#36:大接近【前編】
いつも通りの梅雨と思っていたら、7月に入ったら晴れ続きで、晴れれば30度を超す真夏日になると、冷房の効いた職員室から冷房の無い教室へと向かうのは少々うんざりとしてしまう。しかし、晴れればプールが出来ると子供達の笑顔は、真夏の太陽以上に輝いていた。
「えっ? プールですか?」
広瀬先生と同じ6年生の担任の谷崎先生が、去年隣の市にできた流水プールに行かないかと声を掛けてきた。それは、いつものメンバーで行かないかと言う事らしい。
いつの間にか定期的にメンバーに声を掛け合い出かけるようになり、いつも誰かが次の行き先を提案する。
先月は雨だったのでボーリングをした。皆ノリが良いので、チーム対抗にすると燃える。そんな時でも必ず愛先生と同じチームになるのは、メンバーの温かい思いやりなのか。
「そうそう、誰かさんの水着姿みたいでしょ?」
ニヤニヤと笑う谷崎先生の問いかけに、いつものように否定も肯定もせず、「谷崎先生だって見たいんでしょう?」と返すと、お互いにハハハと笑いあった。
週の真ん中であるその日もいつもと同じように仕事を終え、まだ職員室に残る先生達に「お先に失礼します」と挨拶をして、学校を出た。
職員用駐車場は校庭の向こう側にあって、いつも校庭の端を通って駐車場まで行く。その駐車場の手前に学童の建物が建っている。丁度その建物から大人と子供が出てくるのが見えた。迎えに来た保護者と児童だと思っていたら、大人の方は学童の指導員の松田先生で、子供は拓都だった。
ランドセルを背負った拓都は、すっかり帰る用意が出来ているようだが、あいつの姿はどこにも無かった。松田先生は拓都に何か話しかけているが、ずいぶん困り顔だ。
「松田先生、どうかされたんですか?」
声を掛けると松田先生はハッとしたように俺の方を見た。拓都も俺に気付くと「あ、守谷先生」と声を上げた。
「拓都、ママは迎えに来たのか?」
「それが、来られないので拓都君を一人で帰してほしいと連絡があって……」
拓都への問いかけに、松田先生が慌てて答えた。
一人で帰して欲しい?
何考えてるんだ。
「こんな時間からですか? 他に迎えに来られる人はいないのですか?」
「はい、何でもお願いしている人に連絡が取れないそうで……一人で帰してもいいでしょうか? 篠崎さんは責任は持つからと仰って……」
フルタイムで働いているあいつにとって時間通りに帰れない事もあるだろう。だからと言って学童へ迷惑をかけるのは筋違いだ。
「守谷先生、僕一人で帰れるよ。大丈夫だよ」
拓都はそう言ってニッコリと笑った。
母親が責められていると思ったのか、拓都は大丈夫を繰り返す。その健気さを不憫に思って俺は拓都の頭を撫でていた。
「松田先生、私が送って行きます」
「えっ? いいんですか?」
驚きながらもホッとした表情をした松田先生に「拓都は私のクラスの子ですから」と言い添えた。
別に拓都だからと言う訳じゃない。
「拓都、先生が送って行くからな」
拓都にも声を掛けると、拓都は嬉しそうに「いいの?」と訊いて来たので笑って頷いて見せた。
「それじゃあ守谷先生、よろしくお願いします」
「わかりました。篠崎さんには私の方から連絡しておきますので」
俺は松田先生に頭を下げると、拓都と一緒に駐車場へ向かった。
「拓都、家の鍵は持ってるのか?」
いつも迎えに来てもらっているから、鍵など持っていないはずだ。家まで送って行っても入れないのじゃないだろうか?
案の定、拓都は首を横に振ると「あのね、お隣のおばさんの所で待つの」と答えた。
「じゃあ、そのお隣さんまで送っていけばいいんだな?」
拓都は少し考えてからコクリと頷いた。
車の所まで来てエンジンを掛けてエアコンをかけると、先に拓都を助手席に乗せた。そして俺は車の外であいつに電話をかけた。クラス役員の電話番号だけ一応登録しておいて良かった。
基本保護者への電話は学校の電話からと言う事になっているが、役員とか出先からの連絡の場合等は非通知でと言う事になっている。しかし、今回は相手があいつだからか、非通知にする事をすっかり忘れていた。
数回のコール音の後「はい」と言う声と共に電話が繋がった。
「守谷です」
名前を告げると、電話の向こうで息をのむような音がした。俺は構わず話を続けた。
「篠崎さん、何を考えてるんですか? こんな遅い時間に1年生を一人で帰らせるなんて!」
さっきから何となくイライラしていたせいか、相手の驚いた様子につい感情が出て、怒ったような口調になってしまった。
「すいません。どうしても仕事で帰る事が出来なくて……私が残業の時にいつもお迎えを頼んでいる人に連絡が取れないんです。それで仕方なく……」
「そうですか……それでは私が拓都君を送って行きます。拓都君が言うにはお隣のお家でお母さんの帰りを待たせて貰うらしいですね? お隣のお家へ送って行けばいいんですか?」
「そんな……とんでもないです。先生にそんな事、してもらう訳にはいきません。まだ明るいから、拓都一人で帰らせて下さい」
先程の怒った口調を反省しながら冷静に送る事を申し出たつもりだったが、この期に及んでもまだ一人で帰らせろと言うあいつに、またイライラと腹が立った。
担任の申し出を断るのは、俺だからなのか。
「私は拓都君の担任です。少なからず自分のクラスの児童には責任があります。こんな時間にひとりで帰ると分かっていて、知らんふりはできません。お隣のお家まで送るだけですから……」
こちらもそうですかと向こうの言い分を聞く事もできず、かといって怒りをぶつける訳にもいかず、出来るだけ気持ちを落ちつかせながら説得するように言ってみたが、あいつは何を迷っているのか、しばらく沈黙が続いた。
俺は痺れを切らして、返事を待つより送って行こうと決めると「じゃあ、今から送って行きますので、また送り届けたら連絡を入れます」と言って電話を切った。
運転席に乗り込むと、拓都が「ママに電話したの? いいって?」と訊いて来た。拓都の心配気な顔を見て「ああ、大丈夫だから」と笑顔で答えると、拓都は安心したように笑った。
只でさえ母親が迎えに来なくて不安だろうに……と、また拓都を不憫に思ってしまった。
車で5分程で拓都の自宅へ着き車を停めると、お隣はどちらかと拓都に尋ねた。拓都が向かって右側の家を指差したので、車から降りて付いて行く事にした。
もう午後7時を過ぎ、だんだんと薄暗くなってくる時間で、その家の玄関は玄関灯が灯っていた。チャイムを押し、しばらく待っても返事が無い。もう一度押すが、やはり返事が無い。よく見ると家の中は灯りが灯っていないようだ。
まさか、留守なのか?
「拓都、留守みたいだけど……家の鍵がどこかに置いてあったりするのか?」
家の鍵を子供に持たせると落とすといけないからと、家の外の秘密の場所に置いてある家庭もある。
もしそうなら、家には入れるけれど、こんな時間に拓都一人置いて帰ってしまってもいいだろうか?
拓都は首を横に振って鍵が無い事を答えると、不安げな表情で俺を見上げた。
「あのね、ママがね、おばさんが帰って来るまで玄関の所で待っていなさいって」
「何だって?!」
ママは留守だと知ってたのか? 知っていて一人で帰れって言ったのか? と言葉を続けようとしたが、俺の剣幕に怯えたような拓都にそれ以上は言えなかった。その代わり、すぐにあいつに電話をした。
もう一度電話をかけようとして、さっき非通知にせずにかけた事に気付いた。けれど、そんな事はどうでもいい。帰れないほど忙しい仕事中だろうが、こちらは一大事なんだ。
もう一度非通知にせずにかけると、先程と同じように声を潜めて「はい」とあいつが電話に出た。
「守谷です。篠崎さん、お隣はお留守みたいですが……拓都君が言うには、お留守でも玄関前で待つように言ったそうですね? お留守だと分かっていたんですか? 拓都君はお家の鍵も持っていないと言うし……」
俺は怒りとも、呆れともつかない気持ちで言い募った。
「すいません。お隣になかなか連絡がつかないので、もしかしたらと思ったんですが……鍵もお隣に預けてあるんです。お隣が今夜出かけると言う事を聞いていなかったので……すぐに帰って来ると思っていたんですが……」
いつ帰るとも分からない母親と隣人をこんな薄暗い玄関先で待たせるつもりだったのか?
仕事にも責任はあるだろう。でも拓都も父親から預かっている責任があるだろう。
こんな事態は予測できなかったのか?
仕事をしていればいくらでも有り得る話だろうに。
俺は大きく嘆息すると、仕方がないと自分に言い聞かせた。
「わかった。俺の家で預かるから。大学の時と同じ所に住んでるから、覚えてるだろ? 県庁から近いし、仕事が終わったら、帰りに迎えに来て。一応、終わったら連絡を入れて。非通知で電話しなかったから、俺の番号は履歴に残ってるだろ?」
このまま拓都を放って行く訳にはいかない。
でも、担任としてここまで踏み込んでいいものかとも思う。
ここからは、一個人として、だ。
「えっ?」
あいつは俺の申し出に驚きの声を上げた。
「だから、これは担任としてじゃなくて、昔の知り合いとして、拓都を預かるから……仕事終わったら連絡して来て。わかったか?」
そう、昔の知り合い。サークルの先輩。
元カノだなんて甘い思い出は心の奥に閉じ込めて、あくまでも冷静に。
「すいません。今日だけ、今だけ、お世話になります。二度とこんな事がないよう、気を付けますので……本当にすいません」
あいつの必死の声が、胸に痛い。俺なんかの世話になりたくないだろうに。なんて皮肉な運命なんだ。
「ああ、二度とないよう、願いたいね。じゃあ、仕事の方、頑張って」
俺も必死に感情を抑え込む。怒りなのか、哀しみなのか、虚しさなのか、呆れなのか、よく分からない感情が俺の中でグルグルと渦巻いている。けれど、心配気に見上げる素直な瞳が、俺を現実へと引き戻す。
「拓都、ママが迎えに来るまで、先生の家へ来るか?」
「いいの?」
「もちろん、いいさ」
そう言って俺は拓都の頭をくしゃっと撫でた。すると、拓都の「ヤッター」と言う嬉しそうな声と笑顔に、さっきまで俺の中で渦巻いていた感情が霧散するように消えていったのだった。




