#29:学級懇談
「1年間、1年3組の担任をさせていただく、守谷慧です。どうぞよろしくお願いします」
学級懇談が始まり、出席してくれた保護者に向かって挨拶をする。
出席者にお願いして、懇談が始まる前に、子供達の机を黒板を背にして置いた俺用の机に向かってコの字型に並べ、簡易の懇談場を作ってもらった。授業参観には父親らしき男性の姿もあったが、懇談の出席者は全員母親と思われる女性ばかりだ。それでも半数以上の保護者が出席してくれたのは、上出来だと思う。
美緒は俺の位置から見て左側の垂直の机の並びの中間ぐらいの位置にいる。どうしても視界に入るので、意識せずにいる事は難しい。それでも、俺の教師としての矜持ゆえ、意地でも動揺はしないし、平常心で乗り切ってやる。
俺はまず、学級での子供達の様子を話し出した。それから、今後の学級運営について、俺の方針や考えを丁寧に話す。話しているとだんだんと熱が入り、一生懸命に話していた。
気付くとさっきまでこちらを見ようともしなかった彼女が、他の保護者と同じように、真っ直ぐな視線を向けて熱心に聞いてくれたようだ。
「それじゃあ、皆さんに一人ずつ自己紹介をして頂きましょうか?」
学級懇談の手順どおり、出席者の自己紹介へと進む。担任にとって出席者が誰の親かが確認できるのと、保護者にとっても子供の友達の親が分かるのは重要だと思う。
向かって右端からお願いしますと言うと、すぐに笑顔で立ち上がった保護者が「西森翔也の母親です。よろしくお願いします」と皆の方へ頭を下げ、その後俺の方へも軽く会釈した。俺は会釈を返しながら、名簿にチェックを入れていく。そうして順に同じ自己紹介を繰り返し、いよいよあいつの番になった。
「篠崎拓都の母親です。どうぞよろしくお願いします」
分かっていた事なのに、こうして現実を突きつけられると今更ながらに、もう俺とは関係のない人になってしまったのだと思い知らされる。
あいつは自己紹介をすると皆に向けて頭を下げ、俺の方へ視線を向けた。一瞬目が合い、あいつはすぐに会釈のために目をそらした。
俺はその一瞬の間にあいつの瞳に怯えを見つけた。そして、気付いたんだ。あいつの方が俺よりも再会を恐れていたんだと言う事に。
再会してバツの悪い思いをしているのは、振ったあいつの方だと思うと、僅かに余裕が生まれた。その余裕のお陰で、その後の質疑応答もにこやかに進める事が出来た。
そして、学級懇談最大の山場、学級役員の選出へと移って行った。毎年これが一番難航する。
学級委員は2人だと言う事、学期ごとの学年行事の準備と当日の手伝い、学校の専門委員会への参加等を説明して行く。専門委員会と言うのは、広報・保健体育・福祉・教養等の専門の活動と学校全体の行事の手伝いを担う委員会だ。
そして、一人の子供に対してその保護者がクラス役員をするのは6年間で1回のみだと説明する。すなわち、今回役員をしたら来年から卒業までクラス役員はしなくていいと言う事だ。もちろん兄弟がいればその数だけする回数は増えるのだが、出来るだけ多くの保護者に役員を経験して欲しいとの考えから、そう決められていた。それでも、6年間一度もクラス役員をせずに卒業してしまう保護者もいる。
「どなたか、学級役員を引き受けてもいいと言う方はいらっしゃいませんか?」
柔らかく尋ねてみたけれど、どの保護者も俺と目を合わせようとしない。忙しい主婦には、役員の仕事は面倒な事なのだろう。一番いいのは希望者にしてもらう事だと分かっているけれど、仕方なく推薦は無いかと尋ねてみた。自分がしたくない事に他人を推薦する事がためらわれるのか、これもまた申し出る人はいなかった。
「しかたがありません。それではくじ引きでもいいですか?」
残念な雰囲気でくじ引きを提案する。結局毎年この方法になってしまうのだ。皆も仕方ない事を理解しているので、了解してくれる。誰が当たっても恨みっこなしだ。
「それでは、くじ引きで決めたいと思います。でも、介護とか赤ちゃんがいて見てもらえる人が無いとか、どうしても役員を引き受けられない方が見えましたら、申し出てください」
しばらく申し出が無いか待っていたが、無いようなのでくじを作る事にした。
単純な人数分の傍線を引いただけのくじを作りながら、俺は大学のサークルでの事を思い出した。サークルで何かの役目を決める時、くじ作りはいつも俺が率先して行っていた。そして、マイルールとして、両端の傍線は絶対に当りにしないと決めていた。
ある時、その事を美緒に話し、「美緒が嫌な時は、両端のどちらかを選ぶといいよ」と教えた。けれど正義感の強い彼女は、その後も絶対に両端を選ぶ事は無かった。
そんな事を思い出した俺は、少し意地悪な考えが浮かんだ。もしも両端を当りにしたとしたら……と。
彼女も俺のマイルールを思い出し、あえて今回は役員を避けるために両端を選ぶだろうか?
それとも、思い出したとしても、あの頃のように正義感からあえて両端を避けるだろうか?
いやいや、そんな事すっかり忘れて、何も考えずに選ぶだろうか?
俺は少しワクワクした気持ちを心の奥に押し込めて、このぐらい意趣返しでも何でもないさと心の中で嘯いた。
懇談会に出席していない保護者の分は、ここにいる出席者がくじを選んだ後、残っているくじを名簿順に右側から選んでいくと説明し、もしもその人達が別の学年のクラス役員に選ばれていた時のために補欠を二人決めておくと話した。クラス役員は学年が上の保護者から優先なので、上の子のクラスで役員になると、下の子のクラス役員は出来なくなる。
俺は両端を当りとし、補欠を真ん中あたりで二つ選んだ。そして当りを付けた部分を折り曲げて隠し、順番に引いて行くようくじの紙を右側の列から回した。
一巡して戻ってきた紙を見て、俺は期待どおりの結果を確認すると、思わず笑みがこぼれてしまった。
あいつはおそらく覚えていたんだ。俺のマイルールを。まさかその裏をかかれるとは思いもしなかっただろうけれど……。
見覚えのある字で書かれたあいつの名前は、きっちりと右端の棒線の所に書かれていた。そして左端の傍線には、先程一番最初に自己紹介した保護者だ。これで補欠は必要なくなった。それでも皆の手前、知らんふりして出席していない人の名前を残った傍線に順番に書きいれていった。
「それでは発表します。西森さんと篠崎さん、よろしくお願いします」
あいつの名前を呼んだ時のあいつの唖然とした表情を見て、俺はしてやったりと言う、少し高揚した気分になっていた。思わずあいつの方を見て、意地悪くクスリと笑ってしまう程に。
それは、あいつが俺のマイルールを覚えていてくれた事が嬉しかったからだろうか?
それとも、裏をかいた事で意趣返しになったと嬉しかったのだろうか?
そんな思惟はすぐにシャットアウトして、俺は新役員に残る様言った後、懇談会を解散した。
PTA総会が始まるまでに、新役員に説明をしなくてはならない。他の保護者達が教室を出ていった後、元に戻された机をもう一度3人分の机を突き合わせて、新役員との説明の場を作った。
俺が準備している間に、新役員の二人は挨拶を交わして話をしているようだ。
「こちらへ来て下さい」
声をかけると二人がこちらを向いた。嬉しそうに「はーい」と返事をした西森さんと、緊張と居たたまれぬ思いを隠しきれないあいつの表情はまるで正反対だ。
「守谷先生、今年もよろしくお願いします」
傍まで来た西森さんに頭を下げられて、やっと思い出した。そう言えば西森さんの上の子は去年俺のクラスだったと。そして、さらに思い出したのは、あの旦那怒鳴り込み事件の後、『あんな事があっても、子供達に変わらぬ態度でいてくださった事に感謝しています。頑張ってください』と励ましてくれたのが、今目の前にいる西森さんだった。
ああ、いい人が役員になってくれて良かったと、俺はまだこの時点では、素直にそう思っていたんだ。
「ああ、西森さん、こちらこそよろしくお願いします」
俺は西森さんの隣に立っているあいつの手前、わざと笑顔で返事を返す。俺達の挨拶を不思議そうに見ていたあいつに、西森さんは「守谷先生は、去年上の子の担任だったのよ」と教えた。
二人に座るように促すと、俺の机と向かい合わせに突き合わせた机に西森さんが座り、その二つの机に垂直に突き合わせた机にあいつが座った。手を伸ばせば触れる距離にあいつがいるのに、世界の果て程もその存在は遠い。
俺は書類を見る事で、あいつを視野の中から追い出す。それでもそこにいる気配を感じる事を止められない。
「篠崎さん、すっごく緊張していない?」
突然の西森さんの言葉に、俺の緊張を言い当てられた気がして、書類から目を上げられない。その時、斜め横から「大丈夫です」と答えるあいつの声が聞こえた。
「あ、わかった。篠崎さん、守谷先生があんまりカッコ良くてイケメンだから、緊張してるんでしょう?」
そろそろ二人に役員の詳しい説明をしようと思った矢先、西森さんが罪の無い脳天気な声で、とんでもない事を言い出した。
俺が思わず顔を上げると、西森さんは俺の存在など忘れたかのように、フフフフと悪戯っぽく笑ってあいつの否定の言葉を遮断すると、空気を読まない天然力を全開にした。
「わかるわ~私も最初そうだったもの。他のお母さん達も同じよ……でもね、浮気はダメよ!」
一瞬空気が凍ったかと思う程の威力があった。自分で思う以上にダメージをくらったような気がする。
『浮気』と言う言葉に、俺と美緒の間にある現実を突きつけられた気がした。
そして俺はこの時初めて、自分の失敗に気付いたんだ。
西森さんは「やだ~、篠崎さん、そこは笑う所よ」と言いながら笑っていたが、あいつにとっても笑えない冗談だろう。
「書類が足りないので、もらってきます。少し待っていてください」
俺はどうしようもない胸の苦しさに、逃げるようにその場を離れる事しかできなかった。




