#39:一学期個別懇談会
いったい誰が、どういう思惑で……。
あの投書事件があってから、俺の頭の中はこの疑問がグルグルと駆け巡っている。
あの日、俺が拓都を送って行った事を知っているのは、学童の松田先生だけだ。けれど、松田先生がこんな事をする理由がない。殆ど接点が無いし、あれからも会えば明るく挨拶を交わすし……。
やっぱり誰かに恨まれているのか……それとも、俺の事を知る誰かが、たまたまあの日の事を見かけて、面白半分に写真を撮って投書して来たとか……でも、そこにも恨みの気持ちが無いとそこまでしないのじゃないだろうか?
投書事件はいつの間にか同僚達の知るところとなり、以前の事があるせいか、同僚達の反応はまちまちだった。校長のように信じてくれる人もいれば、やはりあいつはと以前の事もひっくるめて偏見の眼差しを向ける人もある。疾しい事が無いのなら相手の名前を言えばいいのにと言う雰囲気があるのも感じていた。
それでも俺は何も言わず、いつもと同じようにしているつもりだった。けれど、やはり気落ちしているのは悟られていたようで、投書事件のあった週の金曜日に夕食を食べに行こうと広瀬先生が誘ってくれたのは、俺を元気づけるためなんだろうと感じていた。
広瀬先生の車の後を自分の車で付いて行くと、週末で駐車場がそこそこ埋まっている洋食店へ入って行った。
中へ入って行くと他のメンバーにも声がかけてあったのか、すでにテーブルに着いていた岡本先生と谷崎先生がこちらを見つけて手を上げた。
俺は何も聞いていなかったので少し驚いたが、きっとみんなに心配をかけていたのだと反省した。
「金子先生と愛ちゃんは用事があって無理だって」
俺達が近づいて行くと岡本先生が明るく言った。向かいに座った谷崎先生も「山瀬も今日は予定あるってさ」と言葉を続ける。どうやら急なお誘いだったようだ。
「すいません。なんか、いろいろ心配をかけて……」
俺は谷崎先生の隣に座りながら、頭を下げた。学校内ではこの事に皆は触れないけれど、きっと気になっているだろう。
「守谷、もう気にするなよ。何もやましい事が無いんだから堂々としていればいいから。それより飯食おう」
広瀬先生がそう言うと、他の二人もそうそうと頷いている。
ある程度食事が進んだ所で、岡本先生が好奇心一杯の眼差しをこちらに向けた。
「それにしても、守谷先生にそんなに親しい保護者の知り合いがいるなんて、驚きだわ」
「そうだよな。自分のクラスの保護者って言う訳じゃないんだろ?」
岡本先生の言葉に触発されたように、谷崎先生も探る様な疑問を口にする。
そんなに親しいって……。自分のクラスだけど、だからと言う訳じゃないし……。
「そんなに親しい訳じゃないですけど、困ってみえたから……」
俺は岡本先生の言葉に言い訳するように答えたが、谷崎先生の疑問にはスルーした。
やはり皆、子供を預かる程の知り合いの保護者が誰か知りたいのだろう。
言わない事で余計に疑惑を高めている事は分かっていたが、やはりこれだけは言えない。
「あ、もしかして、PTA会長? 大学の恩師の奥様だって言ってたよね? 今でも交流はあるの?」
岡本先生は、秘密を暴いたぞと言わんばかりの興奮で、意気込んでいる。
「PTA会長とは大学時代は恩師を通じて交流はあったけど……今回の件はPTA会長ではありません」
俺はこの上PTA会長まで巻き込んでは申し訳ないと思い、きっぱりと否定した。途端に岡本先生が「なーんだ」とがっかりした口調で言った。
「おい、それ以上詮索するなよ。守谷はその知り合いを巻き込みたくないから言わないんだから。そっとしておいてやれよ」
広瀬先生の言葉にホッとしていると、谷崎先生も「そうだな」と同意してくれた。けれど、何となく岡本先生は不満そうだ。
「今回の投書事件に、愛ちゃんちょっとショックを受けてたみたい。またフォローしてあげてね」
岡本先生の言葉に一瞬どうしてと疑問を感じたけれど、またいつものように俺たちをくっつけようとしている岡本先生の先走りだと思い、困惑のまま頷いた。
みんなの思惑に乗って気持ちをこちらへ向けていこうとは思っていたけれど、こんな風に決め付けたよう言われると、どうにも気持ちが付いていかなくなる。
あの日拓都を預かった直後はこのままではいけないと焦って、周りの思惑に流されようとしたけれど、今すぐ愛先生に交際を申し込むとかまでは考えていない。ただ皆とこうして一緒に食事したり、遊んだりしていくうちに自分の気持ちが新しい恋に向かっていけばいいなと思っていただけだった。
本当は皆のこの雰囲気を利用しているだけなのかもしれない。だから愛先生の気持ちがどうのと言われると、何となく気持ちが引いてしまう。
こんな中途半端な状態ではよくないと思いながらも、こうしてあいつを巻き込まないように口を閉ざしている自分の想いはいったいどこに向いているのか、自分自身も分からなかった。
「そう言えば広瀬先生、キャンプの下見、どうなりました?」
谷崎先生が俺の思考を断ちきるように明るく話題を変えた。
キャンプ?
「ああ、予定通り8月7,8日で予約入れたから、準備しておいて」
広瀬先生が何でも無い事のように答えるが、俺には聞き捨てならない話題だ。
「キャンプの下見って、6年生のキャンプですか?」
広瀬先生と谷崎先生は6年生の担任だ。6年の担任全員で下見に行くのだろうか?
「俺と谷崎先生はキャンプの同行は初めてなんだ。だから下見しておこうかと思ってね」
「二人だけですか?」
「その予定だけど……もしかして、守谷も行きたいの?」
広瀬先生に尋ね返され、さっきまで俺の心に覆っていた暗い雲が、一気に吹き飛んだ。
「是非混ぜてください」
「そうか、じゃあ、山瀬も誘うか」
「いいですね」
俺達男三人が盛り上がった所で、岡本先生が「私達も混ぜてくださいよ」と声をあげた。
こうして男女7人の七色峡キャンプ場でのキャンプの計画が立ち上がった。
*****
投書事件の事を考えると憂鬱になるけれど、キャンプの計画が気分を浮き上がらせた。久しぶりの本格的キャンプにワクワクしてしまう。けれど、1学期の懇談の日が近づき、再びあいつと顔を合わせなければいけない事を考えた時、俺は別の懸念がある事に気付いた。
もしも投書をして来た奴が、あいつを特定して向こうに何らかの攻撃を仕掛けたとしたら……?
また、今は何もなくても、今後何かあったらと思うと、心落ち着かない。
「篠崎さん、お待たせしました。入ってください」
懇談の日、あいつの順番が来て、教室へと招き入れると、ショートヘアのあいつが視線を合わせないようにしながら緊張した面持ちで入って来た。
そんな事だけでも俺との間にきっちりと線を引きたがっているように感じられて、僅かに胸の痛みを感じてしまう。
バカだよな。いつまでも……。
「失礼します。よろしくお願いします」
あいつは向かい合わせにくっつけた机の向かい側まで来ると、徐に頭を下げた。
「どうぞ、座ってください」
俺達は過去を封印して、まるで茶番のように担任と保護者を演じる。
いや、演じている訳じゃなくて、これが現実。
半月前の拓都を預かったあの日、お互いの立場を超えてプライベートで近づいた記憶が、今の現実と交差して酷く居心地が悪い。
目の前に座ったあいつもこちらを見ようとしないのは、同じように感じているのだろうか。
きっとあの日の事は無かった事にしたいのだろう。でも、別の懸念については確かめなければ……。
一瞬、目が合う。けれどすぐにこちらから目をそらしてしまった。
情けない。怖がってどうする。
「あ、あの……先日は、拓都がお世話になって、ありがとうございました」
こちらから先にこの話題を切り出さなければいけないのに、先を越され驚いてしまった。
「いいえ、気にしないでください」と言いながらも、その先を早く言わなくてはと気持ちは焦れる。
「あ……その事ですが、誰にも言っていないと思いますが、もしも、誰かに尋ねられても、否定してください」
俺は話の道筋も考えずにいきなり一番気になっていた事を口にしてしまった。
俺の中でまだ投書事件について話すべきかどうか迷いがある。いや、やっぱりこれ以上巻き込まないためにも話せない。
「えっ? 誰かに尋ねられるって?」
案の定、あいつは意味が分からず驚いて尋ね返した。
「あの日、学童の先生は、私が拓都君を送って行った事を知っています。その事で誰かに何か尋ねられても、私は篠崎さんのお隣りへ送って行っただけと言う事にしておいてください」
あいつは益々困惑顔で、俺の話の意味を思案しているようだ。
「わかりました。でも、誰かに尋ねられる可能性があるのですか?」
「いや、もしもの事を考えてです。篠崎さんを巻き込む様な事になっては、申し訳ないので……」
「いいえ、お世話になったのは私の方ですから……」
「あれは、私が勝手にした事ですから……気にしないでください」
早くこの話を終わらせたい俺が、これ以上何も訊かないでと願いを込めて言いきるとあいつは、俺の願いが分かったのか、困惑顔のまま遠慮がちに頷いた。
「それでは、1学期の拓都君ですが……これが、通知表になります」
気持ちを入れ替え、先程までの雑念を頭の奥へと押し込み、担任の顔で懇談を始める。
あいつの前に拓都の通知表を広げると、あいつは視線で通知表の評価を順番に追って行く。
小学校の最初の通知表は初めてだろうからと、俺は評価の付け方を説明して行く。
「1年生と2年生の通知表は、各教科の各項目ごとに設定したレベルに達しているか、もう少し頑張った方がいいかの2段階での評価です。3年生からは、これに『よくできる』が加わって、より頑張っている教科の項目については、その成績が付けられます。拓都君は、どれもできているので、心配ないですね」
拓都は『できる』と『がんばろう』の2段階の内、全てが『できる』だった。俺の説明を聞き、通知表を見て安心したのか、あいつの表情が安心したように少し緩んだ。
再会してから見るあいつの表情は常に緊張したような硬いものばかりだったから、あの頃のように柔らかい表情を見るとこちらの気持ちも解れていく。
「学校での友達関係はどうですか?」
あいつは緊張が解れたせいか、母親の顔で問いかけてきた。
「拓都君は誰とでも仲良くできるので、いつも誰かと一緒に楽しそうに遊んでいますよ。特に西森さんのところの翔也君とは仲がいいですね」
「そうですか。良かったです。同じ保育園からのお友達がいなかったから、心配していたんです……」
俺の返答に安堵したのか、あいつは柔らかい母親の顔で心配事を打ち明ける。
俺はその顔を見ながら、これでいいんだと思った。俺達はこんな風に本当の保護者と担任の関係になって行くのだと、どこか安堵にも似た気持ちで感じていた。
「拓都君は素直でとてもいい子だから、大丈夫ですよ」
俺は自然に担任の顔で言い添えた。するとあいつはやっと緊張を解き放った自然な笑顔を見せた。
俺も自然に笑えているだろうか?
これでいいんだと、もう一度思った。
「他に心配事や気になる事がありますか?」
「今のところは特にありません」
「では、初めての夏休みですので、規則正しい生活をさせる様にしてください。拓都君は学童でしたね。それなら、大丈夫ですね。朝顔の鉢は、篠崎さんが持って帰ってください。朝顔の観察も夏休みの宿題ですから」
俺は懇談を締めくくるため夏休みの説明をする。あいつは懇談の最初の時の緊張した表情が嘘のように今は柔らかい表情をして「分かりました」と頷いた。そして、椅子から立ち上がり、通知表と夏休みに関するプリントの入った封筒を持つと、「今日はありがとうございました」と頭を下げて、教室を出て行った。
俺はその一連の動作を目でずっと追った。それはまるで俺の心の中からあいつが出て行くかのようで、教室からその後ろ姿が消え去るまで、俺は視線を外せなかった。




