#61:消えない虹
「美緒」
ぼんやりと拓都の去った階段のほうを見ていたあいつに声を掛け、歩み寄る。それは今から起こそうとしている事の始まりの合図だ。
まだ突っ立ったままのあいつが、俺の呼びかけに慌てて振り返った。
「あっ、あの、拓都の事、ありがとうございました」
そう言いながら頭を下げる。
ああよかった。怒っていない。
俺は心の中で安堵し、あいつに苦笑して見せる。
「上手く言えたかどうか分からないけど……それより、美緒のご両親と拓都のご両親に挨拶させてくれないか?」
俺の言葉にあいつは大きく目を見開いて固まった。
それはそうだろう。俺が知っているなんて思ってもみなかっただろうから。
あいつがゆっくりと俺を見上げる。その目は『まさか、知っているの?』と驚きと疑問で瞬きすら出来ないようだった。
「こっちだったよな」
俺は返事を待たずに仏壇のある座敷へと向かった。リビングと廊下を挟んで向かいにある座敷の襖を開けたところで、あいつが我に返った。
「ちょっと待って!」
追い縋る様な声に振り返り「大丈夫だから」と微笑む。そのまま中に入り、仏壇の前で正座した。
仏壇に飾ってある写真を見つめる。4人の在りし日の笑顔は俺を受け入れてくれるだろうか。俺は胸いっぱいに空気を吸い込むと、頭を下げた。
「美緒のお父さん、お母さん、それから拓都のお父さん、お母さん、ご無沙汰しています」
あいつの両親には、付き合い始めた時にはすでに亡くなっていて、あの頃初めてあいつの自宅を訪れた時、今と同じように仏壇の前で挨拶をした。
そして、あいつのお姉さん夫婦、つまり拓都の両親とは、同じ時に元気な姿の二人とお会いしたのだった。
背後で息を呑む気配を感じたが、こちらへ近づく様子は無く、俺はこのまま言葉を続ける事にした。
「美緒が大変な思いをしていた時に、何も力にも助けにもなれず、すいませんでした。でも、これからは、私が美緒と拓都を守ります。どうか、私に、美緒と拓都を任せてください」
再び頭を下げる。もちろん返事など聞こえはしないが、あいつからの反論も無く、顔を上げると4人の写真が優しく微笑んだ気がした。
俺は立ち上がると後ろを振り返った。入り口の所であいつは膝を付いて座り込み、俯いて涙を流していた。
この涙は悲しみの? 喜びの? それとも……。
あいつの涙の訳を一瞬逡巡すると、名を呼んだ。しかし、耳には入らないのか、そのまま涙を流している。
俺はあいつに近づき、あいつの前に正座すると、もう一度名前を呼んだ。
「美緒」
やっと俺の声に気づいたのか、あいつは顔を上げた。涙に濡れた瞳にドキリとする。俺はそれを誤魔化す様に「美緒、酷い顔しているぞ」と笑うと、ハンカチを差し出した。
あいつはハンカチを受け取ると、必死で涙を拭いている。余り人に涙を見せたがらない事を思い出し、その様子に少し頬が緩みそうになった。しかし、今はあいつがどう思っているかを考えるより先に伝えなければと、俺は顔を引き締めた。
「美緒、さっき美緒のご両親とお姉さん達に言った事は、本気だから……」
目元を拭っていたあいつが、俺の言葉に手を止めてこちらを見た。俺の思いをこめた眼差しと不安に揺れるあいつの眼差しがぶつかる。
ああ、こんなあいつを見るのはいつ以来だろうか。天邪鬼でいつも強がるあいつが、恋愛に関しては臆病で、強がりながらもこんな風に不安な眼差しを隠しきれていない事があったっけ。
今すぐ抱きしめたい気持ちを抑えながら、俺はこみ上げる笑みをフッと逃がした。
「美緒、擦り過ぎだよ。目が真っ赤になっている」
あいつの手からハンカチを奪うと、俺はあいつの目元の涙を擦らないように抑えながら吸い取る。あいつは驚きながらも、されるままになっていた。
「本郷さんから、何もかも聞いたんだ」
「えっ? 美鈴から?」
「ああ、昨夜、先生達のクリスマスパーティがあって、その後で時間を貰って話をした。最初は拓都の事を確かめたかっただけなんだ。以前に拓都がお姉さんの子供だって、同僚の先生から聞いていたから。本当は、美緒がその事を話してくれるのをずっと待っていたんだ」
「ご、ごめんなさい」
俺は真実を知った経緯を話しながらも、無意識に責めるような言い方をしてしまったようだ。あいつの謝罪の言葉を聞いて、俺は慌てた。
「いや、違うんだ。美緒を責めている訳じゃないんだ。俺が勝手にいろいろ誤解していただけだから。でも俺は担任と言う立場もあったし、こちらからいろいろ聞く事ができなくて。それに、美緒の携帯の待ち受けが虹の写真だって聞いて、美緒から話してくれるのを、もう待てなくなって……。それで本郷さんに直接聞いてみたんだよ」
俺の必死の言い訳を聞いて、何を思ったのかあいつは勢い込んで顔を上げ、俺の目を見た。
「あの虹の写真は、携帯の待ち受けにしている虹の写真は、あなたが送ってくれた写真だから!!」
あいつも俺と同じように必死になってまくし立てる。
あいつの勢いに少々怯み、身構える間もなかった俺は、思いもよらない言葉に拍子抜けして思わず笑いをこぼしてしまった。
「そんな事、わかっているよ。ちなみに俺の待ち受けは、美緒からの虹の写真だから」
ああ、夕べのメールはこの事が言いたかったのか。たしかに他の誰かから送られた虹の写真かもと思いはしたけれど。俺がそんな風に疑っていると思ったのか。
同じ様にあいつも俺の待ち受けが他の誰かから送られた虹の写真だと、西森さんのように疑っていたのか。
「なぁ美緒、美緒の気持ちも俺と一緒で、あの頃と変わらないと思ってもいいんだろう? あのメールはそう言う意味だったんだろう?」
急に不安になった俺は、あいつの本意が知りたくて、あいつの顔を覗き込むように尋ねた。
「怒ってないの? 私の事、恨んでないの?」
え? そんな事を気にしていたのか。
そうだよな、普通だったら相手の裏切りを怒ったり、恨んだりするんだろうな。
あの時の俺はどうだった?
心の奥底へ押し込めていた記憶の蓋を開ける。
「確かに、美緒と別れた時は、すごいショックだったよ。でも、怒るとか恨むとかじゃなくて、自暴自棄になって……」
俺の話と共にあいつの表情が罪悪感で歪んで行く。
「ごめんなさい。私……」
「いや、違うんだ。あの時は、だよ。でもあの後、義姉さんに諭されたんだ」
又謝らせてしまった事に慌て、俺はフォローするように言い募る。
「お義姉さんって、お兄さんの奥さんの?」
「そう、義姉さんに、慧君の想いってその程度のものだったのって怒られて、好きな気持ちは簡単に消せないから、無理に消す必要はないって、新しい恋ができるまで、相手の幸せを願って想い続ければいいって言われたんだよ」
俺は遠い目をしてあの頃の記憶を手繰り寄せる。
「その後、教育実習や採用試験で忙しくなって、教師になってからも仕事の事で一杯で、恋愛なんて考えられなかった。そして3年経って、もういい加減、新しい恋でもした方がいいかなって思っていた時だった。もう二度と美緒には会えないって思っていたから。この市で教師をしていたら、どこかですれ違う事もあるかもしれないって思ったりもしたけど、まさかこんな形で再会するなんて思わなかった。でも、会えてよかったよ」
俺はここまで話して、やっと安堵の笑みを浮かべた。もう罪悪感なんて持たなくて良いんだよと言外に伝えるために優しく微笑む。
けれど、あいつはまだ自分を許せないのか、何か考え込んでいるようだった。
「でも、でも、美鈴から別れの本当の理由を聞いたんでしょう? 嘘まで言って別れたって。それでも怒らないの?」
やはり、あいつはずっと自分から別れ話をした事を苦しんでいたのだろう。
そんな事、気にしなくても良いのに。俺のために吐いた嘘を、どうして怒れる?
俺は安心してほしくて、又優しく微笑んだ。
「美緒、もう今更だよ。それよりも、あの時、俺が実家へなんか帰っていなかったらって悔やまれるよ。そうしたら、お姉さん達が亡くなった事も分かっただろうし、美緒がどんな決意をしたって、別れたりなんかしなかった。俺の方こそ、ごめんな。美緒の辛い時に傍にいてやれなくて……」
俺の方こそ、あいつのために何もしてあげられなかったじゃないか。どんなに悔やんでも悔やみきれないと言うのに。
俺が懺悔の様に悔いた思いを話している内に、あいつの目から涙が決壊した。ついにはハンカチに顔を伏せ、首を横に振りながら「ご、ごめん、なさい。ごめんなさい……」と謝罪を繰り返す。
「美緒は悪くないよ。学生だった俺を巻き込みたくなくてした事だって分かっているから。美緒の性格を考えたら、仕方なかったって思っている。きっと、俺達二人にとって避けられない運命だったんだと思う。でもそれを乗り越えたから、こうして又再会できたんだと思うよ」
優しく話し掛けると、あいつは恐る恐る顔を上げて俺を見た。その瞳は涙で覆われている。きっと俺と同じように、自分を責めて苦しみ続けたのだろう。
もう自分を許してあげてほしいと願いながら、あいつのハンカチを握る手をそっと自分の手で包み込み、「美緒」と呼び掛ける。
「美緒、もう何もかも終わった事だよ。俺達はまたここから始めるんだよ。だから、美緒、返事を聞かせて欲しい」
「返事?」
「ああ、さっきご両親にお願いしたように、美緒と拓都を守りたいんだ。美緒と拓都の家族になって助け合いたいと思っている。どう? 俺も仲間に入れてくれるかな?」
あいつはしばし考えた後、「あ……あの、私なんかでいいの? 拓都もいるし……」と恐る恐る問いかけた。
「だから、美緒と拓都の家族になりたいって言っているだろ?」
この言葉で又あいつの涙は溢れ出し、反対に言葉は出てこなくなった。代わりに何度も頷いて承諾した事を伝えてくれた。
「ありがとう、美緒。それにしても、今日の美緒は泣き虫だな。拓都が心配するぞ」
もう一度あいつが握り締めるハンカチを奪うと、あいつの涙を拭う。
「なによ、慧が泣かすんじゃない!」
あいつの口からいつもの強がりな言葉が出て、やっと元に戻れたような気がした。
そんなあいつをからかう気持ちと、安堵の気持ちでクスッと笑って見せると、あいつもクスッと笑いを漏らした。
もう良いよな、抱きしめても。早くこの手にあいつが戻ってきた事を実感したいんだ。
「美緒、抱きしめてもいいかな?」
にじり寄って耳元でささやく様に尋ねる。あいつは耳を仄かに赤く染めながら、小さく頷いた。
俺はあいつをそっと抱き寄せ、だんだんと強く抱きしめる。
ああ、やっと辿り着いた。もう二度と離しはしない。
「美緒、虹の魔法は本当だったな」
腕の中にいるあいつの耳元でささやく。
お互いに想い合うもの同士にしか架けられない虹の魔法。
今度こそ消えない虹を架けよう。永遠に消えない虹を。




