#38:投書事件
長らくご無沙汰してすいませんでした。
何度も書き直していたのですが、思ったように書けず
スランプ続きでした。
何とか更新に漕ぎ着けました。どうぞよろしくお願いします。
『流されちまえ』
えっ?
どこからか聞こえた声に振り返ると、流水プールの流れが急に早くなった。途端にキャーという悲鳴が聞こえ、隣にいたはずの愛先生が浮き輪につかまったまま流されて行く。気付けば自分も流されていて、さっきまで足が着いていたはずなのにプールの底がどこなのか分からなくなる。
悲鳴を上げたまま流されて行く彼女に何とか追いつき浮き輪に手をかけ顔を見合わせた途端、彼女は安心したように微笑んだ。
その笑みが嬉しくなり、抱きしめようと手を伸ばした所で目が覚めた。
起き上がり寝起きのぼんやりとした頭で、先程の夢を反芻する。
なんで抱きしめようとなんかしてるんだと、自分にツッコミを入れながらも脳裏に残る彼女の笑顔は、先日最後に見たあいつの微笑みだったと気付く。
俺は頭を抱える。
「もう、解放してくれ」
誰に言うともなしに呟いた言葉は、一人きりの部屋に霧散して行った。
唐突に雨の音を耳が捉えたのは、しばらくぼんやりとした後だった。
ハッとして立ち上がり、窓辺へ外の様子を見に行くと、しっかりと雨が降っている。その時不意に背後で携帯が鳴った。
「おはようございます」
携帯の発信者を確認して慌てて繋ぎ、第一声の挨拶をする。
「おはよう。せっかくのプールだったのに、雨だな」
広瀬先生の残念そうな声を聞いて、ハッと閃いた。
さっきの夢の声は広瀬先生だった。そう言えば、以前にそんな事を言われた事があった。
『流されちまえ』
その言葉と共にその後の映像もリピートしかけた時、なんの返事も無い事に不信に思ったのか、もう一度広瀬先生の声が聞こえた。
「おい、守谷、今日どうする? この雨一日続くらしいぞ。延期するか? それともプールはまた別の機会にして、今日は別の所へ行くか?」
「あ、あ……そうですね。他の人達は何と言ってるんですか?」
俺は言葉を返しながら、先程の夢でモヤモヤした気持ちを無理やり頭の奥に押し込んだ。
「まだ谷崎先生としか話して無いけど、流水プールはまたの機会にして、今日はA市にある屋内プールへ行かないかって……」
「谷崎先生はあくまでもプール、なんですね」
そう言って俺は思わず笑ってしまった。広瀬先生も「そうそう」と相槌を打って笑う。
「俺はそれでいいですよ」
「屋内プールだから、競泳用の25メートルプールがあるだけで、ウォータースライダーとかは無けど、いいのか?」
「最近本格的に泳いでないから、たまにはいいんじゃないですか?」
「そうだよなぁ、プールには入っても、子供の指導や監視ばかりだものな」
「俺なんか1年生だから、小さいほうのプールばかりですよ」
「わかった。他の人にも訊いてまた連絡するから」
「お願いします」
結局谷崎先生お勧めの屋内プールへ出かけた。少し遠いけど、ここは穴場なんだと谷崎先生が言うように、プールには常連の様な年配の人達が主で、それほど人はいなかった。
コースロープが張られ、水泳帽が必須のプールだからか、同行した女性達も普段水泳授業の時に着ている競泳用の様なワンピースタイプの水着だったため、谷崎先生は「何でビキニじゃないんだ!」と一人ぼやき、女性達の冷たい視線を浴びていた。
このメンバーで遊びに行くのは気楽で楽しい。これが俺の世界なんだと思う。もう、あいつとは住む世界が違うんだ。今は時折二つの世界が交わる事があるけれど、けして一緒になる事は無い。そして俺は、この世界でこれからも生きていくんだ。
自分で言い聞かせるように理由づけをし、もうあいつの存在に惑わされはしないと心に刻む。
「お邪魔だったかな?」
プールサイドのベンチで愛先生と二人でお喋りをしていると、近づいてきた広瀬先生が、からかうような笑みを浮かべて言った。
「何を言ってるんですか、広瀬先生」
愛先生は恥ずかしそうに抗議したけれど、俺はニヤリと笑い返した。
「邪魔している自覚があるのなら、近づかないでください」
「おお、守谷が開き直った」
お互いに冗談だと分かっていながらも、広瀬先生の眼差しに暖かい物を感じた。隣の愛先生は頬を染めて俯いている。
自分の気持ちも愛先生の気持ちも分からないけれど、周りの思惑と二人を包む大きな流れを確かに感じていた。
これからどうなるか分からないけれど、もう立ち止まっていてはいけないと感じ、俺は力を抜いて流れに身をゆだねたのだった。
*****
翌週の月曜日、いつものように出勤すると教頭先生にちょっとと呼ばれ、校長室へと入って行った。
「守谷先生、こんな物が学校へ来たんだが……」
校長と教頭に対峙するようにソファーに座ると、教頭がA4の封筒から写真をプリントした用紙と文字を印刷した用紙を引き出した。
まず目に留まったのは、『守谷先生は保護者と不倫しています』と言う大きな文字だった。そして次に写真に目をやると、そこにはあいつの後姿と拓都を抱いてあいつと向き合う俺の姿が映っていた。日付と時刻も映し出されている。
あの日、拓都を抱いてエントランスに降りてきた俺に拓都を受け取ろうと俺の前に立ったあいつの後ろから写真を撮ったのだろう。
あまりの衝撃に俺はしばしその写真に見入った。
どうして……誰が……。
「守谷先生、私はあなたを信じていますが、これはどう言う事か説明して頂けますか?」
校長が困惑した表情で俺に問いかけた。それは、疑問形だけれど命令の意味だ。
「私は不倫などしていません。この日は知り合いがどうしても仕事で帰りが遅くなる事になり、子供に鍵を持たせていないと困っていたので、私が子供を預かろうと申し出たのです。ご主人は単身赴任されていて、お願いできる人がいないようでしたので」
俺は出来るだけ落ち着くように自分に言い聞かせながら、簡単に説明した。
「守谷先生、この子供は虹ヶ丘小学校の体操服を着ているからこの学校の児童だね。君のクラスの子かね?」
教頭が痛い所を突く。写真の拓都は顔をそむけているので、誰かはわからない。
あいつを巻き込みたくない。拓都だと分かってしまうと、あいつと知り合いだと説明しなくてはいけなくなる。出来ればそれは避けたかった。
「いえ、知り合いのプライバシーがありますので、誰かはお話できません」
「それでは、疑いを晴らす事が出来ないじゃないか」
教頭がムッとした顔をして語気を荒げた。
「まあまあ、教頭、落ち着いて。守谷先生は仕事で遅くなる知り合いのお子さんを預かっていたと言う事なんだね」
校長は教頭を諌めると、こちらを向いて確認した。
「そう言う事です」
「その知り合いと言う保護者とは、どう言う関係なんだね?」
また教頭が横から口を出す。
「単なる知り合いです。疑われているような関係ではありません」
俺はきっぱりと言った。
「守谷先生、以前の事もあるし、今回はこうして写真まで撮られて、不倫だと疑われている。そんな状態で我が校の保護者だと言うのに相手の事も、相手との関係もはっきり言わないのでは、疑われても仕方ないのではないか?」
俺の返答が気に入らないのだろう教頭は、厳しい顔つきで問いかけてきた。
教頭の言いたい事は分かる。けれど、これだけは譲れない。
「誰が何と思おうと、私は決して不倫などしていません。去年の事も私には非が無いと認めてくださったんじゃないんですか」
「火の無い所には煙は立たないと言うじゃないか。君にそんなつもりがなくても、そう思わせる様な態度を取っていたのかもしれない。今回だって、こんな遅い時間にその知り合いと一緒に居れば疑われても仕方ないんじゃないかね? それにこの写真の場所は君のマンションらしいじゃないか」
俺は教頭の言葉に唖然とした。去年の旦那怒鳴り込み事件の時からこんな風に思っていたのだろうか?
確かに写真は俺のマンションだ。文字を印刷した方に、自分のマンションへ連れ込んでいたと書いてあったが、俺が自宅へ入れたのは拓都だけだ。
「だから、子供を私の自宅で預かっていただけです。それで、知り合いが迎えに来たので眠ってしまった子供を車まで連れて行くところだったんです。知り合いは私の自宅へは上げていません」
俺は教頭と睨み合うように言い合った。
「それでもその知り合いの方からも話を聞かないと、それで誤解される様な行動は慎むように……」
教頭が意気込んで話をする途中で校長が口を挟んだ。
「教頭、守谷先生の話は筋が通っていると思いますよ。それに、去年の事は関係無いですよ。守谷先生はお知り合いを今回のこの投書の件に巻き込みたくないんですね?」
校長は教頭の方を向いて釘をさすように言うと、俺の方に視線を向けて確認するように尋ねた。
「そうです。子供を預かったのは私から言い出した事ですし、知り合いの窮地を助けられて良かったと思っています。ただ、今回の投書は明らかに私を攻撃した物ですから、知り合いには関係ない事だと思います」
「わかりました。守谷先生を信じます。この件はしばらく様子を見る事にしましょう。この投書をして来た人の意図も分からないので、今は騒がない方が良いですね」
校長の信頼の眼差しに感謝しながら、俺は「ありがとうございます」と頭を下げた。
教頭はまだ不服そうだったが、校長が「そろそろ時間ですね」と職員室へ戻る様促したので、俺は立ち上がってもう一度頭を下げると、校長室を後にした。
校長室を出た後、俺は大きく息を吐き出した。
どうして……誰が……。
この疑問が頭の中を駆け巡る。
それにしてもいつまでたってもあいつの事が出て来る。あいつから離れようと思う度、運命が引き戻すような気さえしてくる。
いったいこれは誰の意図なんだ。
堪忍してくれ。
そして、俺が突然の出来事に唖然としていた頃、校長室のドアの前で聞き耳を立てていた人がいたなんて想像すらしていなかった。




