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ソウルブレイダー 短篇集  作者: けすと
二年一組、祟りに壊滅す……? 
2/2

後編

 倉庫の外にいた直哉たちは、壷の割れた音にぎくりとして振り返った。

「うおぉっ!?」

「きゃあっ」

 昂と沙耶の声と同時に、発煙筒でも炊いたかのような勢いで、白い煙が倉庫から溢れでてくる。

「……っ!」

 直哉は咄嗟に倉庫に駆け込み、気配を頼りに二人の腕を掴んで強引に引っ張り出す。

「いたっ」

 沙耶が尻もちをつく。よろめき、軽く咳き込んでいる昂に、

「もしかしなくても、壷を割ったのか」

 そう問いただすと、

「う、すまん……」

「棚の一番上にあったやつが落ちちゃって……」

 棚の一番上。記憶にある。何しろ祟りの内容が強烈だった。リストに書かれていた内容は──

「ブモーー!!」

「!?」

 倉庫の中から突然響いてきた獣の鳴き声に、直哉たちは一瞬身を固くした。

 晴れつつある煙の向こうに、ずんぐりとしたシルエットが見えてくる。

「う、牛!?」

 光が素っ頓狂な声をあげた。

「何故牛が……祟り神ではなくて、動物霊でも封じていたのか?」

 怪訝な顔をして、静音が呟く。

「……逃げるぞ」

 直哉は沙耶を立たせて、皆に言った。

「う、うん。でも、え? あれ、牛だよね?」

 混乱する沙耶をよそに、直哉は倉庫の中でいきり立っている牛から目を離さず、

「……多分、あの牛が祟り神の化身なんだろう。祟りの内容は『体臭が一生、牛乳を拭いてから数日経った雑巾の臭いになる』だ。牛乳と牛……関連性はある」

 祟りの内容を聞いて、その場にいた直哉以外の全員が顔を青ざめさせた。

 当然だ。体臭がそんな臭いになってしまったら、もうまともな人生など望めない。

 恋愛や結婚はおろか、まともな人付き合いすら難しくなるだろう。

「幸いまだ誰も祟られていない。とにかく逃げるぞ」

 背を向けないようにして、直哉たちはじり、と後ずさる。

「ブモ……?」

 今気づいたかのように、暗がりの中で爛々と光る赤い瞳が彼らを捉えた。

「ブモォーーッ!!」

 長い間壷に封じられていた恨みのせいか、まさに怒れる牡牛レイジングブルの如く雄叫びをあげて、牛が倉庫から飛び出してくる。

「やばい、逃げろ! 逃げろーーっ!」

 昂が悲鳴にも似た叫びをあげて、全力で駆け出す。

「やばいよ光、逃げよ!」

「う、うん……!」

 直哉たちも同様にその場から駈け出した。当然のように牛は追いかけてくる。

 猛牛に追い立てられ錬成館をぐるりと一周し、さらに校舎方面へと逃げる。

「おわっ!?」

「きゃあっ」

 部活中の生徒や、帰路につこうとする生徒たちが、疾走する直哉たちとそれを追いかける牛を見て、慌てて道を開ける。

 だが、その生徒たちには目もくれず、牛は執拗に直哉たちを追いかけてきた。

「なんでこっちに来るんだ!」

「俺が知るか!」

 昂と直哉が怒鳴り合い、牛が追いかけ回す。何事かと人が集まり始めてきたところで、

「何の騒ぎですか──って、あなたたち……!」

 藤林教諭が駆けつけてきた。牛に追われる直哉たちを見てすぐに事態を察したらしく、

「どの壷を割ったの!」

「入って右の棚の、一番上のやつですー!」

 沙耶が走りながらも答える。藤林は記憶を辿る素振りを見せた後、

「よりにもよって……いいですか、その牛は北海道で数年前に行われた、生乳の生産調整によって生まれた祟り神です」

「生産調整って……?」

「簡単に言えば、作りすぎたから生産量を減らせってことだ。でも生乳なんかは保存も難しいし、余った分は破棄されるんだろうな。もちろん乳牛も……」

 光の疑問に直哉が答えた。

 手間暇かけて生産した生乳や、乳牛を処分しなければいけなかった農家の方々の無念さと牛の無念さ……一つ一つは小さくても、それらが集まり、凝り固まることで、祟り神へと成ったのだろう。

 直哉は背後から迫る牛を見て納得したように、

「道理で牛なわけだ。でもなんで牡牛なんだ……?」

 乳牛ならば雌牛のはず。だが祟り神の牛は、禍々しい二本の角を生やしていた。

「それはわたしにも分かりませんが……とにかく、その牛に触れないように! 祟りを受ける条件はその祟り神との接触です。すぐに術者を呼んで来るから、封印のための陣を用意するまで逃げ切りなさい!」

「って言っても……」

 逃げ回るにも限界がある。まだ自分や昂は余裕があるが──

「はぁ……はぁ……」

 案の定、光が息を切らし、逃げる直哉たちから遅れ始めていた。

「光!」

 振り返り、昂が叫ぶ。牛が一人遅れた光へと、狙いを変える。

「……っ!」

 迫る牛に、光は目を閉じる。だが次の瞬間、彼女と牛を隔てるように、闇色をした杭のようなものが立て続けに飛来し、地面へと突き立った。

「ブモ……ッ!?」

 突如眼前に出現した漆黒の柵に怯み、牛が急停止する。

「こっちだ……!」

 静音が叫んだ。彼女の闇を操る能力で杭を作り出し、放ったのだろう。

 牛が怒りもあらわに、静音へと向き直る。

 すぐに突進を始めた牛へと、静音はさらに杭を投射した。

「ブモッ!」

 牛とは思えないほどの機敏な動作で、祟りの化身はそれらを回避し、一気に静音の眼前へと迫る。

「!」

 静音の顔に浮かぶ、一瞬の逡巡。

「斉木!」

 牛の角が彼女の身体に触れる寸前、直哉は横からさらうように静音の身体を抱き抱え、際どいところで難を逃れる。

「ふぅっ、ぎりぎりだったな」

 息をつく直哉に静音が、

「すまない、助かっ……」

 そこまで言ったところで、言葉が途切れる。

 彼女はまじまじと、直哉に抱き抱えられた自分の身体を見下ろしていた。

 両足の膝裏と、背中に回された腕。すぐ目の前には直哉の顔。

 そう、この格好はいわゆる──

「ばっ……! なっ……降ろせ……!」

 急に足をばたつかせ、暴れる静音に直哉は驚き、

「おわっ! ちょ……降ろすから暴れるな……!」

 彼女の身体を地面に降ろすと、方向転換した牛が再度迫ってきた。

 直哉は何故静音が暴れたのか、一顧だにする様子もなく、

「よし、こっちだっ」

 大げさに手を振って牛の注意を引き、静音から離れる。

「新堂」

「順番に注意を引いて、時間を稼ぐぞ。まずは俺から……」

 言いながら、牛の突進をかわそうとして、直哉は気付いた。

 数メートルほど離れた背後に、野次馬の人垣が出来ていた。

(……! 何をのんきに見物してるんだ……っ)

 もっとも、彼らはこの牛がもたらす祟りの恐ろしさなどと知らないのだから、仕方のないことかもしれなかった。が、このまま横に避ければ、牛が人垣に突っ込んでしまう。

 多くの巻き添えが出て、多くの人生がその体臭のために悲惨なものになるだろう。

「くっ……!」

 辺りを見回す。その時直哉の目に入ったのは、登下校時に必ず通る昇降口だった。

 一瞬の判断。直哉は身を翻して、昇降口から校舎の中へと駆け込んだ。

「ブモーッ!」

 背を向けて逃げる直哉を、半ば反射的に牛が追いかける。

 立ち並ぶ靴箱を駆け抜け、渡り廊下に。背後から牛が靴箱を倒す音が響いてきた。

(咄嗟に校舎に入ったが、どうする……)

 走りながら思案する直哉の背後で、牛の気配が急に濃密なものとなった。

「!」

 廊下を駆けながらも振り向く。長い直線に入り、ここが仕留め時とみたのだろうか、そこには猛烈な勢いで加速する牛の姿があった。

(追いつかれる)

 俊足の直哉ですら、一瞬でそう判断するほどの猛加速。みるみるその姿が迫る。

「新堂!」

「直哉君!」

 静音や沙耶たちの姿が、背後の牛のさらに向こうに見えた。だが、遠すぎる。直哉と牛が直線上に並んでいるため、静音も闇を放つことができないようだった。

 逃げる背を下から突き上げようと、牛が頭を低く傾いだ。

「……っ!」

 角が直哉の背中をえぐる直前、彼は真上へと跳躍した。


 前へと進む勢いを殺すようにして真上へと跳躍した直哉の下を、牛が通り過ぎる。

「おおっ。ナイス!……って」

 喝采の声をあげかけた昂は、すぐに思い直した。直哉の姿を見失ったかに思われた牛が、一瞬でその身を翻し、いまだ宙にいる直哉へと再度突進したのだ。

「やべえ、直哉よけろ!」

 咄嗟にそう叫んだが、避けようがないことは分かっていた。

 どんな達人だろうと、空中では動きようがない。着地を狙って牛が突っ込み、

「ブモ……ッ!?」

 たじろぎ、たたらを踏んだ。直哉が落下してこないのだ。

 牛が見上げる。

 直哉の右手が、天井にあるスプリンクラーの突起を右手でつまんでいた。

 人差し指と親指の力だけで全体重を支え、天井にぶら下がっていたのだ。

「どこぞの死刑囚か、あいつは……」

 呆れ顔で昂は呟いた。だが、当の直哉は必死だ。なにしろ、触れただけで人生アウトの祟り神が、自分のすぐ足元でこちらを睨んでいるのだ。

「早く術者を呼んでくれ……!」

 直哉が言うと、沙耶が昇降口へと駈け出した。

「藤林センセー呼んでこよ!」

「あ、ああ……そうだな」

 つられて、昂と静音も後を追う。

「あ……ちょっと待──」

 直哉が何か言いかけたが、その言葉が彼らに届くことはなく、その場には天井にぶらさがる直哉と、その下でうろうろする牛だけが残された。


(全員で行くなよ……!)

 一人取り残され、天井でぶら下がり続ける直哉は、顔を引き攣らせ心の中で叫んだ。

 一旦だれかに牛の注意を引いてもらい、この状態から脱したかったのだが、これでは引き続き天井にぶらさがり続けるしかない。

 だが、静音たちが藤林と封印のための術者を連れてくるまでに、この牛が大人しく自分を見上げているだけで済ませてくれるだろうか。

(ありえないだろうな……)

 さあ、どうくる。

 直哉は固唾をのんで足元の牛を眺めた。すると牛は天井を見上げて、

「ブモーーーッ!」

 一際激しく咆哮すると、どういった原理なのか、途端に直哉のぶら下がっていたスプリンクラーから、勢い良く水が吹き出した。

「うおっ!?」

 水圧と水のせいで手が滑り、直哉は廊下の地面へと落下した。

 そこを狙って牛が突進してくる。なんとか足から着地はできたものの、体勢が悪い。直哉は突進を無理にかわそうとはせず、片膝をついたまま牛を十分に引きつけ、

「──ふっ!」

 両掌をハの字になるように、同時に前に突き出した。

 八極拳の技法、六大開の双纏手だった。練り上げた気を勁に乗せ、両の手のひらから打ち出すと、それは無形の圧力となり牛と真正面から激突した。

 直哉の手のひらから拳三つ分ほどの位置で、見えない壁にぶつかったかのように牛の突進が止まり、突進による運動エネルギーと気が干渉し青白いスパークが散る。

「──ブフッ!?」

「…………っ!」

 気を介して突進の反動を受け、直哉は後方へと転がった。もちろん、直接の接触はしていないので、祟りは受けていない。

 一方突進を止められた牛の方は、面食らった様子でぶるぶると頭を振っていた。

「…………」

 生徒たちの喧騒が遠くに聞こえる。上の階でもスプリンクラーが作動したのだろう。

 直哉はスプリンクラーの撒き散らす水に打たれながらも、ゆっくりと立ち上がった。

 静音が先ほど見せた一瞬の逡巡。今になって、彼はその意味が分かった。

 いっそ、打ち滅ぼしてしまうか──

 それは突進してくる牛を前に、直哉の脳裏に一瞬浮かんだ考えだった。

 祟りの内容こそえげつないが、この牛自体は大した力を持っていない。スプリンクラーを突然誤作動させるくらいの神通力はあるようだが、それくらいならばそこらの低級霊でも出来る芸当だ。

 この程度の霊格であれば、触れずとも滅する手段はある。先ほどのように気を用いてもいいし、この牛以上の霊格を持つ武具であれば、祟りを受けることなく斬り伏せることも可能だろう。

 だがこの祟り神は、いわば人の都合で生み出された存在だ。

 もちろん、酪農家が悪いわけでもないし、消費者が悪いわけでもない。食物の市場はそれこそ海外の天候にすら左右されるし、乳牛は生き物である。いつでも完璧に、需要に見合った供給を行うなどというのは、不可能に近い。

 だがそれでも、人の都合であることに変わりはない。その結果生まれたこの祟り神を滅するのは、やはり気が引けた。恐らくは、静音も同じだったのだろう。

 どうするか決めかねていると、直哉と牛の間にある教室のドアが開いた。

「……!」

 資料室となっているその教室から飛び出してきたのは、一年生の女子生徒だった。突然スプリンクラーから降りだした水に驚いたのだろう。カバンを頭の上に掲げ、慌てた様子だった。

 巨大な牛の姿はすぐに目に入ったらしく、女子生徒は驚きに凍り付く。

「ブモーーッ!」

 ここにきて牛は急に狙いを変えたらしく、女子生徒に向かって突進を開始した。

「くそ……っ」

 直哉は弾かれたように駆け出す。

 位置が悪かった。女子生徒は直哉と牛の直線上に立っている。横合いからならばなんとかなったのだが、これでは突き飛ばすわけにもいかない。

 気で突進を再度止めるにしても、衝突の余波が撒き散らされる。至近距離にいる彼女がどうなるか分かったものではない。

 どうする。打ち滅ぼすか。それとも──

「伏せろっ!」

 直哉は女子生徒に駆け寄りながらも、その背に向かって叫んだ。

 その声で硬直が解けたのか、彼女はびくっと身体を震わせてから、振り向くこともなく頭を抱えるようにその場に伏せた。

 その彼女を、下から掬いあげるように牛の両角が迫る。

 鈍い衝突音。

 伏せていた女子生徒が恐る恐る見上げると、そこには明らかな体重差をもろともせず、両手で角を握り、猛牛の突進を押し留めた直哉の後ろ姿があった。

「くっ……!」

 牛は突進を止められてなお、唸りをあげつつ前へ進もうとする。それを押し返しつつ、直哉はあることを疑問に感じていた。

 何故、この祟り神はこんなにも憎しみに燃えているのだろうか。

 生産調整によって、余剰となった乳牛が食用肉や革製品への加工に回されたのだとしても、乳牛の最後とは元来そういうものなのだ。

 ひどく割り切った言い方をしてしまえば、時期が早まっただけとも言える。それが原因だというなら、世界は家畜の祟り神で溢れてしまうだろう。

 直哉は至近距離にある牛の目を見る。

 そこにあったのは、憎しみに濁った目ではなかった。

(こいつ……)

 牛が滅茶苦茶に頭を振り乱す。それを必死に抑え込みながら、直哉は背後の女子に向かって、

「……っ、早く逃げろっ」

「ひゃっ!?」

 呆然としていた彼女は急に我にかえり、慌てて立ち上がった。そのまま背後の直哉を気にしつつも、昇降口の方へと逃げていく。

「ブモォ……ッ!」

 直哉のことなど眼中にないかのように、牛は彼女を追いかけようと暴れる。しかし直哉は二本の角をしっかりと掴み、一歩たりとも前進を許さなかった。

「おい、こっちを見ろ」

 彼は強引に牛の顔を自分へと向けさせ、

「お前は、誰からも必要とされなかったわけじゃない」

 その言葉に、牛の動きが止まる。

「ただ、色んな不運がタイミング悪く重なったってだけなんだ」

 牛の目が、初めてまともに直哉の顔を見つめた。それは悲嘆に彩られた目だった。

 誰からも必要とされない、求められないという絶望。あるいは、酪農家たちの無念さがその情念をこの神に宿したのか。

 いずれにせよ、この祟り神を動かしていたのは憎しみだけではなかった。己を不要とした世界と人間に対する悲嘆と憤激。それがこの祟り神を突き動かす力なのだ。

 ならばその妄執を晴らしてやればいい。その為に咄嗟にとった行動がこれだった。

「現に俺なんかは、今日の昼飯でも牛乳飲んだしな」

 そう言って笑う直哉の顔を、牛は黙って眺めていた。

 やがて、牛がその顔を直哉の顔へと近づけ、

 べろり。

「うぷっ!?」

 大きな舌が、彼の顔を舐め回していた。

 直哉も後になって気付いたことだったが──この時、彼の口の周りにはいわゆる白ひげと呼ばれる、牛乳を飲んだ後につく特徴的な跡が僅かについていた。

 それごと直哉の顔を舐め回し、彼の言葉が嘘でないことを確認したのだろう。牛は穏やかで満足したような顔つきとなって、ゆっくりと薄らぐように消えていった。

「…………」

 廊下に残された直哉は顔をよだれでべとべとにしたまま、呆然と立っていた。

 そこに、大勢の足音が駆け寄ってくる。振り返ると、昂たちが術者を連れてきていた。

「藤林センセー連れてきたよっ」

「すぐに封印にかかります、あの牛は?」

 藤林教諭が尋ねる。

「成仏っていうか……消えちゃいました」

 直哉が疲れた顔で言うと、昂は目を丸くして、

「え、お前あれを成仏って……っつーかおま、くせー!」

 昂は大げさに飛び退き、鼻を摘む。

「…………」

 沙耶と静音も顔を引き攣らせて後ずさりし、

「ほ、ほんとだ……直哉君もしかして……」

「う……これは……」

 あれだけ真正面から組み合って祟りを受けないはずもなく、直哉の身体からは凄まじい悪臭が漂っていた。

 だが当の直哉はそこまで深刻に捉えた様子もなく、

「いや多分、俺の予想じゃ──」

「待て! それ以上近寄るんじゃねえっ。えほっ、臭すぎて吐きそうだ」

「……そんなにか」

 直哉はこめかみに一筋の汗をたらして、そう呟くのだった。

 

 こうして、騒動はひとまず終わった。

 藤林教諭や他の術者である教員の話では、直哉の受けた祟りはお祓いやみそぎを毎日行えば、五日ほどで消えるだろうとのことだった。

 直哉もそれは、ある程度予想していた。

 あの牛に、そこまでの祟りを起こす力は感じられなかったからだ。何年も封じられ、倉庫に安置されている内に力が失われたのだろう。

 もしそうでなかったなら、あの時、あえて素手で抑え込もうとはせず、切り倒していたかもしれなかった。

 ともかく一件落着となったのだが、問題が残った。数日で消えるとはいえ、祟りの影響は想像以上のものだったのだ。

 つまり、直哉の体臭があまりにも臭かったのである。


 翌朝のHR。直哉の受けた祟りについて、藤林教諭から説明がされた。

 直哉は祟りが消えるまで学校を休むつもりだったのだが、彼女はそれを許さず、登校させたこと。数日で祟りは消えるので、怪異への耐性をつける鍛錬だと思って我慢すること。簡単に言うと、そんな内容だった。

 一方、祟りを受けた本人である直哉は、自分の体臭の変化が感じられなかった。その為、それがどれほどのストレスを周りに与えているか実感に乏しく、周囲の反応の落差に戸惑うことになる。

 例えば、休み時間などに、

「昂。ちょっと聞きたいんだが──」

「あ、悪い。用事があるんだ。後でなっ」

 と、話しかけた人間はすぐに、そそくさとその場を離れるのだ。

(むう)

 祟りのせいだとは分かっているのだが、やはり気持ちのいいものではない。

 周りのよそよそしさをひしひしと感じつつ、一日が過ぎた。


 そして三日後の数学の授業中にそれは起きた。

 教師が問題集を開くよう指示を出すと、直哉は左隣りの席に座る静音に、

「悪い、まだ問題集届いてないんだ。見せてもらえるか」

 転入間もない直哉には、いくつかの補助教材がまだ届いていない。その為、それらが必要な時は、隣の静音に見せてもらっていたのだ。

 静音はゆっくりと直哉を見ると、

「断る」

「な……」

 あまりにも短い拒絶の言葉。直哉はそれに既視感を覚えた。

「そういうことは、いい加減その、ザリガニの水槽の臭いを十倍ひどくしたような体臭を、どうにかしてから頼んだらどうだ」

 静音の目が座っていた。その言葉で、直哉の脳裏に遠い日の小学校の思い出が浮かぶ。

 強い日差し。むせかえるような暑さの渡り廊下。地べたに置かれたザリガニの水槽。

 そしてそこから漂う、下水道のような腐った臭い……。

 そこまでか。具体的な例を挙げられて、自分で自分の体臭に引く直哉だったが、そこまで言われては彼も引き下がれない。

「おい……ザリガニの水槽が臭いのは、ろくに掃除もしないで、入れた餌ごと水を腐らせてるからだ。ザリガニ自体は臭くなんかない。ザリガニに謝れ……!」

「知るか! とにかくわたしはもう限界だ。他の奴に見せてもらえっ」

「くっ……昂、ちょっと問題集貸してくれないか」

 こうなってはもう彼女に見せてもらうのは無理だと判断し、直哉は前の席に座る昂へと話しかけた。

 昂はビクリ、と背を震わせ、

「う、あー。……すまん、俺も無理だ」

「……!」

 こういった時にフォローに入ってくれるのは、大抵が昂だった。

 その彼にすら拒まれるとは。少なからずショックを受けた様子の直哉を見て、昂の右隣に座る光は小声で、

(ちょっと、直哉君が可哀想だよ)

(だってよ……臭いが移ったらどうするんだよ。ならお前が貸してやれよ)

(う……わたしもちょっとそれは……)

 柔和で人当たりが良く、他人に優しいと評判の光すらが、困り顔でそう言った。

「ぐっ……」

 直哉は浮かせていた腰を、椅子へと下ろした。

 納得できなかった。そもそも、祟り神の封じられた壷を割ったのは、昂と沙耶の過失によるところが大きいのだ。

(こっちはずっと家に帰っていないんだぞ……)

 祟りを受けた日、帰宅した直哉は即、姉につまみ出された。

(その臭いが取れるまで、うちの敷居は跨ぐなっ)

 家の玄関前で言われた、非情な言葉が思い出される。ここ二日は、近くにある川の橋の下で野宿してから登校していたのだった。

 理不尽な状況に、不満がぐるぐると頭の中で渦巻く。

 やがて直哉は急に席を立つと、

「……すいません、ちょっと出てきます」

 そう言って彼は教室を後にした。


 直哉が出ていった後、教室には一瞬の静寂と、どこかほっとしたような雰囲気が漂っていた。誰も表立っては言わなかったが、直哉の体臭にはみな辟易していたのだ。

 だが、昂や光はさすがに気まずい様子で、

「あー……まずかったか」

 直哉が出ていった扉を見ながら、昂は頭をかいた。

「うん……どうしよう。わたし直哉君を傷つけちゃったかも……」

 うつむく光に昂は向き直って、

「いや、でもよ……さすがにあの臭いを我慢しろってのは、無理があるだろ」

 ちらり、と後方の静音を見る。昂は直哉に背を向けている分まだマシだったが、直哉の隣の席に座る静音は相当こたえた様子だった。

 まるでどぶ川の臭いを数倍に凝縮したような体臭を、ここ三日間すぐ近くで嗅がされ続けたのだ。臭いのせいか食欲も沸かないようで、昼は食事を取っていないようだったし、さすがに我慢の限界だったのだろう。さきほどの静音は、直視するのが怖いほどの不機嫌さだった。

「でも、直哉君は私たちの代わりに、一人であの祟り神を鎮めたんだよ? なのに……」

「…………」

 そう言われると昂も返す言葉がなく、気まずげに沈黙した。

 そのまま静音を再度見やる。

 さすがに言い過ぎたと思ったのか、彼女も浮かない顔をして席に座っていた。

 結局、休み時間が終わっても、直哉が戻ってくることはなかった。


 次の授業が中盤に差し掛かったころだった。がらり、と教室後部の扉が開き、直哉が顔を見せた。途端に、教室にえも言われぬ悪臭が漂い始める。

 教師は顔をわずかに歪ませたが、何も言わず席に座るよう促す。

 だが直哉はどこか吹っ切れた表情で、

「すいません、ちょっとこれを取りにいってたんで」

 と、脇に抱えた古めかしい壷を見せた。

「!!」

 がた、と音を立てて教室の中の数人が立ち上がる。

 そのいずれもが、直哉と一緒に倉庫の掃除に参加したメンバーだった。

「な、それは……」

「お、おい……なんでお前、それ持ち出してきてるんだよ……?」

 昂は声を引き攣らせてたずねた。

 彼が持っていたのは、どうみてもあの倉庫に安置されていた、祟り神が封じられた壷だった。

 直哉は爽やかな笑みを浮かべ、

「はは、だって俺だけ祟り喰らってるとか、不公平だろ。安心しろ、同じような数日で消えそうな祟りのやつ持ってきたから」

 壷にはいくつもの封印の符と共に、『臭流酢屠礼民愚』と書かれた大きな札が貼り付けられていた。口の部分には布と荒縄で幾重にも封がしてあったが、何かの内圧からか、蓋がパンパンに膨れあがっている。

「しゅ、しゅうるすと、れいみんぐ……? まさかそれって……」

 沙耶が顔を青ざめさせる。

 状況を飲み込めていない教師と他の生徒たちがぽかんとしている中、直哉が壷を頭上に掲げ、地面に叩きつけようとすると、

「あほか、やめろ!」

 昂が咄嗟に組み付いて阻止した。

「ぐっ……! 離せ……っ」

 振りほどこうとする直哉に、昂は必死に喰らいつき、

「おい、見てないで手伝え!」

 呆然としていた静音たちを怒鳴る。我に返った彼女たちは、直哉の悪臭に顔を背けながらも、寄ってたかって直哉を羽交い絞めにした。

「は、はなせーっ! お前らも祟られればいいんだ……!」

 直哉はやけくそになって叫んだ。

「やめろ馬鹿野郎!」

「見損なったぞ、新堂……!」

「光、何か縛るもの! 縛るもの持ってきて!」

「う、うん……!」

 光が拘束できるものを探しに、教室を飛び出す。見苦しい取っ組み合いが続き、やがて多勢に無勢とあきらめたのか、直哉は一旦大人しくなると、

「とでも思ったか……!」

 突然ぐっと腰を落とし、垂直に身を沈めた。ドシンという音と共に、彼の身体に組み付いていた昂と静音、沙耶が直哉を残してそれぞれの方向に弾き飛ばされる。

「うお……っ!」

「くっ……!」

「きゃっ……!」

 昂たちは三者三様の悲鳴と共に、尻もちを着いた。

 直哉が行ったのは、沈墜勁による地面の反発力を利用した、全身からの発勁だった。

「くそ……無駄に高い戦闘能力を発揮しやがって……!」

 昂が見上げる前で、直哉は壷を両手で振り上げ、不敵な笑みを浮かべると、

「みんなで仲良く祟りを受けようぜ」

 床に叩きつけられ、景気のいい音を立てて壷が割れた。

 途端に、どぶ川と肥溜めをブレンドしてぐつぐつと煮詰めたような、凶悪すぎる悪臭が教室に溢れかえる。

「うぇ……っ」

「ひぐっ!?」

 瞬く間に生徒たちに広がる、悲鳴にも似た反応。さらには祟り神の本体だろうか、腐敗し、身がぼろぼろのニシンの魚群が突如床に出現し、水を求めてびちゃびちゃと跳ねまわった。

 きちんと食品として消費されている彼らが、何故祟り神になったのか経緯は定かではない。魚だけあって陸の上では満足に動けず、誰かを祟ることは出来ないようだったが、その身から漂う悪臭といったら、直哉の体臭の比ではなかった。

 あまりの悪臭に泡を吹いて気絶するもの、嘔吐しかけるもの、引きつけを起こすもの。さらには魚群から離れようと逃げ惑う生徒が入り乱れ、教室は大混乱に陥った。

 

「失礼します」

 それから放課後となって、直哉は校長室を辞して廊下へと出た。

 廊下には昂や静音たちを含めた二年一組の面々が、直哉を睨むようにして待っていた。

「……停学だそうだ」

 どこか不服そうに直哉が彼らに言うと、

『当たり前だ!!』

 皆が一斉に怒鳴りつけた。その剣幕にさすがの直哉もたじろぎ、しゅんとした様子で、

「いや……すまなかった。どうかしてた」

 あの後、騒ぎを聞いて駆けつけた教師たちによって、ニシンの祟り神は二年一組の教室ごと封印の術が施されることになった。

 封印には数日かかるらしく、生徒たちの荷物が置かれたまま教室は立入禁止になり、そのままなし崩し的に、二年一組は学級閉鎖するということになってしまった。

 祟り神を故意に解放した直哉に下された罰は、数日の停学処分だった。ただ、その日数は学級閉鎖の予定日数と同じである。大目に見てもらったという判断が妥当だろう。

「まぁ、俺らもちょっと配慮が足りなかったかもな。悪かったな」

 昂がこめかみをぽりぽりと掻きつつ言う。

「あ……わたしも少し言い過ぎた。すまなかった」

 さらに静音が目を逸らしながら言うと、沙耶はお気楽な表情で、

「わたしはまぁ、楽しかったからいいけどねー。直哉君の意外な一面も見れたし」

「俺の意外な一面……?」

「そうそう。直哉君って、荒事の時はどこか超然としてるじゃん。でも今回はあんなふうにテンパっちゃって、やっぱわたしたちと同い年なんだなーって」

 沙耶の言葉に光も頷く。

「うんうん。直哉君も普通の男の子なんだなー、って思っちゃった」

「なんだそりゃ……」

 心なしか疲れた様子の直哉。すると昂が皆に向かって、

「ともかく、せっかく休みになったんだし、みんなでどっか遊びにでも行くか?」

「あ、いいね。カラオケでも行こうよ!」

 沙耶が提案する。他のクラスメートも多くが乗り気だった。

「斉木さんも行くよな?」

 昂がたずねると、静音も仕方ないなといった様子で、

「ああ。行こう」

「何してんだ、直哉。早く行くぞ」

 一人その場に残ろうとする直哉に、昂が呼びかける。

「いや、俺は祟りが──」

 直哉の祟りはまだ消えてはいない。今この瞬間も、彼の身体からは悪臭が漂っているのだ。しかし昂は笑って、

「ばっか、今日一日くらい我慢してやるよ。つーか、若干慣れてきた感もあるしな」

「まぁ、今日が最後だと思えば、耐えられなくはないな」

 静音も同意する。直哉はしばし彼らの顔を見ていたが、苦笑し、

「分かったよ、俺も行く」

「でも、店の人に何か言われたらどうしよう?」

「その時は、おたくの下水管が詰まってるんじゃないのー? とか言っちゃえばいいよ」

「それって、店の人はいい迷惑だよね……」

 光と沙耶があれこれと話している。それを聞きながら、直哉は彼らの後を追うのだった。

 

                                   〈おしまい〉

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