02話:ある少女との出会い
流星群が降り注いだ夜、海が眠たい目を擦りながら、緩慢な手つきで撤収作業を始めたのは午前四時頃の事だった。あの後も、流星群は絶え間なく降り注ぎ、海は寝るタイミングを完全に逃してしまった。
「もう、夜じゃなくて完全に朝だな。こりゃ」
苦笑いしながら一人ごちると、望遠鏡を抱え上げる。ずっと座り続けていたせいか、全身の関節がギシギシと悲鳴をあげた。お腹も空いているし、徹夜明けのだるさもある。満身創痍とはこの事だ。
「だからと言って、学校に行かない訳にはいかないよな」
そんなことしたら、確実に志保にどやされることになる。それどころか、首に縄を付けて、引き摺ってでも海を連れていくだろう。海がまだ高校一年生だった頃、徹夜の天体観測を敢行し、そのままリビングで寝落ちした事がある。その後、辺りが騒がしいのに気付いて目を覚ましたのが、教室の机だったのだから、当時の俺は泡を食った。思わず志保の方へ向いた時に見てしまったあの狂気じみた笑顔を、俺は今でも忘れられないでいる。
あんな思いをするのは、もう二度と御免だった。
「はあ、何とか学校を休む方法はないもんかねえ……」
ため息交じりに、海が小さく呟いた時だった。
「見つけました」
目の前に、見知らぬ少女が立っている事に気付いたのは。
「……あの、誰?」
初めは志保かと思ったが明らかに違う。身長も志保より幾らか高いうえ、艶やかな黒い長髪を後ろで縛り、ポニーテールにしているのだ。志保の髪は茶色だし、ここまで長くない。着ている服もこの暑い夏に長袖、そしてロングスカート。至る所に装飾が施されていて、西洋風の高級感が漂っている。そして、志穂よりだいぶ小さい。具体的にどこが、とは言えないが。
ポジティブに解釈すれば、引き締まってスレンダーな体つきとも言える。
「…………」
何も答えない彼女をよそに、海はある一つの考えに辿り着いた。彼女はこの育児院に新しく来た子で、緊張して上手く話せないだけなのではないか。こんな朝早くに外を歩いている事に疑問は残るが、それ以外の事はこれで大体説明がつく。海は出来る限り優しい口調で、彼女に語り掛けた。
「君、名前は? どこから来たの?」
まるで迷子を保護した警察官みたいだな、と心の中で思いつつ、海は彼女の言葉を待つ。余り畳み掛けるのも良くないだろうし、彼女の心構えが出来るまでこれ以上質問は控えた方がいいだろう。しかし、次に彼女が起こした行動は、海にとっては全くの想定外だった。
いきなり地面へしゃがみこんだと思うと、海の目の前で深く頭を下げ、まるで主君に仕える従者のごとく、大仰に跪いたのだ。この突然すぎる展開に、思わず海は言葉を詰まらせる。
「森下海……いえ」
俯かせていた顔を上げ、真っ直ぐこちらを見据えつつ、彼女ははっきりこう言った。
「お迎えに上がりました。リヒト第一王子」
「……は?」
思わず素っ頓狂な声を上げてしまった。全く訳が分からない。リヒトという名前にも心当たりは無かったし、第一この俺が王子なんて事は世界がひっくり返ってもあり得ない。聞き間違いという事も考えたが、彼女の真剣さを物語る鋭い眼差しのせいで、そんな事を聞き返せる状況でも無かった。
上手く考えがまとまらない海は、その場でただ口をパクパクと動かしている他なかった。
「とりあえず、私と一緒に来ていただきます。もう、あまり時間は残されていないので」
「ちょ、ちょっと待ってくれ! 時間って何のことだ? それに行くってどこに?」
動揺しつつも何とか最初の疑問を言葉にした海だったが、それに対する彼女の対応は冷ややかなものだった。
「だから、それを説明する時間も惜しいと言っているのです。もうすぐ、夜が明けてしまい
ますから」
そこで、海は初めて、彼女の手に杖状の物体が握られている事に気付いた。上部には水晶玉のような透明の球体が付けられており、長さは彼女の身長の半分以上ある。杖と言うより、ステッキと言った方が近いかもしれない。その視線を感じたのか、彼女はゆっくりとそれを掲げると、海の目の前に突き出す。
「あなたをウォルムス公国へお連れする前に一つ。やらなくてはならない事があります」
「え?」
まったく話の流れについていけてない海をよそに、彼女は淡々と続けた。
「あなたを殺します」
海の背中に、一気に冷たいものが駆け巡った。全身から冷たい、変な汗が流れ出てくる。
何を言ってるんだ、こいつは。
俺を……殺す?
俺を殺すって言ったのか!?
じわりじわりと歩み寄ってくる彼女から、思わず海は後退りする。
「大丈夫ですよ。悪い様にはしませんから」
「いやいやいやいや! 今、俺を殺すって言ったよね!? それって現状考えられる事態で最悪の結末だよ! これ以上の悪夢は無いよ!」
「ちょっと、落ち着いて下さい」
「お、落ち着いていられるかっ!」
「やだ、唾が飛んでるんですけど。汚らしい」
彼女は露骨に嫌そうな顔をしたが、そんな事に構っている余裕はない。震える足を何とか奮い立たせると、何故か望遠鏡を抱えたまま、海は一目散に逃げ出した。
「殺される! 殺される! 殺されるっ!!」
あいつが何者なのか、もうそんなことはどうでもいい。とにかく、いち早くこの場所から離脱し、何とかして助けを呼ばなければ。育児院の建物に向かって、海は死なないために死に物狂いで走る。
「……はあ、時間が無いと言っているのに。面倒臭い」
後ろから彼女の呟きが聞こえてくる。それと、ほぼ同時だった。突然、海は背後から猛烈な光によって照らされた。反射的に、海は彼女の方へ振り向いてしまう。
海は、息を飲んだ。
球体から、全方向に向かって奔る光は、余りに純粋で、透明感のあるエメラルドグリーン。それが夜の小高いこの丘をを照らすたびに、草花は新緑の様に輝きを放つ。まるで、ここにだけ春が舞い降りてきたようだ。クリスマスのネオンのような、機械的な明るさとは明らかに違う。温かで、眩しくて、神々しいその光を纏うその少女は、ただただ、あまりに、美しすぎる。その情景を、海はそれ以上、自分の言葉で形容出来ない。
「……流星群」
思わず、海は呟いていた。先程まで懸命に動いていた足は、とうの昔に止まっている。その間に、彼女の唇が紡ぎ出すは、全てを止める魔法の言葉。
「誘え!《超重力の牢獄》!」
海はただ、立ちすくむことしか出来なかった。自分の意志でそうしている訳では無い。頭の先から足の小指の先まで、全く動かせなくなってしまったのだ。それどころか、辺りの葉や木々のざわめきさえ、海には止まっているように見える。ただ耐え難い、圧倒的な静寂だけがそこにあった。
「全く、手間を掛けさせてくれますね」
その沈黙を破ったのは、やはり彼女だった。海が走った距離を、ゆっくりとした足取りで縮めてくる。望遠鏡を握る海の手に、自然と力がこもった。もう、後退りする事も出来ない。この不思議な力が無かったら、今頃海は腰を抜かして、その場に平たくなっていただろう。
「……なんだよ、これ。ま、魔法?」
「ふふっ、魔法ですか。正しくは星術ですが、当たらずも遠からずという感じですね」
その得体の知れない力に、海は戦慄した。彼女との距離は、もう、十メートルも無い。
「大丈夫です。決して、痛くはしませんから」
その言葉で、海は本能的に死を悟った。
どうして俺が殺されなきゃいけないのか、一体あの杖は、そして星術とは何なのか、そもそもあいつは一体何者なのか、様々な疑問が渦巻き、せめぎあい海の頭を混乱させたが、一つとしてそれらの答えが見いだされる事は無かった。
あるのは、ただ圧倒的に海を押しつぶそうとする恐怖だけ。それもエメラルドの光に包まれてすぐ、薄れて消えた。