#60:クリスマスの朝
クリスマスの朝、目覚めはすっきりとしていた。冷たい空気も心地よい程だ。俺は気合を入れる。もう逃がしはしない。あいつも、運命も、未来も。
いつものお休みの日とは違い、早くに目が覚めてしまった。けれども結局起き出したのはいつもと同じく、少しゆっくり目の時間で、俺は顔を洗うと朝食の準備を始めた。朝食と言っても、インスタントコーヒーとトーストと昨日の朝に作り置きしておいたゆで卵、それからインスタントのカップスープだ。
一人のダイニングテーブルで、それらを食べながら、本日これからの行動を頭の中でシュミレーションしてみる。
もう迷わない。突き進むのみと自分を鼓舞する。そして俺は「よしっ!」と声を上げ、立ち上がった。
区画整然と戸建住宅が並ぶ住宅地は、クリスマスと言えどもいつもと変わらぬようだが、俺の目にはどこかが違って見えた。
あいつに振られた翌日、もう一度あいつに会いたくてここまで来た事を思い出した。あの時の絶望にも似た胸の痛みが甦りそうになって、俺は思わず「大丈夫」と声に出していた。
あいつの家の駐車場に停まるミニクーパーに、俺は目を細めた。家庭訪問の時も思ったが、この車を今も大切に乗り続けていてくれる事が、単純に嬉しい。
あの頃、あいつはこの車を友達のようにジュディと名付け、あいつの住む街から俺の所まで何度も往復していた。まるでジュディが二人を繋ぐ虹のように。
ミニクーパーを見つめながら思い出に浸る俺は、少々感傷的になっているのかもしれない。不安のために現実逃避しているのかもしれない。
そんな自分を叱咤し、すぐに頭を切り替えて、現実に立ち向かうべく車を降りた。
玄関のチャイムを鳴らすと、こちらへ駆けてくる足音がした。今更ながら心臓がドキドキと騒ぎだす。
ガチャッと言う音と共に開けられたドアから覗いたのは、予想より視線を下げた所だった。
「守谷先生!」
拓都の大きな声で迎えられた俺は、少々肩すかしをくらったような残念さがあった。
「守谷先生、どうしたの?」
拓都の元気さに少し戸惑った俺は、すかさず問いかけて来た拓都の声に我に返る。
「拓都、おはよう」
視線を下げて拓都に微笑むと、近づく足音に気付き顔を上げる。そこには驚いた顔をしたあいつが居た。
「おはようございます。朝早くからすいません。拓都に話があって……」
微笑みながら挨拶をすると、すかさず拓都が「僕? 先生、僕に話があるの?」と目をキラキラさせて見上げて来た。
「おはようございます。拓都、先生に御挨拶をしたの?」
まるでしっぽを振る子犬の様な拓都を、あいつは落ち着いた声で注意する。拓都は急に真面目な顔になり、「守谷先生、おはようございます」と深々と頭を下げた。
どこか不機嫌そうにこちらを窺うあいつの視線を感じながら、俺は嬉しそうに目を輝かす拓都に向かって「ああ、サンタさんに頼まれた事があるんだよ」と答え、改めてあいつに向かい「ちょっと拓都と二人で話をさせてもらえませんか?」とお願いした。
「サンタさん? 先生サンタさんとお友達なの? あのね、僕の家にも昨夜サンタさんが来てくれたんだよ」
拓都への答えは益々好奇心を刺激したようで、拓都は興奮して話しだした。そんな俺達をあいつは怪訝そうな目で見て「とにかく上がってください」とスリッパを出した。
あいつが不機嫌なのは、何のアポもなく突然訪ねてきたからだろうか、それとも昨夜のメールの返事をしなかったせいだろうか。
後を付いてリビングへ向かう俺は、拓都が嬉しそうに話すクリスマスプレゼントの話を聞きながら、頭の片隅でそんな事を考えていた。
勧められるままリビングのソファに落ち着き、あいつが台所へ行く後ろ姿を見つめる。すぐに拓都がサンタクロースに貰ったと言うプレゼントのグローブとボールを持って来て、嬉しそうに見せた。
やはりと言うか、もちろんパパなんてプレゼントできないけれど、拓都の喜ぶプレゼントが用意できたようで、俺は安堵する。その上、あいつ自身もサンタクロースからグローブを貰ったと用意し、キャッチボールが出来るように準備するなんて、本当に良い母親だと思う。
「ママもグローブを貰ったから、後で公園でキャッチボールするんだよ」
拓都の嬉しそうな言葉を聞いていると、パパが欲しいとお願いした事なんてすっかり忘れているような気がした。あえて蒸し返すような話をする必要はあるのだろうか。
「それじゃあ、私は座敷の方に居ますので、拓都をよろしくお願いします。拓都、お話が終わったら、ママを呼びに来てね」
あいつは俺の前にコーヒーを出すと、俺に頭を下げ、拓都に微笑みながら話しかけた。
俺は迷いながらも頷いて見せ、拓都も少し神妙な顔つきになって小さく頷いている。
あいつが何の説明も求めず、俺の要望を聞き入れてくれた事に、揺れていた俺の決意は、改めて固まった。そして、リビングを出て行く後姿に、拓都の事はまかせてくれと心の中で呟いた。
俺はコーヒーを一口飲むと、ソファーから降りて床のラグの上に座っていた拓都と向き合った。拓都の目を見つめ「拓都」と呼び掛ける。拓都は俺が真面目な顔をしているからか、先程までの上機嫌が鳴りを潜め、少し不安気に瞳が揺れた。
「拓都はサンタさんにパパを下さいってお願いしただろう?」
まだ一年生の拓都に回りくどい言い方をせず、俺は単刀直入に話を切り出した。
拓都は少し驚いた後、コクンとうなずいた。
「でも、サンタさんのプレゼントはパパじゃなかったよな?」
拓都は俺の言葉にハッとしたように俺の顔を見上げた。そして、神妙に「うん」とうなずいた。
「サンタさんは、とても困ったらしいんだ」
「え? どうして?」
「拓都のパパは誰でもなれる訳じゃないんだよ。キャッチボールやゲームが上手だからと言って拓都のパパになれる訳じゃないんだ。拓都のパパになるには、ママと拓都にとって特別な人じゃないとダメなんだよ」
どこまで拓都が理解できるか分からないけれど、拓都に伝わるようにと願いながら、俺は話し続けた。拓都は俺の顔を見上げ頷きながら、一生懸命に聞いている。
「特別な人と言うのは、ママの大好きな人じゃないとダメなんだ。だから、拓都のパパになれる人はママの大好きな人で、出来れば拓都もその人が好きで、その人もママと拓都が大好きで守ってくれる人じゃないとダメなんだよ」
「ママの大好きな人……」
拓都は思ってもいなかった事を言われた様にキョトンとした後、小さく呟いた。
「そう、だからサンタさんは困ったんだよ。サンタさんにはそんな特別な人を探し出す事なんて出来ないからね。おそらくママはサンタさんが困っているのを知って、拓都にグローブとボールをプレゼントする事を教えたんじゃないかな? ママはね、拓都がキャッチボールをしたいからパパが欲しいとお願いした事、ちょっと悲しかったと思うんだよ。だからママが自分の分のグローブも用意してもらったのは、せめてパパの代りにキャッチボール出来たらと思ったからだと思うよ」
「ママは悲しかったの?」
拓都は不安げな表情で俺を見上げる。
「そうだね。ママはパパの居ない分も頑張っているからね」
俺の言葉を聞いて俯いてしまった拓都を見て、酷く罪悪感にかられた。けれど、拓都に分かって欲しかったんだ。パパとは、物のように簡単におねだりできる存在じゃないって事を。
「俺から話す事はこれだけだ。もし、分かってくれるのなら、ママを悲しませてしまった事、謝ってこようか?」
俺は出来るだけ優しく、気持ちを込めて拓都に問いかけた。拓都は提示された解決策に少しホッとしたように微笑み、「うん」と頷いた。
「俺はここで待ってるから、ママの所へ行って謝っておいで」
俺は笑顔で拓都を送り出す。リビングを出て行く後ろ姿を見ていると、俺はその特別な人になれるのだろうかと言う不安が、胸の中をじわじわと侵食して行くのだった。
一人きりのリビングで、俺はソファーに座ったまま、見るともなしに窓の外へ目をやった。
あいつは拓都から話を聞いて、怒っているんじゃないだろうか?
何の相談もなく勝手な事をしたと、怒ってもおかしくない。
いくらあいつの友人から相談されたからと言っても、あいつから相談された訳じゃないのだから。
ガチャリとドアの開く音にそちらを見ると、拓都とその後ろに居るあいつが見えた。俺は慌てて笑顔を浮かべる。
「せんせー、ママに謝ったよ」
拓都が嬉しそうに笑いながら駆け寄ってきた。
「そうか、拓都、頑張ったな」
拓都の笑顔にホッとして、拓都の頭を撫でてやる。
「ママね、怒ってなかったよ」
「そうか、ママは優しいからな」
そう言うと、拓都は嬉しそうにうんと頷いた。
「それじゃあ、拓都、先生はお母さんと大事な話があるから、拓都は自分の部屋で待っていてくれるか?」
いよいよだ。俺は自分に心の中で活を入れる。あいつが驚いた顔をして、こちらを見ているのを横目で確認しながら、拓都に目線を合わせながら微笑んだ。
「うん、わかった。昨日図書室で借りてきた本を読んでいるね」
拓都は元気良く返事をすると俺に手を振って、リビングの入口の所に立ち尽くしていたあいつの横をすり抜け、二階の自室へと階段を軽い足取りで上がって行った。




