01話:真夏の天体観測
不思議な夢の余韻と共に、森下海は目を覚ました。
中世ヨーロッパを思わせるレンガ造りの城塞都市。
不気味に赤みを帯びた夜空を飛ぶ一人の青年。
まるでどこかのおとぎ話のようなファンタジーの世界。
しかし、俺はどこかその情景に心の突っ掛かりを覚えた。懐かしくそれでいて寂しいこの感情を、体を起こしてからしばらく、ぼんやりと解せないままでいた。 俺はかつてあの場所に立ち、そしてあの青年に会ったことがあるのではないか。荒唐無稽な話だが、夢の世界の出来事ぐらいなんでもありの方が良い。あの夢は前世の記憶だとか、もしかしたらパラレルワールドにいる自分なんじゃないかとか。
そんな思考も、倒れ掛かって来た望遠鏡が額に直撃した衝撃で、きれいさっぱりぶっ飛んだ。骨組みだけで出来た簡素な持ち運び用の椅子が、後ろに転倒する体の重量を支え切れるはずも無く、そのまま庭先の草むらに転がり落ちる。隣から、酷く慌てた声が聞こえてきた。
「あっ、あぶないよ。カイ」
「……そう思っていたのなら、倒れる前に教えてくれ。志保」
「……あの……ごめん」
いや、お前は悪くないだろ。誰がどう考えても、天体観測している最中に夢を見るほど爆睡していた俺に非がある。後ろめたさを感じながら、体中に付いた枯草を強引に払い落とすと、無事椅子の上へと復帰した。海が望遠鏡を再び自立させたところで、志保の押し殺したような笑い声に気付く。
「ふふっ、髪の毛に葉っぱついてるよ」
「え? どこ?」
四苦八苦しながら髪の毛を必死で払っていると、近づいてきた志保が海の頭へ手を伸ばす。細くて長い、まるでシルクで出来た様に綺麗な指先が、一枚の木の葉を摘み上げるのを、海は思わず息をのんで見守った。
「ほら、とれた」
毛先まで丁寧に整えられ、薄く茶色がかったショートボブを風になびかせながら、幼馴染でクラスメイトの蒼井志保(あおいしほ)は本当に嬉しそうに満面の笑みを浮かべた。志保の透き通ったその肌や瞳を見た時、海は時々はっとする事がある。海が慣れてしまっただけで、志保は本当に、幼馴染である事が誇らしいほど美少女なのだと。クラスの男子に幾度となく羨ましがられるもの当然だ。彼女は周囲とは一線を画すほど美しく、特別な存在なのだから。
もちろん、本人にそれを伝えられる程の度胸を、海は持ち合わせていない。
今二人がいるのは、小高い丘の上に建つ育児院の庭先だ。彼女も俺も幼い頃から両親がおらず、物心ついた時からこの育児院で育った。満天の星空の下、育児院の建物から漏れてくる明かりだけを頼りに、二人は椅子を並べて座り直す。
「カイ、さっき寝てたでしょ。どうする? もう戻ろうか」
時刻は既に午前一時をまわっている。しかし、海は眠気を振り払うように頭を振った。
「いや、俺はもう少しだけ。今日のペルセウス座流星群は三時ぐらいがピークだから、それまでは起きてようかな」
「ええっ! 三時! じゃ、私は寝ようかな」
志保は大きな欠伸を噛み殺しながら、そそくさと望遠鏡を片付け始めてしまった。別に天体観測を無理強いする理由も無かった海は、蚊に刺されて無性に痒い足首を掻きながら望遠鏡を覗く。
「引き留めないんだ」
望遠鏡を両手で抱えながら、志保が言った。
「明日も学校だしな。早く寝た方がいいぞ」
「寂しくないの?」
「別に、これさえあればな」
海は望遠鏡を掲げる。
「……そっか」
その一言に何か強い感情が込められている様に感じたが、その正体は分からなかった。それが気がかりで海はちらりと志保に目線を向けたが、後ろ手に手を振る背中が小さくなるところだったので、諦めて再びレンズ越しに宇宙を見る。
昔から、星が好きだった。
その壮大さに惹かれたと言う方が正しいかもしれない。子供だった頃は夜になると、育児院の職員さんから譲ってもらったこの望遠鏡を毎日、食い入るように覗いていた。理由は至って単純。白い筒一本で、人間には到底たどり着けないほど遥か遼遠の輝きまで旅することが出来る。そのスケールの規格外さが幼い頃の海の心を掴んだのだ。そして、星空へのロマンは高校二年生になった今でも潰えていない。
丁度、覗き込んだレンズの中の夜空に、流星が通りかかる。一瞬、エメラルド色の輝きが星空に尾を引くが、それも一瞬で消え去ってしまう。ピークが近づくにつれて流星の数はどんどん増していくが、その輝きが夜空に残る事は無い。
海は消えていく流星を、ただ黙って眺めていた。それらは、儚く美しい光を網膜に焼き付けるとともに、心を落ち着かせるような感傷的な気分を運ぶ。
それらが海の心から、消えることは無い。