#54:拒絶の意味
病院を後にした俺は、再び小学校へ戻り仕事を続けた。どんなに仕事に集中しようと思っても、あいつの不安そうな横顔がちらつく。拓都は大丈夫、とまた根拠のない言葉に願いをかける。そして俺は雑念を振り払うように頭を振ると、無理やり仕事に集中した。
どうにか仕事を終えて学校を出た時には19時半過ぎていた。特に遅くも早くもない時間だが、いつもより疲れている気がする。
あいつはどうしているだろうか。きっとあのまま、何も食べずに拓都の傍にいるに違いない……そう思うと居てもたってもいられず、コンビニでパンとおにぎりと温かいお茶を買って、もう一度病院へ行った。
病室の閉められたカーテンの前まで来た時、小さな声が聞こえてきた。
「お母さん、お姉ちゃん、お兄さん、拓都を連れていかないで。私から拓都を奪わないで。
拓都、ママを置いて行かないで……」
あいつの嗚咽交じりの声は、はっきりと聞き取れなかったが、泣いているのがわかった。
そっとカーテンの隙間から入ると、ゆっくりとあいつに近づく。物音に気付いてこちらを向きかけたあいつを、俺は思わず背後から抱き締めていた。
「美緒、俺が守るから思いっきり泣けよ」
自分でも用意していなかった言葉が出て驚いたが、自分の心そのままだと焦るよりも覚悟をした。
「慧……」
驚いて固まったあいつの口から俺の名前がこぼれた時、時間は遡り、周りの全てが飛んだ。しかし、次の瞬間、あいつは思い切り身をよじって拒絶した。
「守谷先生、止めてください」
あいつの涙で潤んだ瞳の中の冷たい拒絶に怯んで、俺は後ずさった。そして、買ってきた食べ物を差し出しながら、「お母さんが参ってはいけないので、何か食べて下さい。拓都のために頑張ってください」と、俺の口から出た言葉だろうかと思う程、冷静な言葉が流れた。
「ありがとうございます」
まるで先ほどの事はお互い無かった事にしようと暗黙の了解があったように、他人行儀な言葉のやり取りで、そのまま俺は踵を返して病室を出た。
病院を出て、車に乗ったところで胸が詰まった。
わかっていたさ。もう俺はあいつにとって過去の男でしかないって事ぐらい。
そんな弱音が出るくらい先程の拒絶は、このところ浮かれていた俺を打ちのめした。
俺の後に付き合っていた奴の事が忘れられないのか?
それともまだ付き合っているのか?
今のあいつに拓都と仕事以外に使う時間的余裕は無いと確信しているし、拓都に隠して誰かと付き合うような器用な真似は、あいつには無理だろう。それでも心だけは誰にも縛れない。
目の前に現実を突き付けられても、心の中のこの想いだけはどうしようもなくあいつを求めていた。
翌日の土曜日の午後、あいつからメールが届いた。
『昨日はご心配をおかけしました。拓都は元気になりましたので、退院して自宅へ戻ってきました。このまま異常が無ければ、月曜日から学校へ行ってもいいそうです。いろいろとお気使い頂き、ありがとうございました』
いろいろお気遣いいただき……か。そんな言葉で俺の気持ちまで一括りにしてしまうのか。
写メールで浮かれていた気持ちは、嘘のように元気が出ない。自分のクラスの児童が大変な時に、個人的な感情に振り回されている自分が情けなく、教師失格だと余計に落ち込んだ。
それでも拓都が元気になった事は、こんな情けない俺の微かな救いだった。
『連絡ありがとうございます。拓都が元気になって安心しました。でも油断せずにこの土日、ゆっくり休んでください。お母さんも体に気を付けて下さい』
俺は担任に徹してメールを返した。あいつと俺の距離は、再び元の位置まで戻ってしまった。
もしかすると近づいたと思っていたのは、俺の錯覚だったのかもしれない。
*****
翌週の月曜日、拓都は元気に登校してきた。友達に囲まれて笑っている拓都を見て、心から安堵する。優先すべきは担任として児童の安全第一と言う事。個人的感情なんて後回しだ。
そんな風に自分を諌めても、個人的感情は沈みこんだままで、それでも子供達の前ではいつもと変わらずにいるつもりだった。
いつものメンバーで久々に夕食を食べる事になり、それぞれの車でいつものお店に集合し、自分たちの指定席のような大テーブルに7人が向かい合った。
「守谷先生のクラスの児童、大変でしたね」
斜め向かいに座った愛先生が声をかけて来た。
「そうそう、救急車が来て驚いたの。守谷先生のクラスだったわね」
愛先生の隣に座る岡本先生もこの話題に乗る。テーブルの皆から同情のようなまなざしを向けられ、焦ってしまった。
「ご心配をおかけして、すいませんでした。怪我もたいした事無く、今日元気に登校してきましたので、大丈夫ですよ」
微笑みながら、もう大丈夫アピールをしたが、隣に座る広瀬先生に「まあ、そんなに落ち込むなって」と言われてしまい、そんなに落ち込んでいるように見えるのだろうかと、さらに気持ちが沈んだ。
「仕方ないよ。救急車を呼ぶような騒ぎになったら、監督責任がどうのって学校に不満をぶつけてくる親もいるしね。今回はどうだったの? 親は怒ってなかった?」
谷崎先生が慰めるように言ってくれるが、落ち込んで見えるとしたら個人的感情からなので、どうにも居たたまれない。
「大丈夫です。保護者の方も反対に謝ってくださるような方でした。本当に心配かけてすいません。俺は落ち込んでいませんから、大丈夫です」
早くこの話題から離れてくれるよう、元気さをアピールする。みんなもどう思ったのかわからないが「まあ、大事にならなくて良かったね」と話題を切り上げてくれ、俺は心の中でホッと息を吐いた。
「ところで、今月はどうする? M大の大学祭はもう終わっちゃった?」
いつもお出かけの計画は岡本先生主導で話が進む。去年のM大の大学祭に皆で行ったから話しが出るのだろうけれど、今年は先約がある。
「今度の土日ですけど、サークルの先輩が来るので約束してるんですよ。だから今年は俺は無理です」
「なんだぁ。そっか……じゃあ、守谷先生抜きでM大の大学祭行きますか?」
岡本先生は少しトーンダウンしたが、それでも皆に提案している。余程M大の大学祭が良かったのだろうか?
「香住ちゃん、私達の母校の大学祭も同じ日だけど……」
愛先生が申し訳なさそうに言うと、岡本先生は「え? そうだっけ?」と驚いたように愛先生を振り返った。
「バスケの公開試合があって、応援に行く約束してるから……」
「へぇ、それも面白そうだね」
愛先生の言葉に山瀬先生が反応した。
「じゃあ今年はS大へ皆で行こうか?」
谷崎先生も乗り気のようだ。皆も同意して、S大の方へ行く事になったようだ。バスケの試合は見てみたい気もするが、伊藤先輩と久しぶりに会える事も楽しみだ。
「俺は残念だけど、皆で楽しんで来て下さい」
俺がそう言うと、俺が参加できない事を思い出したのか、皆のテンションが下がった様な雰囲気になった。
「それじゃあさ、年末年始に皆でスキーに行かないか?」
俺に申し訳なく思ったのか、谷崎先生は新たな提案をした。そして、それはいいと皆で盛り上がり、二泊三日のスキー旅行が決定したのだった。
皆と別れて自宅に着くと、随分疲れたような気がした。自分の中の重い気持ちに蓋をして、無理をしていた事を自覚する。社会人としてどうなんだと自分を責めてもみるが、直近までの浮かれた気持ちからのギャップが大き過ぎて、一人になるとどうしようもなく気分が沈む。
こんな気持ちを誰かに話せれば、少しは解放できるのかもしれないが、今仲良くしている同僚たちにとても話せる事じゃなかった。
その時ふと地元にいる親友の顔が浮かんだ。綾瀬がいるじゃないか。綾瀬にはお盆に会って話したきり、その後の事は話していない。たしかあの時は、あいつは結婚していると思っていたっけ。
綾瀬は幸せの絶頂だった俺を振ったあいつの事をあまりよく思っていない。それなのに俺は人妻となったあいつと再会して、あいつへの想いを自覚したと話したから、あの時の綾瀬はあまり機嫌が良くなかった。
綾瀬とはそんなに連絡を取り合う事はないが、俺が実家へ帰れば必ず会う友達だった。
「綾瀬、久しぶり。元気だったか?」
こんな風に何の用事もなくただ自分の心情を吐き出したくて電話をするのは、あいつに振られた時以来かもしれない。
「守谷、どうした? こっちへ帰ってるのか?」
「いや、帰っていないけど……今電話していても良いか?」
「なんだ? 真面目な話しか?」
綾瀬の少しいぶかしんだ声が返ってくる。
「まあ、その……」
言いあぐねていると綾瀬の方から「元カノの事か?」と言い出してくれた。
「そうなんだけど……この前綾瀬と会ってから、いろいろ事情が変わってきて……」
俺はあいつが結婚していなかった事、お姉さん夫婦が亡くなり残された甥と親子として生活している事、その事実をあいつは学校に隠している事、そして最近の近づいた二人の距離とあいつから拒絶されるまでの経緯を、綾瀬の質問にも答えながらすっかり話した。
「なんだかちょっと元カノの事、見直したな」
話し終わった後の綾瀬の感想に驚き、その意味が分からず「どうして?」と問い返す。
「守谷を振った時は酷い元カノだと思ったけど、今回自分の振った相手に甘えずにきちんと断ったからさ」
綾瀬の説明を聞いても、イマイチ理解できなくて、「どう言う意味だよ」と文句を言うように再び問い返した。
「だからさ、自分が弱っている時は誰かに縋りたくなるものだし、今傍にいて自分の事を想い続けてくれていた元カレが手を差し伸べたら、甘えたくなるもんだろ? 守谷の後に付き合ってたって奴は今は傍にいる様子が無いみたいだし、別れたからこちらに引越して来たんじゃないのか。そんな時に嫌いになって別れた訳じゃない元カレと再会したら、少しは気持ちが動くんじゃないかな。それなのに元カノは守谷に甘えず拒絶した。それは元カノの中でお前を傷つけたと言う罪悪感があるから、けじめとして拒絶したんじゃないかと思うんだよ」
綾瀬の説明を聞いてストンと胸に収まったのは、けじめとして拒絶したと言う事。そう、あいつなら『自分から振ったのに頼れる訳無い』と思うに決まってる。
写メールを送り合ってくれたのは、少しは気持ちが動いてくれたのだろうか?
落ち込んでいた俺は、綾瀬の言葉に縋る様に納得して、やはりもう少し頑張ってみようと、長く抱え込んできたこの想いをもう一度しっかりと抱きしめた。




