エピローグ そして彼女は今日も黒字を作る
エピローグ そして彼女は今日も黒字を作る
初夏の陽射しが、王都を柔らかく包み込んでいた。
王宮前広場では噴水がきらめき、石畳の上を子どもたちが駆け回っている。市場には色鮮やかな果物が積み上げられ、焼き菓子の甘い香りと香辛料の匂いが風に混ざっていた。
「今年は税が軽くなったってよ」
「景気もいいしな!」
「新しい学校までできるらしいぞ!」
商人たちの笑い声が響く。
王都は変わった。
ほんの半年前まで、重税と腐敗に喘いでいたとは思えないほどに。
その変化を生み出した人物の名前を、人々はもう知っている。
『氷の財務妃』
『数字の魔女』
『王国最強の会計士』
様々な異名で呼ばれる女性。
だが本人は、そのどれも気に入っていなかった。
「……魔女ではありません」
王宮執務室。
レティシアは帳簿から顔を上げ、心底不服そうに呟いた。
「普通の財務処理です」
「普通ではない」
即座に返したのはアルベルトだった。
彼は書類の山に埋もれながら苦笑する。
窓から吹き込む初夏の風が、机上の紙を揺らしていた。
今日のレティシアは淡い青灰色のドレスを着ている。
胸元には小さな銀細工のブローチ。
髪はゆるく結い上げられ、以前より柔らかい雰囲気になっていた。
それでも仕事中の目だけは鋭い。
まるで獲物を狙う猛禽類のようだ。
「東部領地の支出報告、数字が合いません」
レティシアは淡々と言った。
「金貨三百枚分、不自然に消えています」
「もう見つけたのか……」
「隠し方が雑です」
さらりと言う。
アルベルトは額を押さえた。
「最近、不正貴族たちが君を怖がり始めている理由が分かった」
「心外ですね」
「どの口が言う」
二人のやり取りを聞きながら、側近たちは遠い目をしていた。
今では王宮の日常である。
最初は誰も信じなかった。
まさか一人の元公爵夫人が、国家財政を立て直すとは。
だがレティシアは本当にやってのけた。
無駄な税を削り。
腐敗貴族を排除し。
流通を改善し。
国家予算を完璧に黒字化した。
しかも本人は、それを「普通の計算」としか思っていない。
「レティシア様!」
若い侍女が嬉しそうに入ってくる。
「本日のお茶菓子です!」
銀盆の上には、焼き立てのアップルパイが載っていた。
香ばしいバターの匂い。
煮詰めた林檎の甘い香り。
さらに小さな器には蜂蜜漬けの木苺。
「わあ……」
レティシアの表情が少し緩む。
それを見て、侍女たちが密かに顔を見合わせた。
最近、王宮では有名なのだ。
レティシアは甘いものに弱い、と。
「紅茶はこちらです!」
「ありがとうございます」
ふわりと湯気が立つ。
レティシアは一口飲んで、ほっと息を吐いた。
そんな姿をアルベルトが眺めている。
「なんですか」
「いや」
彼は笑った。
「仕事中の顔と違いすぎて面白い」
「甘味は脳の栄養です」
「つまり必要経費か」
「当然です」
真顔で頷かれ、アルベルトは吹き出した。
執務室に穏やかな笑い声が広がる。
その時だった。
側近の一人が慌てて飛び込んできた。
「殿下! 大変です!」
「どうした」
「南部監査局より報告が……!」
レティシアの目がすっと細くなる。
「脱税ですか?」
「な、なぜ分かったんです!?」
「その顔を見れば」
側近が青ざめる。
アルベルトは肩を震わせた。
「やっぱり怖いな君」
「褒め言葉として受け取ります」
レティシアは立ち上がる。
青灰色のドレスがさらりと揺れた。
「行きましょう、殿下」
「また仕事か」
「国家財政は待ってくれませんので」
「少しは休め」
「数字が乱れていると落ち着かないんです」
アルベルトは呆れたように笑った。
けれどその目は優しい。
「……本当に君は、数字が好きなんだな」
「ええ」
レティシアは静かに答える。
「数字は嘘をつきませんから」
昔。
彼女は数字だけを見て生きていた。
感情より合理性。
愛より帳簿。
だが今は少し違う。
数字の向こうに、人の笑顔が見える。
街の灯り。
子どもたちの笑い声。
温かな食卓。
それら全部が、彼女の整えた数字の先にある。
王宮廊下を歩きながら、アルベルトがふと彼女の手を握った。
「……殿下?」
「今夜、仕事が終わったら街へ行こう」
「視察ですか?」
「違う」
アルベルトは笑う。
「ただのデートだ」
レティシアは瞬きをした。
少し考える。
そして小さく笑った。
「では、経費計算は不要ですね」
「君は本当にぶれないな」
「重要な確認事項です」
二人の笑い声が廊下へ響く。
窓の外では、初夏の風が王都を吹き抜けていた。
こうして今日も。
元会計士の公爵夫人は。
誰かの未来を、静かに黒字へ変えていくのだった。




