことになる。
タクシー乗り、空港へ向かう途中に運転手さんに、スーパーに寄ってもらった。ここは県内でも激安のスーパーみたいでティファニーもIphone SEで予め調査していたようだ。
(アイ?急いで。これだけは持っていくからね。)
何を買うのだろう???
(ここのスーパーは本当に安いの。だから多めに買うからね。)
そういうとティファニーが手にしたのは、(ソイ・ジョイ)と(カロリーメイト)だった。
(アイ、種類の違うものをそろえるのよ。)
ティファニーが購入したのは、(ソイ・ジョイ)が10個。(カロリーメイト)が2箱。すべて味が違う。何か意味があるのか?
(ティファニー、何でみんな味が違うのを揃えるの?)
(アイ、それは同じものばかり食べてたら、気力も落ちるし、それに飽きてしまい食べなくなってしまうの。食べなくなるってことが震災には一番、最悪なことなのよ。それに味が、違えば不思議と飽きずに食べ続けることができるのよ。私たちみたいに支援活動する人は、行動しながらでも食事をしなければならないし。だからこういう日本にしかないような携帯食が必需になるの。ニュージーランド大地震の時も(カロリーメイト)も(ソイ・ジョイ)も大活躍だったわよ。笑。)
私もティファニーと同じ味を揃えた。これなら現地でも大丈夫だ。足早にタクシーに乗り、空港へと向かった。
秋田空港では、県内の医療チームの医師たち、慈善事業団の人たちが出発を待っていた。私たちを含め、熊本へ行くのは10人。搭乗手続きを済ませ、ANA全日空の福岡行に乗った。
いざ、熊本県へ!
福岡空港へ到着し、高度救命救急医療センターへと向かった。空港には病院のスタッフたちがマイクロバスで待ってくれていて私たち支援チームはそれに乗車した。病院に着くとその規模に驚き。最新の医療を備えてる九州地方、最大の病院のようだ。
施設に入り、会議室に入った。中には他の地域から派遣されてきた医療スタッフや支援団体の人たちもおり、私たちも含めその人数は30名ほどいるようだ。主に福岡、大分、宮崎と熊本に近い区域から来ており、遠方から来たのは私たち秋田県のみだった。これから被災地へ向けてのミーティングが始まる。
医療チームのチーフドクターからのガイダンスによると、まず私たちが特に気を付けなければならないことは、【感染症】。これは日本以外の世界でもそうだが、(ノロウィルス)や(インフルエンザ)(コロナウィルス)(レジオネラ)(結核)などだ。発展途上国の支援になると(エボラ出血熱)や(SARS)、(コンゴ出血熱)など極めて危険性の高い感染症があるらしい。
被災地は環境面で特に不衛生になりがちである。そんな中での支援となると感染症を持ってる被災者に接触をしてしまうととても危険な状態になってしまう。だから未然に防ぐためにも秒速に医療チームの行動が必要になるのだ。
私たちはいくつかの班に分かれて避難所に行くことになった。まず一番、被害の大きい(益城町)には、私と熊本市の医師、看護師、保健師の人たちが向かう。その隣町の御船町には、ティファニーと、この福岡、大分、宮崎と他県から来た医師たちが向かうことになった。この時点で明らかになってるのは、死者2名、負傷者200名超。 チーフドクターによれば、これから更にこの数は増える見通しで、避難している人たちからも被害者が出る可能性が大きいみたいだ。
各班に分かれて避難所へ向かう医療車に乗り出発。しかし、現地に行こうにも渋滞もひどく、ガソリンを求める人たちが道路を占拠してしまい、思うように進まない。
(これじゃ、益城に入れないな…回り道で行くか!)
運転している看護師の人が、カーナビを駆使しながら方向を変え車両を走らせた。そうしてるうちに益城町の避難所の一つ、公民館に到着した。ここにはまだ支援部隊は来ておらず、当然、食糧や水なども届いていない。見て驚いたが、中に入りきれず、外で避難している人がとても多い。毛布に包まり助けを待っている。この光景を見たとき私は、あのIS【イスラム国】から逃れる(シリア)の難民を思い浮かべた。
何とかしなければならない。そう思うと、気持ちばかり焦ってしまいどうしようもない。
医師と看護師の人は避難者を見て回り、私と保健師の人はこの避難所の現状を把握するために衛生面や食事面、施設の環境など確認することにした。ある程度、食を車などに確保している人もいてそれを何も持参せず避難した人たちと、上手く分け合って一晩は過ごせたらしいがすべての人には当然、行きわたらない。食べるものだけでも何とかしなければ・・・外も今の時期、それほど寒さは厳しくなく、焚火などしながら表でも一夜を明かせたようだけど、これも今夜が限界だ。救援が絶対に必要になる。まずは食事の確保、それにオムツ、生理ナプキン、タオル、水・・・保健師の人と福岡の医療センターに待機している、チーフドクターに連絡した。
(よし。分かった。それらの支援物資は今、自衛隊が準備していて明日にも各避難所へ届ける予定になっている。それに、大阪や名古屋、それに東京からの医療チームも明日からこちらに向かう予定になってるから。)
(お姉ちゃん・・・)
だれか、私のことを呼んだ?
よく見ると足元で年配の女の人が私を見つめていた。
(お姉ちゃん、私の家、崩れてしまって・・・私だけ表に出れたのだけど主人がまだ中にいるかもしれないの。)
私の祖母と同じくらいの年だろうか・・・
(どこなんですか?家。)
メモを取りながら住所と目印になるものなどを聞き出す。
奥さんらしき人は足が不自由で隣近所の人たちに助け出されこの避難所に来た。しかし、家の損傷が激しく夜ということもあって二次被害を防ぐために、地元の消防団の方にも説得されて、この避難所に来た。
避難所から歩いていける距離のようでそう遠くはないが、奥さんの家に向かうことにした。
(ちょっと、この住所にいって家を見てきます。)
保健師に伝えて、私は奥さんの家に向う途中、辺りの光景を見て愕然とした。
まるで、空爆を受けたと言わんばかりの家と町の破壊・・・こんなに強い地震だったのか!!!?
地震が起こった、夜9時といったら、夕飯も済ませ、ゆっくりとくつろいでるころだ。すでに寝床についてる人もいるだろう。そんなときに、こんな空爆のような強い地震が襲ってきたら一溜りもない。想像しただけでも恐ろしくなる。
これから救助なども来るだろうが、本当にこの中に、旦那さんはいるのか? もしかしたら奥さんが助け出されたあとに近所の人などに救助されたのではないか? そんな考えも出てきた。 ここにぽつんと立っていてもしょうがない。家の現状を奥さんに伝えるため、避難所に戻ることにした。 とその時、
(この家に何か?)
年配のおじさんが私に話した。
(この家の奥さんが、この中に旦那さんがいるようなことを言ってたので来たんです。)
(え? 女房は助かったのかい?)
(?まさか?旦那さんですか?)
私はビックリした。旦那さんは生きていた。それも無傷で。旦那さんによると地震が起こった時間、いつもなら、夜10時近い時間になど、表には出ないが、このとき旦那さんは、何か地鳴りのような音が耳に聞こえるので、胸騒ぎがするのか、表に出た。特に何も変わったことはないが、家に戻ろうとしたときに震度7の地震が来たのだ。家が波を打つようにグナャリと折れ曲がり屋根瓦とともに崩れた。慌てて家に入り奥さんを助けようとしたが、なす術もなくどうにもならなかった。
(お譲ちゃん、女房、避難所にいるのかい?)
(はい、避難所で他の人たちと過ごしています。今すぐにでも行かなきゃ!)
私は旦那さんの腕を引き、避難所に向かった。当時の状況を歩きながら話してくれた。
(もう、すごい揺れでね。初めはトラックか何かが家に突っ込んできたのかと思ったんだよ。そしたら電気は消えてここら辺、真っ暗。もう家がミシミシいいながらドカン!って一気に崩れたんだ。そんな状態だから探しようにもダメだったんだ。 もしかしたら助かってるかもって思い来たのだけど、今、お嬢ちゃんから聞いて、本当に安心したよ。)
避難所に着き、旦那さんと奥さんとの再会をしようとしたが、たしかここにいたはずだけど・・・ 側にいる人に聞いた。
(あの、ここにいた方、どこに行ってるんですか?分かります?)
(え?さっき救急車で運ばれたよ。何か胸が苦しいって言っていて。)
嫌な予感がする。私は旦那さんと一緒に運ばれてる病院を保健師に聞いた。
(○○って病院よ。不整脈があるみたいだからちょっと苦しくなったのかもね。不慣れな場所だから尚更かもしれない。)
(旦那さんと行ってきてもいいですか?)
(分かった。何かあったらすぐに連絡ちょうだい。これ渡しとく。)
保健師から渡されたのは災害時でも使える緊急携帯電話。この熊本県一帯は地震の影響で携帯やスマホのアクセスが集中しすぎてなかなか通じない。でもこの緊急用の携帯なら直通で話すことが出来るのだ。ありがたい。
看護師の人が医療車を出してくれるというので私も旦那さんも搬送されてる病院に向かった。病院に向かう途中にも周りを見ると、どこも瓦礫の山で崩れた家の前で呆然としている人や、どこへ向かうのか列をなして歩いてる人など、シリアからの難民のように見えてしまう。
病院に着き、車と人で大変な状態になっている。けが人もそうだが、急病人などの救護もしており病院そのものも緊急なのだ。スタットコール(病院内での緊急招集・緊急事態のときに担当科に関係なく全体で救護に当たること。)もかかり医師全体で被災者の救護に当たっていた。奥さんはどこにいるのか・・旦那さんと探した。もう周りは人だらけで分からない。とにかく聞くか!
(あの、先ほど、益城町の避難所から搬送されてきた奥さんをさがしてるのですが・・)受付らしき女の人に聞いた。
(ちょっと患者があまりにも多いので・・・救急車で搬送されて来たんですよね?・・・益城町の、どの避難所ですか?)
公民館で避難というのと旦那さんの説明でようやく判明した。受付の人から、そこを右に曲がり真直ぐの部屋にいるということで、手当ても受けて休んでるのかな・・と思い部屋に行った。しかし、部屋にある名称は(霊安室)。 まさか・・・? でもこういうときは関係なくどんな部屋でも開放するのだろうと思っていた。
その部屋に入り、私たちが見たものは、白い布が顔に掛けられ、香炉とローソク、静かに煙が流れているお線香だった。
旦那さんは、呆然とし、悔しいという表情で大粒の涙を流した・・・
私も看護師も、かける言葉がない。さっきまで全然、普通だったのに・・・
保健師に連絡をし状況を伝えた。 信じられないという言葉とともに会話も止まっている。
(これも運命なのでしょうね・・・地震なんて予測がつきませんから。でも、助かったぞって2人で抱き合いたかった・・・せめて最後くらい・・・)
旦那さんはそう言い、床にガクッと腰を落とし、泣き崩れた・・・
まだ正式な発表はないが、昨日の2名に加え、また1名、この震災から死亡者が出てしまった。 旦那さんはまだ奥さんの側に居たいというのでそのままにしてあげようと看護師と一緒に避難所に引き返した。
避難所に着くと、自衛隊の人たちも到着しており、炊き出しの準備と簡易入浴施設の準備や仮設トイレなどの設置に取り掛かっており、避難者の人たちも率先して協力をしていた。
明日には、東京や大阪からも医療チームが到着する。その後も北陸や東北からも派遣されてくる。
4月15日 金曜日・・・時刻は午後5時・・・夕暮れの時間にもなり眩しい夕日が避難所を照らしていた。