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悪役令嬢と口うるさい幽霊

作者: 詩永あえし
掲載日:2026/10/30

 男爵家の礼拝堂には、侯爵令嬢のための席など用意されていなかった。


 エレオノーラ・ヴァルクールが黒いヴェールを上げると、入口にいた男爵家の家令が、口を開けたまま固まった。

 知らせは届いていたはずだった。もっとも、届いていたのは侯爵家から弔花と使者を送るという知らせであって、一人娘が馬車から降りてくるという知らせではなかった。


「どこでも構いません。座れるところを一つ、お願いいたします」


 なるべく穏やかに告げたつもりだったのに、家令はますます青くなった。

 代々のヴァルクール侯爵が王都で積み上げてきた威厳は、娘が椅子を頼んだ程度では減らないらしい。


 後ろの長椅子でよいと言うまでに、三度のやり取りが必要だった。

 父は最後まで参列に反対した。遺族に気を遣わせるだけだ、花と使者で十分だという。歩いてでも行くと答えたら、ようやく馬車が出た。


 リゼットがいれば、屋敷から男爵領までどれほどあると思っているのさ、と呆れたはずだった。

 その声を思い浮かべ、エレオノーラは口元を引き締めた。


 狭い礼拝堂に、白い花の匂いがこもっている。前方の棺のそばでは、リゼットの母が夫に支えられていた。

 挨拶をすれば、こちらを気遣って頭を下げてくれるだろう。それが申し訳なく、今は顔を見られなかった。


 祈りのあと、一人ずつ棺に花を手向けた。

 リゼットは、淡い生成りの服を着ていた。胸元の刺繍は知らない模様だった。栗色の髪はいつものようにまとめられ、手には小さな祈祷書が重ねられている。


 エレオノーラの知る彼女は、何も持たずにいることが少なかった。

 手紙か、衣装の見本帳か、エレオノーラがどこかに置き忘れた扇。手ぶらでいれば、これから何かを取りに行くところだった。


 今は、呼んでも目を開けない。

 ヴェールが頬に触れた。結び目が緩んでいるのだと気づき、直そうとして、手を下ろした。


 葬儀の間、エレオノーラは一度も泣かなかった。

 帰りの馬車でも、玄関に並ぶ使用人たちの前でも。


 自室へ戻り、一人にしてほしいと侍女に告げた。

 扉の閉まる音を聞いた途端、張り詰めていたものが切れた。


「ううっ……うわあああんっ!リゼット、どうして逝ってしまったの……!わたくしを置いていくなんて、あんまりですわ……!」


 寝台にすがりつき、そのまま絨毯へ膝をついた。

 金髪に留めたヴェールのピンが引きつれた。構わず引っ張ると余計に痛くて、それにも腹が立った。


「あなたがいないと、これだって取れないじゃない……!どうして、あんなに急に……!」


 休んでいると聞いていた。

 熱が出たと聞いて、果物を届けさせた。三日目には医師も向かわせた。少し長引きそうだと言われたので、来週まで休んでよいと伝言した。

 来週になれば、また小言を聞けると思っていた。


「お手紙の返事もないし、お見舞いに行くと言ったら寝ているところへ押しかけるなって、お父様まで……!あなた、いつもは寝ているわたくしを起こすくせに……!」


 握った掛布が、涙で濃い色になった。


「明日のお茶会だって、席順をまだ教わっていないのよ……!笑っているのに隣にしてはいけないなんて、わたくしには分からないわ……!」

『死んだ友人を惜しむ話にしては、ずいぶん先の予定を気にするんだね』


 エレオノーラは、掛布に顔を埋めたまま動きを止めた。

 背後の時計が二つ、時を刻んだ。


「……リゼット?」

『ほかにも席順に詳しい死人がいるなら、代わってほしいところだけど』


 寝台の向こうに、リゼットが立っていた。

 見慣れた灰色の服だった。金の飾りもレースもない襟元を見て、あなたはそちらのほうが似合うわ、と言いかけた。

 肩を透かして、壁紙の小花が見えた。


「あなた、棺にいたでしょう……?」

『いたね。あれだけ見つめられても髪を直せないのは困ったよ。右側が少し浮いていただろう?』

「そんなこと、分からなかったわ」

『あなた、途中から床ばかり見ていたから』


 エレオノーラは立ち上がった。

 喪服の裾を踏みかけ、それでも寝台を回り込んで、両腕を伸ばした。


 リゼットの肩は抱けなかった。

 前につんのめり、衣装戸棚に額をぶつけた。


『……なるほど。やはり触れないんだね』

「確かめる前に教えてちょうだい!」

『待つように言うつもりだったよ。あなたがいつもどおり待たなかっただけさ』


 額を押さえて振り返ると、リゼットも自分の手を見ていた。

 寝台の柱に指を差し込み、向こう側に出た指先を眺める。


『これは不便だな。眠ったふりをしているあなたから、掛布を取り上げられない』

「もう、そんなことはしないわ……」


 語尾が泣き声に戻った。

 顔を拭おうとした手袋は、すっかり濡れていた。リゼットが小卓を指す。


『ハンカチなら上から二段目だよ。あなたの物だから、遠慮はいらない』

「それくらい、知っているわ」

『では、知識を役立ててみようか』


 引き出しを開けると、角をそろえたハンカチが並んでいた。リゼットは、こういうところまで知っている。

 エレオノーラは一枚取り、長椅子へ腰を下ろした。座ってもリゼットが消えないことを確かめ、ようやく鼻を押さえる。


「……夢なのね。わたくしが、あなたに会いたかったから」

『私のほうでは、夢に呼ばれた覚えはないけどね』

「夢でも構わないわ。ここにいてちょうだい」


 灰色の袖へ伸ばしかけた手を膝に戻した。


「何もしなくてよいの。お茶も、手紙も、もう頼まないから……」

『それは助かるね。今の私にお茶を頼んだら、あなたは相当待つことになる』


 笑おうとしたら、涙がこぼれた。

 リゼットはその顔を見ていたが、しばらくして、少し首を傾けた。


『何もしなくてよい、というお許しが出たところで、話をしてもいいかな』

「何でも聞くわ」

『私が何をしていたか、あなたには知っておいてほしいんだ。たとえば、ベルネ洋品店の件』


 エレオノーラは、ハンカチの上から鼻を押さえた。


「……リボンの色を間違えた人のこと?」

『そう。色を間違えたおかげで、侯爵家との商いを失ったと思った人のことだよ』

「失ってなどいないわ。わたくしのリボンでしょう」

『私もそう説明した。ところが店主は奥様の外套も叔母君のお帽子も納めているんだ。二度と顔を見せるなと言われて、どこまでお返しすればよいかと帳簿を抱えて来たのさ』

「お返しする必要はないでしょう。あのリボンを取り替えれば……」

『うん。その結論まで、私は一刻かかった』


 エレオノーラは口を閉じた。

 リゼットは指を一本立てる。


『先に言っておくと、怒るなと言っているんじゃない。違う品が届けば困るからね。ただ、何をどうしてほしいか言ってもらえるとありがたい』

「取り替えてほしかったのよ」

『そう言えばよかったんだよ。翌日、店主が新しいリボンを持っていくと言いだして私はまた困った』

「どうしてなの?」

『二度と顔を見せるなと言われた人が、次の日に顔を見せる相談をしているんだからね』


 エレオノーラの鼻から、妙な音が漏れた。

 慌ててハンカチで押さえたが、リゼットは見逃さなかった。


『楽しんでいただけたようで何よりだよ。話した甲斐がある』

「楽しんでいないわ。少しだけ、おかしかっただけ……」

『私も、今ならおかしいと思うよ。あの日は、あなたがリボンを待っていたからね』

「……わたくし、それも催促したの?」

『三回ほど。店主をどこに隠したのか、と聞かれたときには、もう一人雇ってほしいと思ったよ』


 扉を控えめに叩く音がした。


「お嬢様。お着替えのお手伝いをいたしましょうか」


 侍女のマルトだった。

 エレオノーラはリゼットを見た。相手もこちらを見返すだけなので、声を落とす。


「あなた、隠れたほうがよくない?」

『私を見た人がいれば、馬車の中から今までに、一人くらい声を上げていると思うけど』

「馬車にもいたの?」

『あなたが乗るから、乗ってみたんだ。歩いて帰るには遠いからね』

「お嬢様……?」


 扉の向こうの声が不安そうになり、エレオノーラは慌てて返事をした。


「入ってちょうだい。わたくし、少し髪が絡んでしまって」


 入ってきたマルトは、最初にエレオノーラの額を次に寝台の上のヴェールを見た。

 何が起きたかは尋ねず、鏡台の前に椅子を引く。


「こちらへお掛けくださいませ」


 リゼットのすぐそばを通ったのに、気づいた様子はなかった。

 鏡には、金髪を乱した娘と、その背後に立つ侍女だけが映った。


「……鏡にも映らないのね」

「どちらのことでございましょう?」

「いえ、その、後ろのピンが見えなくて」


 リゼットが、鏡の横から首を伸ばした。


『私も今、知ったよ。これから髪が乱れたら、あなたを頼るしかないね』


 エレオノーラは笑いかけ、唇を結んだ。

 マルトは一本ずつピンを抜き、ヴェールを外した。最後の一本がなかなか抜けず、髪を引く。


「痛いわ、もっと丁寧に……」

「申し訳ございません」


 侍女の手が止まった。

 鏡の横で、リゼットが自分のこめかみを指した。


『その一本は、あなたが引っ張って曲げたんだよ』


 エレオノーラは鏡から目をそらした。


「……自分で取ろうとしたの。どこかに引っかかっているかもしれないわ」

「さようでございましたか。少々お待ちくださいませ」


 小さな鋏が用意され、ヴェールの縁に絡んだ糸だけが切られた。

 手放された髪が、ようやく肩へ落ちてくる。


「その、さっきは……痛かったので」

「はい、お嬢様」

「あなたが乱暴にしたという意味ではないの」


 マルトは少し目を開いたあと、穏やかにうなずいた。


「承知いたしました。次は後ろのボタンを外しますので、少し前へお寄りください」


 エレオノーラは椅子に座り直した。

 それだけのことなのに、頬が熱かった。リゼットが何か言いそうで先にそちらを見たが、ただ黙っていた。

 喪服から部屋着へ替え、髪を緩く編んでもらうと、首と肩がずいぶん軽くなった。


「お食事はいかがなさいますか。お昼も、ほとんどお召し上がりではございませんでしたから」

「いらないわ」


 そう言った途端、腹が鳴った。

 リゼットが、興味深そうな顔をした。


『あなたのお腹は、また別のご意見らしいね』

「……何か、少しだけ」

「温かいものをお持ちしましょうか」

「では、お肉の……」


 マルトの手が、畳んだ喪服の上で止まった。

 その手を見て、エレオノーラも言葉を止めた。


「今、何があるのかしら」

「厨房に尋ねてまいります」

「これから作る必要はないわ。できているものを、少しで良いわ」


 マルトは一礼して下がった。

 扉が閉まると、エレオノーラはリゼットを振り返った。


「何か言ってちょうだい。黙っているほうが気になるわ」

『あなたが話し終えるのを待っていたんだよ。珍しいこともあるものだと思って』

「さっき、マルトが困った顔をしたの。お肉はないのかと思って」

『お肉もないかもしれないし、魚はないかもしれない。尋ねれば分かることだね』

「あなたがいたころは、尋ねなくても持ってきてくれたでしょう」

『厨房で尋ねていたからだよ』


 リゼットは鏡台の脇の丸椅子へ腰を下ろした。少し沈みすぎた位置を直し、何事もなかった顔で膝をそろえる。


『思い出したよ。香草焼きを煮込みに替えるよう言われた日も、あなたはそんなふうに不思議そうだったね』

「あの日は結局、魚をいただいたわ」


 エレオノーラは膝に置いた両手をそろえた。

 侯爵家の晩餐が並ぶ半刻前に、肉が食べたいと言った。煮込みは間に合わないと聞いて、焼いてくれればよいと答えた。

 父が魚を楽しみにしていると知らされて、それなら魚でよいと譲った。


『そこまでは、覚えているんだね』

「わたくし、結構、譲ったと思うのだけれど」

『私は厨房へ三往復したよ。料理長には辞めないでほしいと頼み、焼き場の人には、その肉はまだ切らないでほしいと頼んだ』

「辞めるって、どうして……」

『あなたが、腕が落ちたなら別の者を探すと言ったからだね』

「本気ではなかったわ」

『本気かどうか、料理長は誰に聞けばいい?』

「……あなたに?」

『よく分かっているじゃないか。聞かれたよ、裏口の階段で』


 エレオノーラはリゼットの靴を見た。

 厨房への階段は、何段あっただろう。自分が降りたのは、焼き上がった菓子を一番に食べに行ったときくらいだった。


「あなた、わたくしには何も言わなかったでしょう」

『言ったよ。今から替えるのは難しい、とね』

「そうではなくて、辞めるお話まで出ていたなんて」

『収まった話を蒸し返して、また怒らせるのも面倒だったから』

「面倒って……」

『うん。そこで私は、目先の楽を選んだんだね。話しながら気づいたよ』


 反論を考えていたエレオノーラは、口を開けたまま友人を見た。

 リゼットは腕を組み直した。


『あなたが少し怒って、私が少し走れば済むと思っていた。その少しが、ずいぶん増えたわけだ』


 机には、革表紙の手帳が置かれていた。

 休みに入ったリゼットが、代わりの者が困らないようにと届けさせたものだった。

 中を開いたことはなかった。マルトが読んでいるのだから、それでよいと思っていた。


「……あの手帳にも、書いてあるの?」

『予定と、済んだ用事だけだよ。あなたの悪口は別冊にする必要があるから』

「別冊があるの!?」

『作る暇がなかったね。惜しいことをしたよ』


 エレオノーラは、ほっとしてよいのか迷った。

 机へ行き、表紙を開く。細く整った字で、日付と名前と用事が並んでいる。


 お茶会の菓子の数、店に返す見本、楽師への返事。

 その隙間に、短い線で消された項目がいくつもあった。


 最後のページには、手紙の返事と、冬用の靴の受け取り。


「あなたの靴?」

『そうだよ。店に届いたと聞いていたんだけど』

「取りに行かなかったのね」

『休みの日に寄るつもりだったんだ。その前に熱が出たから』


 その先は白紙だった。

 エレオノーラはページの端を持ったまま、次をめくれなかった。


「お医者様が、ずっと疲れていたのではないかって」

『よく眠れば治ると思っていたよ。あなたには早く寝ろと言っておいて、私も大したものだね』

「……わたくし、来週まで休んでよいとしか言わなかったわ」

『あなたの手紙は来たよ。果物もね。弟がずいぶん喜んでいた』

「あなたは、食べたの?」

『梨を少し。あれはおいしかったね』


 エレオノーラは、手帳を胸へ寄せた。


「もう、頼まないわ。あなたには何も。だから、ここにいて」


 リゼットが少し眉を上げた。


『なるほど。私の口を封じて、眺めて暮らすつもりかな?』

「そういうことではなくて……!」

『何も頼まれず、話も聞かれずにいるのは、私には退屈そうだよ。手は動かせないけど、口まで動かなくなったわけじゃない』

「では、どうすればいいの?」

『私の言うとおりに、少し改める気はある?』

「……あるわ。何でも聞く。何でもするから」

『では、手帳を机へ戻そう。泣くなら先に返事の済んだページを開いてくれないかな。まだ必要なところが滲むと、マルトが困る』


 戻ってきたマルトの盆には、豆と鶏肉のスープ、薄く切ったパン、柔らかいチーズが載っていた。


「厨房から、今夜は煮込みがございますと。こちらでしたらお腹にもよろしいかと存じます」


 机の前に立っていたエレオノーラは、リゼットと目を見合わせた。


『お望みのお肉だよ。煮込んである。たいへん運がいい』

「……ありがとう。これをいただくわ」


 卓に盆を置いたマルトは、少しだけ周囲を見た。


「お嬢様、どなたかとお話しでございましたか?」


 エレオノーラは、スプーンを取る前に固まった。


『気になるなら、私のことを話してもいいよ。信じてもらえるかは別だけど』


 リゼットは盆をのぞき込んでいる。マルトの視線は、その体を素通りして机へ向かった。


「リゼットの手帳をご覧になっていたのですね」

「ええ。その、思い出していたの」

「さようでございましたか」


 それ以上を尋ねず、マルトは小さな皿を置いた。梨の砂糖煮だった。

 エレオノーラの喉が、少し詰まった。


「……一つ、聞いてもよいかしら。リゼットは、いつも忙しそうだった?」


 マルトはすぐには答えなかった。


「お嬢様のご用をよく承っておいででした」

「わたくし、怒らないわ。あなたが悪いと思って聞いているのではないの」


 そう言いながら先ほどの髪留めを思い出した。怒らないと告げられても、信用できないかもしれない。

 マルトは少し考え、机のほうへ目を向けた。


「私どもに頼んでくださってもよいお仕事はございました。お使いなどは、手の空いている者もおりますから」

『そういうときに限って、あなたが何を頼んだか詳しく聞かれるんだよね』

「人に頼むと、間違えると思っていたのかしら」

「それもございましたでしょうし……お嬢様のお好みをよくご存じでしたから」


 リゼットが、少し顎を上げた。

 エレオノーラは、彼女の顔から視線を戻した。


「知らない者に任せたくなかったのね」

「アニエス様がお持ちになったお菓子も、ご自分でお確かめでしたね」


 スプーンが、皿の縁に当たった。


「アニエスが、何を?」

「桃の焼き菓子でございます。お会いになれなかったのでお預かりした品です。お嬢様のお口には合わないと、リゼット様が厨房へお下げになりましたが」


 リゼットの顎が、元に戻った。

 エレオノーラはスプーンを置いた。


「そのお話、もう少し詳しく教えてちょうだい」


 ロシュ伯爵家のアニエスは、エレオノーラより一つ年上だった。

 流行の話に詳しく、物の言い方が遠慮に欠ける。先のお茶会でエレオノーラの大きなリボンを見て、ずいぶん勇ましい飾りだと笑った。


 客の中に同じ色の小さなリボンをつけた令嬢がいて、アニエスはそのくらいが今年の流行りらしいとも付け加えた。

 エレオノーラは、自分だけ古めかしいと言われた気がした。


「わたくしの好みがお気に召さないなら、もういらしてくださらなくて結構よ」


 そう答えたことは覚えている。

 アニエスの笑顔が消えたことも。


『それで私は、次の招待から外したんだ。あなたもそうするように言ったね』

「言ったわ。それは、覚えているけれど」


 マルトが誰に答えたのか分からない顔をしたので、エレオノーラは急いで続きを促した。


「そのあと、アニエスが来たのね?」

「はい。ご機嫌を損ねてしまったので、お話ししたいと。ただ、ご予定のないご訪問でしたので、まずリゼット様へお知らせいたしました」


 リゼットは腕を組んだまま、黙っていた。


「わたくしには、何と?」

「当面お会いになるお気持ちはないと、リゼット様からお伝えになりました。お手紙はお預かりしましたので、お部屋へ届いているかと存じます」


 エレオノーラは机を見た。

 手紙を受け取った覚えはなかった。リゼットに開封を任せ、急ぐものだけ知らせてもらっていた。


『あれなら一番下の引き出しだよ』


 指示された場所を開けると、返事をしていない手紙が日付順に分けられていた。

 ロシュ家の封蝋は、先月末の束にあった。


「ありがとう、マルト。少し、読ませてちょうだい」

「かしこまりました。お食事が冷めませんうちに、お召し上がりくださいませ」


 扉が閉まると、エレオノーラは手紙を開いた。

 堅苦しい挨拶のあとに、先日は口が過ぎた、と書いてあった。あの色が似合わないというつもりではなかった、とも。

 最後は、訪問してよい日を知らせてほしいという言葉だった。


「……読んだのね、これ」

『うん。私は会わないほうがよいと思った』

「どうして、わたくしに教えなかったの?」

『また言い争いになるだろうからさ。あの人は、あなたの言ったことを素直に聞き流したりしないよ』

「聞き流す人のほうが、よいの?」


 リゼットは片手を上げ、途中で下ろした。

 エレオノーラは、手紙を読み直した。


「お菓子は?わたくし、桃は好きなのだけれど」

『あなたは以前、あの舌が痒くなる感じが嫌だと言っただろう?』

「薄皮が残っていたのよ。あのときは、剥かずに出されたから」

『……そういう意味だったのか』


 リゼットが、初めて少し居心地の悪そうな顔をした。


「あなた、尋ねなかったの?」

『嫌いだと言った人に、なぜ嫌いかまで聞くことは、あまりないね』

「わたくしも、そうだったわ」


 扉へ目を向ける。

 マルトの言葉を最後まで聞かなかったことが、何度あっただろう。料理長も、店主も、最初は何か説明しようとしていた。

 リゼットは、机の横から手紙をのぞいた。


『あなたが腹を立てるのには、理由があると思っていたんだ。実際、あの言い方はよくなかった』

「今でも思うわ。あのリボン、気に入っていたもの」

『私も気に入っていたよ。見本の中から、二人で選んだんだからね』


 エレオノーラは顔を上げた。

 リゼットは、少しだけ口元を曲げた。


『だから、私も腹を立てていたんだろう。後始末をするなら、もう何も起きないようにするのが楽だったし』

「アニエスを、呼ばなければよかったのね」

『うん。それで済んだと思っていた。あなたが何度も、あの人が何と言っていたか聞くから、手紙もそのうち読めばよいと……』

「聞いたのなら、渡してちょうだい!」

『褒められた覚えはないよ。あなたは文句を言っていたんだから』

「だってあの人、自分のお帽子の羽根を褒めてほしがるのよ。わたくしはちゃんと褒めたのに」

『私のところで終わらせずに、次に会ってそう言えばよかったんだね』


 二人はしばらく、手紙を見た。

 リゼットが溜息をつく。息のかからない紙が、エレオノーラの指の間でわずかに鳴った。


『私に任せておけばよいと、あまり胸を張れなくなってきたな』

「あなたでも間違えるのね」

『あなたが十二歳のとき、礼法の宿題を暖炉に入れてしまおうと言ったのは誰だったかな?』

「あなたよ。燃えてしまえば、見つからないからって」

『生きているときから、実績はあったんだよ』

「……お母様に、二人で叱られたわね」

『灰の中に綴じ金具が残るとは、思わなかったからね。あれは勉強になった』


 エレオノーラは、手紙で口元を隠した。

 リゼットは笑いかけ、ふと、机の端の盆へ顔を向けた。


『大切な忠告を忘れていた。スープが冷めるよ』

「今、そのお話へ戻すの?」

『これ以上の失敗を重ねることはないだろう。食べながらでも私への文句は言えるはずさ』


 スープはまだ温かかった。

 口に運ぶと、空腹だったことを思い出した。リゼットは盆の横に浮かび、梨の皿を眺めている。


「あなたの分も頼みましょうか?」

『どこへ入るのか、私にも分からないね』


 エレオノーラは、スプーンを置いて笑った。

 リゼットがそばにいるのに、自分だけ食べるのは妙な気がした。


 それでも、料理を冷まさないうちにいただいた。パンは縁が少し硬く、スープへ浸すとちょうどよかった。

 盆を端へ寄せ、便箋とペンを引き寄せた。


「アニエスに返事を書くわ」

『少し待ってもよいんじゃないかな。あなた、今日は葬儀から帰ってきたばかりだろう』

「待っていたら、あなたの手帳に一行増えるだけよ」

『私が書けないと知って、強気になったね』

「そうではなくて。わたくしが明日も覚えているか分からないもの」


 便箋の上で、ペン先を止める。

 書き出しは知っていた。こうした手紙の作法は、家庭教師から教わっている。

 けれど、型どおりの挨拶のあとに何を続ければよいか、出てこなかった。


「……どのように書けばよいかしら」

『あなたが、あの人に何を言いたいかによるね』

「わたくしのリボンを、ああいうふうに言わないでほしいわ」

『まず、ご自分のお気持ちは確かだね』

「それだけではないの。手紙を読んでいなかったことと、来てくれたのに会わなかったこと。それから……」


 ペン先に溜まったインクを壺の縁へ戻した。


「いらっしゃらなくて結構だと、本当にそうしたいわけではないのに、言ったこと」


 リゼットはうなずいた。


『なら、そう書けばいい。届いた手紙は、あの人が読むんだよ。私が採点するんじゃない』


 エレオノーラは一行書いた。

 次の一行を書いて、眉を寄せる。


「リゼットが手紙を渡さなかったので、返事が遅れました、では……」

『事実ではあるね』

「でも何だか、わたくしは悪くないと言っているみたい」

『その続きをどうするつもりかと思っていたよ』

「先に止めてちょうだい」

『何でも私の言うとおりにしたいのかな?』


 エレオノーラはペンを止めた。

 リゼットは、口を挟まずに待っていた。


「……それは少し困るわ。あなた、気に入らない手紙は渡さないし、お菓子まで勝手に決めるもの」

『なかなか手厳しい評価だね』

「あなたが聞いたのでしょう」


 リゼットが、喉の奥で笑うような顔をした。


『うん。それでいいよ』


 便箋を替え、自分が開けるべき手紙を任せきりにしていたことを書いた。

 招待を取り消したことを謝り、落ち着いたら、また話す時間をもらいたいと続ける。

 リボンのことは、最後まで迷った。


「書いてもよいかしら。あの言い方は、嫌だったと」

『私ならそこは書かずに済ませるかな。今度こそ、早く収めたいからね』


 エレオノーラは手紙を見下ろした。それから、もう一行加えた。

 返事が来たときにまた腹を立てるかもしれない。それでも、二度と来るなとは言わずに済むよう、まずは嫌だったことだけを伝えた。


「あなたに言うのとは、難しさが違うわね」

『私は、言われたあとも顔を出すからね。あの人は、そうとは限らない』

「あなたには、どんなに怒っても平気だったわ」


 リゼットは少し黙った。

 エレオノーラは、友人の灰色の袖を見た。


「……平気では、なかった?」

『あなたが怒っているから、すべて承知するというわけではなかったよ。言い返しただろう』

「ええ。わたくしのお部屋の扉をあんなふうに閉める人は、ほかにいないわ」

『蝶番は無事だったから、勘弁してほしいね』

「それでも次の日には来てくれるでしょう。わたくしが嫌なことを言っても」

『その日は顔を見たくなくても、翌日は話したくなることもあるんだよ』


 エレオノーラは、膝の上のハンカチを畳んだ。

 自分が、どれだけその翌朝を当てにしていたか、今になって分かった。


「わたくしね、葬儀であなたが好きなお花も知らないと思ったの」

『花を選ぶのは、だいたい私だったからね』

「あなたの靴のことも、知らなかったわ。わたくしは、あなたのことなら何でも知っていると思っていたのに」

『靴は、茶色の編み上げだよ。かかとを低くしてもらった』

「……走りやすいように?」

『歩いて買い物を楽しむためさ。あなたの用事のことばかり考えていたわけじゃない』


 エレオノーラは顔を上げた。


『それから、花なら白い鈴蘭が好きだった。あなたが去年、窓辺に飾ったものだよ。覚えているかな』

「花売りの娘が持っていたのを籠ごと買ったのよね」

『そのあと、花瓶が足りなくなったね』

「それも、ごめんなさい」

『あれは、私も欲しかったからね。二人で分けるつもりが、食堂まで飾ることになったけど』


 金髪からほどけた一房が、頬にかかった。

 エレオノーラは自分で耳へ掛けた。


「あなたのお母様に、靴のことをお知らせするわ。引き取りに行くか相談してみる。それから、あなたのお話を聞かせてほしいとお手紙を書いてもよいかしら?」

『私の不出来なところをずいぶん教わることになるよ』

「今日、いくつか増えたから、もう少し増えても平気よ」

『あなたも負けず嫌いだね』

「あなたもでしょう」


 リゼットは否定しなかった。

 エレオノーラはロシュ家宛ての便箋を読み返した。最初の下書きを、うっかり同封しないよう端へ分ける。

 次に白い便箋を取り出したとき、扉が叩かれた。


「お下げしてもよろしゅうございますか」


 入ってきたマルトは、空の器に目を留めたあと、静かに盆を持ち上げた。


「おいしかったわ。厨房の者に、そう伝えてちょうだい」

「はい。きっと喜びます」

「それからお手紙を。明日の朝、送りたいものがあるの。宛名を確かめるのを手伝ってもらえる?」


 マルトは机へ目を向けた。


「ただいま、お確かめいたしましょうか」


 いつもなら、ではお願い、と任せていた。

 エレオノーラは時計を見た。


「あなた、もう下がる時間ではなくて?」

「まだ少しでしたら、差し支えございません」

「……明日、朝の支度が済んでからにしましょう。わたくしが忘れていたら言ってちょうだい」

『そこはまだ、人に頼るんだね』


 横から聞こえた声に、エレオノーラはちらりと視線を動かした。


「覚えていてほしいことを先に頼んでいるのよ」

「はい、お嬢様。承知いたしました」


 マルトがまじめにうなずいたので、言い直す機会を失った。

 リゼットは口元に手を当てていた。

 侍女が退出してから、エレオノーラは椅子を少しずらした。鏡台の丸椅子をその隣へ引き寄せる。


『何をするつもりかな』

「ここに座って。宛名は明日でよいけれど、書きたいことがまだあるの」

『あなたが書くのを見ていても、私は退屈しないよ。ただ、もう遅いからね』

「一枚だけ。それを書いたら、寝るわ」


 リゼットは椅子の縁を見定めて、ゆっくり腰を下ろした。今度は、ちょうどよい高さだった。

 肩が隣にあった。


 触れることはできない。それでも、次に顔を向ける場所がある。

 エレオノーラは便箋を斜めにして、インク壺を二人の間から少し離した。


「ねえ、リゼット」

『今度は、何の相談だい』

「あなたの好きなお菓子は、何だったの?」


 リゼットは一瞬、不意を突かれた顔をした。

 やがて、机へ肘を載せる真似をして、少し得意げに答えた。


『厨房で焼く、胡桃のタルトだよ。端のところが好きだった』

「まあ。あそこは、いつもあなたにあげていたわ」

『そう。あなたは柔らかい真ん中が好きだからね』

「では、あれは我慢していたわけではないのね」

『あれについては、たいへん円満な取り決めだったよ』


 エレオノーラは笑い、便箋にペンを下ろした。

 リゼットの母への手紙は、まだ不格好な一行目だった。

 今夜知ったことと、これから教えてほしいことが、少しずつ文字になった。

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― 新着の感想 ―
近いようで遠い関係性がイイ〜〜!!友人でも家族でもないそんな関係が伺えるやりとりが素晴らしいです。ちょっと思い込みの激しい頭の回転の良い使用人と、好みのはっきりしてるからこそまだ周りが見えてない令嬢の…
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