#08:鈍すぎる君
分かっていたさ。彼女が恋愛に疎いことぐらい。疎いどころか、興味が無かったと言う方がいいか。
それでも……。
クリスマスって恋人同士には重要なイベントだろ?
俺達、一応、付き合ってるんだよな?
「24日のクリスマスイブ? 家族で過ごす事にしてるから……」
彼女は悪びれることなく言った。俺はそれ以上何も言えなかった。
彼女のなかには恋人同士で過ごすクリスマスなんて、最初からないのだから。
俺は仕方なく、予約したレストランをキャンセルした。
まだ、始まったばかり。
いいさ、来年はきっと必ず……もっと君の傍へ。
俺は、彼女が予約を前倒しで付き合う事にしてくれた事だけでも、クリスマスプレゼント以上の事だからと自分を納得させていた。けれど、運命の女神は、まだ俺の方を向いて微笑んでいてくれたんだ。
「守谷君、ごめんね。私、何も知らなくて……美鈴に叱られちゃった。この前言ってたクリスマスイブの予定、もう埋まっちゃった?」
本郷さん、なんだかんだ言いながらも、いい仕事してくださるじゃないですか!
「美緒さんは、家族と過ごすんじゃなかったの?」
「今まではそうだったけど……付き合ってる人がいたら、クリスマスって重要なんだって、美鈴に言われて……守谷君はそう言う意味で、24日の予定訊いたのかなって……」
恥ずかしそうに俯いて、どこか言い辛そうに話す彼女の髪の隙間から覗く耳が、赤くなってるようで……。
俺は心の中でニンマリしながら「一緒にクリスマスイブを過ごしてくれますか?」と訊いた。
*
レストランの予約をキャンセルしてしまったのは早まったかもしれないけれど、彼女と過ごすクリスマスイブを手に入れられたのだから、結果オーライだ。いかに過ごすかという問題に、再び頭を悩ませなくてはならなくなったことさえ、幸せだと言えるだろう。
クリスマスイブまであと三日。
「美緒さん、俺の部屋でクリスマスパーティをしませんか? もうレストランとかの予約も一杯みたいだから」
恋愛初心者の彼女をいきなり部屋へ呼ぶのは、有りなんだろうかと思案しながらも、下心は無いからと自分に言い訳してみたり、いや、無い訳じゃないけどと訂正してみたり……。
「じゃあ、私、何か作るね」と明るく返って来た時、どこかがっくりと落胆したのは、彼女の声にまるで友達の家に集まる時の様な雰囲気を感じたから。
ああ、きっと、恋人の部屋へ来る意味を彼女は何も分かっていないんだろうな。
そう思ってしまうと、余計にそれが枷になり、何の行動にも移せないヘタレになり下がってしまう自分に呆れるほかなかった。
それでも俺は幸せだった。
講義の後、俺のマンション近くで待ち合わせをして、初めて俺の部屋へと彼女を招いた。彼女は近くのスーパーの買い物袋を提げ、初めての手料理の準備万端。
本当なら、大学で待ち合わせて、一緒に買い物をして帰り着くと言うのをしたかったけれど、彼女の友人の本郷さんに、キャンパス内で一緒にいない方がいいとのご助言を賜り、俺自身も思い当らない事もないので、それに従った。
何度か目にした兄の修羅場と自身の入学当初のハーレム状態と、今でも感じる視線や秋波に辟易としていたから。それと、美緒さんが攻撃対象になるとの本郷さんからの警告により。
ああ、それから、俺が彼女の事を美緒さんと呼ぶようになったのは、あの二人の関係を変えた雪山での事。彼女からOKの返事を貰ってすぐに、「美緒さんって呼んでいいですか?」と了解を貰った。
なのに、彼女に下の名前で呼んで欲しいって言えないヘタレさに、笑いさえ出てくる。相変わらず「守谷君」と呼ぶ何も気づかない鈍すぎる彼女に、気長に行くさと自嘲する。
そんな俺らのクリスマスイブは、買って来たケーキとチキンと彼女の手作りのシチューとサラダと……この後車で彼女を自宅まで送り届けなければいけないから、シャンパンとは行かなくてシャンメリーで……って、俺まだ未成年でした。
まだお互いの事あまり知らない俺達は、手探りのように会話をし、彼女の照れたような微笑みを夢のように見つめていた。
手を伸ばせば届くところにある彼女の手を、何度握ってしまいたくなったか。
彼女のきゃしゃな体を、何度抱きしめてしまいたくなったか……。
それでもそんな時間はあっという間に過ぎてしまい、俺は舞い上がっていたのかプレゼントを渡す事をすっかり忘れていて、彼女が帰る間際になって慌ててプレゼントを差し出した。それは彼女の方も同じようで、差し出したプレゼントを見て慌てて鞄の中から包みを取り出した。
お互いに苦笑してプレゼント交換し、包みを開けてみると、俺の方はフワフワのマフラーで、彼女は某ブランドの手袋。二人とも同じような防寒具に、思わず笑ってしまった。
こんなに近くにいるのに、触れることさえできなかったクリスマスイブは、幸せの内に幕を閉じたのだった。
それからの俺達は、彼女の恋愛経験値を焦ってあげてしまわないよう、少しずつ少しずつ距離を縮めて行った。
年明けの初詣、冬の海までのドライブ、少し足を伸ばしたところのアウトレットモールでの買い物。
彼女と過ごす穏やかな時間は、俺の中にゆっくりと浸透し、幸せとなって満たされて行く。
こんな感覚は初めてだった。
それでも、彼女は二人でいる現実にまだ戸惑いがあるようで、俺はどうすればもっと彼女の心に近づけられるのだろうかと、考え続けていた。
そして2月のあのイベントがやって来た。
恋人同士なら、絶対に外せないイベントのはずだけど、鈍すぎる彼女はバレンタインをどうとらえているのやら。
余り期待しないでおこうと、自分に言い聞かせ、俺は俺なりのバレンタインをしようと決心した。
大学はもう春休みになっていて、彼女の公務員試験のための勉強は本格化しているので、いくら春休みと言っても、気軽に誘えない。
それでもバレンタインだからと、花屋で彼女らしい春仕様の花束を作ってもらい車に乗せると、公務員講座を終えて大学からの帰り道で彼女を捕まえようと、待機していた。
駅までの道をぼんやりと歩いている彼女の姿を捉えると、クラクションを鳴らし停止した。振り返って唖然とする彼女に手を振る。気まずげな顔をした彼女の表情で、バレンタインだと言う事は分かっていたのだと確信した。
それでも、助手席へと座ってくれた彼女に笑顔で花束を差し出した。彼女は意味が分からず首をかしげているので「バレンタインだから」と一言告げ、ますます驚いた表情の彼女に「日本では女性からチョコレートが定番だけど、海外だと男性からもするらしいから」と、俺は今になって照れてしまった。
しかし彼女は、チョコレートを催促されたと思ったのか、「チョコレート用意してないから……」と俯いてしまった。俺が慌てて言った「チョコレートそんなに好きじゃない」と言う言葉も、ただの言い訳にしかならなかったようで、彼女に「チョコレート沢山貰ったでしょう?」と切り返されてしまった。
確かに今日は、春休だけど俺が大学に用があって来る情報を誰かが流したのかと思うぐらいに、女の子たちのグループに出会った。その度に差し出されるチョコレートを「彼女がいるから」と受け取り拒否して来たのだ。
もしかして、焼きもちを焼いてくれたのだろうか?
海までドライブした後、海辺の公園のガラ空きの駐車場に車を停めると、フロントガラス越しに見える海はどんよりとした雲が垂れ込め、夕焼け色の空を隠している。
途中で買って来た温かい飲み物を飲みながら、彼女の気持ちが落ち着くのを待った。
こんな沈黙も悪くないなと思いながら、助手席の彼女が小さく息を吐いたのを感じていた。
「美緒さん、俺、誰からもチョコレートは貰っていないから……全部断ったんだ。付き合っている人がいるからって……」
「守谷君……ごめん。チョコレート用意できなくて……」
「いいんだ。さっきも言っただろう? チョコレートは好きじゃないって」
「でも……他の物も用意してないから……」
「美緒さん。わかってるから。俺が無理を言って、付き合う事を前倒しで許してもらって、こうして美緒さんの傍にいられるだけで、いいんだ。それに、美緒さんの気持ちがまだついてこられない事は分かってるから。これから少しずつ二人の気持ちが近づいて行けたらいいなって思ってる」
これは俺の本音だった。
今は就職のための勉強で忙しい彼女に、傍にいる事を許してもらったんだから。
それでもバレンタインだから一つだけお願いしてもいいだろうか?
「俺の名前、下の名前で呼んでくれないかな?」
ずっと願っていて、やっと切り出せた願い。
「慧、君?」
「君を付けられると、年下って言われてるみたいで嫌なんだけど……実際年下だけどさ」
俺は苦笑しながら言った。それでも彼女は慌てたように「呼び捨てなんて、レベルが高すぎるよ」なんて言うから、俺は笑い出しそうになるのを堪えた。
「レベルって……なんのレベルなんだ? そんなに気負わなくてもいいから、友達の事も呼び捨てで呼んでるだろ? 俺も美緒って呼んでもいいかな? 名前を呼び捨てで呼び合うだけで、今までよりずっと近づけるような気がするんだ」
そう、これが近づく第一歩。
俺が彼女を見つめて「美緒」と呼ぶと、彼女は恥ずかしそうに「け、慧」と答えてくれた。
ほら、少しだけ近づいた気がしないか?
バレンタイン以後、彼女は以前よりも打ち解けたような気がする。まだ名前を呼ぶ時に噛む事があるけれど、それも御愛嬌だ。それでもまだ、彼女に触れる事で嫌われてしまうのが怖くて、俺は密室になる俺の部屋へは、あのクリスマスイブ以降一度も招いていなかった。今度彼女を招いたら、自分を止める事が出来ない気がしたからだ。
それなのに、彼女は何の下心もない顔で「ホワイトデーのお返しに何がいいか分からないから、また何か作って一緒に食べるって言うのはどう?」なんて言うんだ。
お返しなんて要らないって言いたいのに、手作りの料理だなんて大歓迎さ。でも、それって俺の部屋へ来るって事だろう?
俺の理性を試してる? って言いたくなるよ。
でも俺は彼女の提案を断る事なんてできなくて、笑顔で承諾した。
何が食べたいって訊くから、俺がコロッケって言うと、彼女に笑われたんだ。子供っぽいって思われたのかな。
彼女が作ってくれたポテトコロッケとクリームコロッケはとても美味しくて、手慣れているその料理の腕の訳を聞いたら、お姉さんが結婚するまで母親と姉との女三人の生活で、どの家事も交代制でやらざるを得なかったのだと教えてくれた。
彼女の手料理を堪能し、その後ソファに移動して並んで座り紅茶を飲みながらお喋りを楽しんだ。
手を伸ばせば届くところに彼女の手がある。そう思ったら手が伸びていた。彼女の手を握ると、彼女は驚いた顔をした。俺はすかさず彼女の手を引くと抱きしめた。
「ごめん。抱きしめたかったんだ」
彼女の耳元でそう囁くと、彼女は赤くなって俯くとコクコクと頷いている。
抵抗されない事にホッとしながら、もう一歩進んでもいいだろうかと少し体を離すと彼女の顔を覗きこんだ。
「美緒、キスしてもいい?」
ますます俯く彼女が小さく頷いたように見えたから、俺は彼女の頬を両手で包むと、上を向かせた。彼女は目を閉じたまま震えているのが分かった。そんな彼女が俺の胸を震わす。キスだけでこんなにドキドキするなんて。
彼女の唇にそっと口づける。そして俺はもう一度彼女をぎゅっと抱きしめた。
「美緒、ありがとう」
俺達はまた一歩近づけたと、幸せな余韻が身体中を満たしていった。