#31:情けない心
俺は一端職員室へ寄って、持っていたファイルを置くと、PTA総会のある体育館へと向かった。
体育館の入口の所で立っていた広瀬先生が、こちらを見てニヤリと笑う。
「クラス役員、難航したのか?」
広瀬先生がからかうような口調で問いかけて来た。
「いえ、いつものようにくじ引きで決めました」
またいつものからかいかと少し身構えながら答える。
「へぇ、俺はまた、希望者が多くて難航したのかと思ったよ」
今日は広瀬先生のそんなからかいに乗る気力もなく、「そんな訳ないじゃないですか」と溜息交じりに返す。
「守谷があんまり疲れた顔してるからさ、お母さん方が揉めたのかなって、ね」
そう言って広瀬先生はハハハと笑った。
彼なりに心配してくれているんだと思い、俺は苦笑する。
そんなに疲れた顔してるかな?
先程受け続けた精神的ダメージが顔に出ていたのだろうかと、思わず顔を撫でた。
そうしている内に、出席者たちが集まり、総会が始まるようだ。それでも並べられた椅子は空席もかなりある。PTA総会まで残っている保護者は、毎年の事ながら少ない。俺達は連れだって空いた席に座った。
「なぁ、今年もゴールデンウィークに行くだろ?」
総会の始まる直前、広瀬先生が話しかけて来た。
そう言えば、いつもの仲間たちがそんな話をしていたっけ……。
「また、デイキャンプですか?」
「ああ、またビーチバレーやろうぜ」
「いいですね」
ここのところ(正確には美緒が拓都の母親だと知ってから)趣味や遊びに気を向ける余裕がなかった。
少しは気がまぎれるかな……。
議長が前方の議長席に着くと、PTA総会が始まった。例年通り昨年度の会計報告が読み上げられ、監査の報告、新年度の会計案の承認と予定通りに進んで行く。各専門委員会からの報告があり、新本部役員の紹介では、任期二年目のPTA会長優香さんが前に立って挨拶をしていた。
「おい、そろそろ行くぞ」
本年度の学校側の方針を話している教頭を、ぼんやりと見るともなしに見ていた俺に、立ち上がった広瀬先生が声をかけてきた。どうやら、教職員の紹介が始まるらしい。
一年生の担任から順番に前に並ぶと、マイクを回して名前を言う程度の自己紹介をしていく。あっと言う間に済み、戻ろうとした時に、愛先生と目が合った。
ニッコリと笑う愛先生を見て、気付いた事があった。
あいつ……笑わなかったな……。
一瞬脳裏をかすめた思いを奥へ押し込めると、俺は慌てて微笑んだ。
PTA総会が終わり、全員で並べてあったパイプ椅子を片付けると、皆が出口へと流れ出す。
「守谷先生」
名前を呼ばれて振り返ると、愛先生がそこにいた。彼女は柔らかい笑顔で微笑んでいる。その笑顔につられて俺も頬を緩ます。
「クラス役員はすんなり決まりました?」
どうやら皆、同じ事が気になるらしい。やはりまだ精神的ダメージが顔に出ているのだろうか? それとも、去年あんな事があったせいか……。
「くじ引きでしたけど、すんなり決まりましたよ」
「良かったですね。私のクラスは今年は、立候補してくださる方がいらっしゃって、助かりました」
「それは良かったですね」
愛先生はふんわりと嬉しそうに笑った。向けられた者が癒されるような優しい笑顔。そんな笑顔に俺の強張っていた心が癒されていく。話しながら頭の片隅で、西森さんの言った言葉を思い出していた。
『さっき篠崎さんが笑った時、そっくりだと思ったのよ』
あいつの笑顔を見たら、誰でもそう思うのか……。
西森さんの前では笑ったんだな。
けして俺の前では笑わなかった。笑うどころか、怯えた様な目をしていたのに。
その時不意に名前を呼ばれて、そちらに視線を向けると、先程俺の精神にダメージを与え続けた西森さんとあいつだった。
俺の思考が呼び寄せたのかと思う程のタイミングで現れた二人に、俺は驚いた。
愛先生といる事に疾しさなんて感じる必要は無いのに、何となくあいつには見られたくなかった。
「専門委員会の希望用紙、もう書けたので提出します」
西森さんは二枚のプリントを差し出すと、「お疲れさまでした」とあいつと共に軽く会釈をして、帰って行く。俺達も「お疲れさまでした」と会釈して返した。そして、俺はプリントを持ったまま、ぼんやりと二人の後姿を見つめていた。
「守谷先生、クラス役員の方ですか?」
愛先生に話しかけられ我に返ると、俺は慌てて「そうです」と答える。今度は愛先生に対してバツが悪い様な気分になる。
そんな自分の感情がよく分からなくて、俺は誰にも分からないように嘆息した。
*****
ゴールデンウィーク前の4月28日、1年生の第一回学級役員会議が行われる。
職員室の並びにある会議室にて、午後4時から始まる会議に出るため、4時少し前に1年の担任5人がぞろぞろと会議室へと向かった。
会議室へ入るともう既に各クラスの役員が席についていた。会議室は、長机が長方形の形に向かい合わせになるように配置されており、その内の空いている長辺に1年生の担任が順番に座った。
「今日はお忙しい中お集まりいただいて、ありがとうございます。初めての集まりなので、自己紹介からお願いします。まずは担任からしていきますので、その後順番にお願いします。私は、1年1組の担任の長嶋恵子です。よろしくお願いします」
学年主任である長嶋先生が挨拶をして座ると、隣に座る2組の担任が立ち上がり、自己紹介をした。そして、次に俺が立ち上がり、もう何度目かになる自己紹介をする。
クラス役員である保護者達とは向かい合った席だから、当然視界の中にあいつの姿も目に入った。まだ見慣れないショートヘアーが、もう二人の世界が違う事を意識させる。
もう吹っ切れているのなら、「久しぶり」とか言えばいいんだ。周りに知り合いだと分かっても、大学時代のサークルの後輩だと言えば、誰も疑いはしないのに。
あいつがそう言う風に出てくれば、こちらだって知り合い前提で対応できるのに。
なのに、知り合いである事さえ無かったかのように振舞うのは、暗黙の了解なのか。
俺の方に視線を向ける事さえしないあいつを、俺の方も直視できない。
担任の自己紹介に続いて、クラス役員が端から順に自己紹介をしていく。クラスと姓だけを述べる自己紹介が続けられていく中で、あいつの順番になり、俺は本日初めて視線を向けた。
向かい合った机と机の間の空間が、二人の立ち位置をあらためて思い知らせる。
俺は慌てて視線を手元の資料に落とすと、あいつに対して愚痴っぽくなっていた思考を全てシャットダウンし、会議に集中した。
「それでは、1年間の予定ですが、そのプリントにありますように、おもな行事の日時が決まっています。運動会と文化祭は、委員会の方でお手伝いをしてもらいますが、給食試食会と親子ふれあい学習会、そして親子レクリエーションは、学級役員の方に協力をお願いします」
本年度の行事予定が記載されたプリントをクラス役員全員に行き渡るように回すと、長嶋先生が再び立ち上がって説明を始めた。
次に一学期の予定を、事前の打ち合わせ通り4組の担任が立ち上がって説明を始める。4組の担任は30代後半の男性教諭だ。
「1学期の予定ですが、6月22日の給食試食会の前に、企画・打ち合わせの会議をしたいのですが、いつがいいか、こちらと皆さんの一番都合のいい日にしたいと思うのですが……担任側としては、できるだけ、給食試食会の直前で水曜日か木曜日でお願いしたいのですが……」
「直前と言いますと、6月の8,9日の水木か、15,16日の水木のいずれかになりますが、いかがですか?」
4組の担任がが言い淀んでいると、すかさず隣に座っている5組の女性教諭が座ったままフォローを入れた。
役員席の方から話し合う声が広まり、ざわざわとし出した。そして、採決を取り、次回の会議は6月15日の水曜日と決まった。
「給食試食会は、保護者のための余分な給食は作れませんので、子供達の分を食べて頂き、子供達にはお弁当を持たせて頂く事になります。食べる場所は、各教室のそれぞれ子供の机で一緒に食べて頂くのですが、椅子は体育館のパイプ椅子を使って頂きます」
再び4組の担任が給食試食会についての詳細を説明して行く。質疑応答の後、次回に試食会のアンケートの内容について話し合うので考えて来て欲しいと述べて、会議は終了した。
思ったよりも早く終わり、俺は張りつめていた息を吐いた。視界の中にあいつがいるのは、思った以上に精神力が削がれる様な気がする。
これで次回の6月15日の会議まで会う事もないと、僅かに安堵の気持ちになったけれど、その前に大きなイベントがある事を、この時はすっかり忘れていた。
*****
そうだよ。家庭訪問があったんだよな。
そんな事を思い出したのは、去年と同じ様にゴールデンウィークにデイキャンプに来ていて、仲間たちの会話からだった。
第一回の会議の翌日からゴールデンウィークに入ってしまい、ゴールデンウィーク明けに予定している家庭訪問の事は、すっかり頭の中から落ちていた。
「虹ヶ丘小学校って、家庭訪問で家に上がり込まないようにって言うのあるの?」
突然そんな事を言い出したのは、この4月に別の小学校から転任してきた尾崎先生。以前の小学校では、家に上がり込まないのが暗黙の了解だったらしい。
「ないよ。その辺は各教師に任されてる。玄関先や玄関で話をして、家に上がらない先生もいるよ。上がり込むと、時間とるからなぁ」
広瀬先生が答えるのを聞いて、自分は保護者に勧められるままに家に上がり込んでたよなぁと、今までの家庭訪問を思い返した。
そして、今更ながら、家庭訪問であいつの自宅へも行かなくてはならない事に気付いたんだ。
そうだ、いっそ玄関先なら、短く済ませられるかもしれない。中に入って別の誰かの存在をまざまざ見せつけられるのは、いくら担任として行くとしても、気にならないはずがない。
何も吹っ切れていない情けない自分は充分自覚している。だから出来るだけ直接対峙は避けたいんだ。
それなのに、クラス役員だなんて……バカか、俺は。
「守谷先生、食べてますか?」
焼き肉を挟んだトングを持った愛先生が、俺の皿に焼き肉を入れながら声をかけて来た。交代でバーベキューの担当をしているので、今は愛先生が焼き番のようだ。
しばしぼんやりとしていた俺に「どんどん食べてくださいよ」と優しく笑った彼女の笑顔は、情けない俺の心を暖かく包み込むようだった。




