第8話:取引と決意
王宮の回廊を、二つの影が疾走していた。
先頭を行くのは、雨に濡れた軍服姿の王太子クライヴ。その後ろに、深いフードを目深に被った小柄な影──「謎の薬師」ことエリーゼが続く。
「……急げ。宰相たちが『隔離』と称して、父上の寝室を封鎖している」
クライヴの声には、焦燥と殺気が混じっていた。
彼の手には、エリーゼが調合した琥珀色のフラスコが握りしめられている。
それは王の命であり、同時に二人の婚約を断ち切るための「手切れ金」でもあった。
王の寝室前には、重厚な鎧を着た騎士たちと、豪奢な法衣をまとった宰相が立ちはだかっていた。
「おや、殿下。このような深夜にどちらへ?」
「退け、宰相。父上に会う」
「なりませぬ。陛下の『石化の呪い』は感染力が高い。国体の護持のため、何人たりとも……」
宰相が慇懃無礼な笑みを浮かべて道を塞ぐ。
その背後、寝室の扉の前には、ピンク色のドレスを着た少女──ミア・キャンベルが跪き、祈りを捧げていた。
「ああ、女神よ……。私の愛で、陛下の穢れを浄化したまえ……」
甘ったるい香水の匂いが、回廊に充満している。
エリーゼはフードの下で顔をしかめた。
(バカなの? 呼吸器系が弱っている病人に、あんな揮発性の刺激物を吸わせるなんて)
「……そこを退けと言っている!」
クライヴが声を荒らげるが、騎士たちは動かない。宰相派の私兵だ。
宰相は、クライヴの背後にいる小柄な人影に目を留めた。
「おや、そちらの不審な者は? まさか、噂の『魔女』を連れ込んだのではありますまいな?」
「この者は私が招いた専門医だ。父上を診せる」
「医者? はっ、平民の民間療法など! 見なさい、あそこにいる聖女ミア殿の献身的な祈りを。あれこそが唯一の救いなのです」
宰相が芝居がかった手振りで示す先で、ミアが立ち上がった。
「殿下ぁ! 安心してください! 私の光魔法なら、どんな呪いもイチコロですぅ!」
ミアは自信満々に寝室の扉を開け放った。
その瞬間、中から漏れ出したのは、死臭に近い腐敗臭だった。
「……!」
クライヴが息を呑む。
天蓋付きのベッドに横たわる国王の姿は、あまりに無惨だった。
顔の半分が灰色の石と化し、喉元まで硬化が進んでいる。呼吸は浅く、ヒューヒューという音が辛うじて命を繋いでいる状態だ。
「さあ、見ていてください! 『聖なる癒やしの光よ(ホーリー・ヒール)』!」
ミアが両手をかざし、眩い光魔法を発動させる。
光が王の身体を包み込む。
普通なら、これで傷が塞がるはずだ。
だが──
「ガ、アアア……ッ!」
昏睡していたはずの王が、苦悶の声を上げた。
光を浴びた石化部分が、まるで栄養を得た植物のように脈打ち、急速にその範囲を広げ始めたのだ。首から胸へ、心臓へと、灰色の侵食が走る。
「え? え? なんでぇ!?」
ミアが悲鳴を上げる。
石化病の病原体は魔力を捕食して増殖する。彼女がやっているのは治療ではない。「餌やり」だ。
「やめろ! 父上が死ぬ!」
クライヴが飛び出そうとするが、騎士たちが剣を抜いて阻む。
宰相が冷酷に告げる。
「お静かに。これは好転反応です。聖女様の奇跡を邪魔する者は、王太子といえども拘束せよ!」
もはや隠そうともしない。王をこのまま死なせ、治療を妨害した罪をクライヴになすりつける気だ。
絶体絶命。
その時、静寂を破る音が響いた。
カツン、カツン。
硬質なブーツの音。
「……どきなさい。素人が」
フードの奥から響いたのは、絶対零度の冷徹な声だった。
エリーゼが一歩前に出る。
阻もうとした騎士の顔面に、懐から取り出したガラス瓶を投げつけた。
パリンと割れ、紫色の煙が広がる。
「ぐあっ!? め、目が……!」
催涙ガスだ。騎士たちが怯んだ隙に、エリーゼは王のベッドサイドへ滑り込む。
「なっ、何をする無礼者! 衛兵、斬り捨てろ!」
宰相が叫ぶ。
ミアが「私の患者取らないでよぉ!」と喚く。
だが、エリーゼは無視した。
目の前の患者(王)の喉元に、聴診器代わりの耳を当てる。
心拍微弱。石化進行度、ステージ4。あと数分で心臓が石になる。
「殿下、押さえて!」
叫ぶと同時、クライヴが騎士を振り切って駆け寄り、王の上半身を固定した。
阿吽の呼吸。
エリーゼはフラスコの栓を抜き、王の口をこじ開け、その液体を一滴残らず流し込んだ。
「そんな汚い泥水を陛下に……! 毒殺だ! 現行犯で捕らえろ!」
宰相が勝ち誇ったように叫ぶ。
ミアも「やっぱり魔女だわ!」と非難の声を上げる。
騎士たちの剣が、エリーゼの背中に迫る。
だが、剣が振り下ろされるより早く──
ピシッ。
乾いた音が、部屋中に響き渡った。
全員の動きが止まる。
王の顔を覆っていた灰色の石に、亀裂が入っていた。
パキ、パキパキパキッ!
音は連鎖する。
石化した皮膚が、まるで脱皮するようにボロボロと剥がれ落ちていく。
その下から現れたのは、血色の良い、健康な肌だった。
硬直していた胸郭が大きく波打ち、王が深く息を吸い込む。
「ぷはっ……! あ、ああ……息が、できる……」
王が目を開けた。
その瞳は濁りのない理知的な光を取り戻していた。
「な……」
宰相が腰を抜かしてへたり込む。
ミアが「嘘ぉ……」と口を開けたまま固まる。
魔法でも奇跡でもない。
ただの化学反応が、神秘のヴェールを剥ぎ取り、現実を突きつけたのだ。
「……成功、ですね」
エリーゼは小さく息を吐き、空になったフラスコを置いた。
フードを脱ぐ。
現れた銀髪と、冷ややかなアメジストの瞳が、狼狽する宰相たちを射抜いた。
「ローゼン公爵令嬢……!?」
宰相が呻く。
魔女の正体は、彼らが「引きこもりの無能」と侮っていた少女だった。
「陛下。ご気分はいかがですか」
「……ああ。身体が軽い。……そなたが救ってくれたのか、ローゼン家の娘よ」
「いいえ。私はただの通りすがりの薬師です」
エリーゼは淡々と答え、隣で呆然としているクライヴに向き直った。
そして、無言で右手を差し出した。
『契約履行』の合図だ。
クライヴの顔が歪む。
父は助かった。国も守られた。
だがその代償として、彼はこの最高に有能で、愛しい女性を手放さなければならない。
「……エリーゼ」
「約束です、殿下」
彼女の目は揺らいでいない。
ここで情に流されれば、また「都合のいい女」として政治に利用される。彼女は自分の自由と平穏を選び取ったのだ。
クライヴは血が出るほど拳を握りしめ、やがて力なく頷いた。
王宮の夜明け。
それは、国が救われた希望の朝であると同時に、二人の関係が終わる絶望の朝でもあった。




