第7話:パンデミック前夜
その朝、温室にもたらされたのは、紅茶の香りではなく、焦げ付くような不穏な空気だった。
「……お嬢様。下町で、奇妙な噂が流れています」
買出しから戻った乳母のマーサが、青ざめた顔で一枚のビラを差し出した。
粗悪な紙に刷られたそれは、王都の広場で撒かれていたものだという。
『石化の呪い、王都に蔓延す。元凶はローゼン公爵家の魔女なり』
エリーゼは眉ひとつ動かさず、そのビラを読み上げた。
「……魔女、ね。私のことかしら」
「冗談をおっしゃっている場合ではありません! 下町では既に数人が『身体が石のように固まって動けなくなる病』にかかり、教会へ担ぎ込まれたそうです。ですが、聖女様の祈りでも治らず……民衆は恐怖しています」
マーサの声が震えている。
疫病の恐怖は、理性を容易く食いつぶす。誰かを悪者に仕立て上げ、石を投げなければ不安で仕方がないのだ。
そして宰相派閥は、その矛先を「引きこもりの公爵令嬢」に向けた。完璧なシナリオだ。
「……メデューサ・シンドローム(石化病)。やっぱり、始まったのね」
エリーゼは静かに呟いた。
1周目の記憶が蘇る。この時期、謎の病が爆発的に流行し、多くの民が死んだ。そしてその混乱に乗じて、宰相が非常大権を握り、父公爵を失脚させたのだ。
王の崩御と共に。
(特効薬は、ある)
エリーゼは視線を棚の一角に向けた。
厳重に封印された、琥珀色の液体が入ったフラスコ。
1周目の獄中で必死に暗記したレシピを基に、この数ヶ月間、密かに精製し続けてきた「対抗抗体」だ。
これを使えば、病は治せる。
だが、これを出せばどうなる?
「なぜ令嬢がそんな薬を持っている?」「やはりお前が病を撒いて、自作自演したのではないか?」──そう追及されるリスクは高い。
私の目的は「静かに暮らすこと」。英雄になることでも、断罪されることでもない。
「……無視しましょう。公爵邸の警備は鉄壁よ。暴徒が入ってくることはないわ」
エリーゼはビラを暖炉に放り込んだ。
燃え上がる炎を見つめる瞳は冷たい。
だが、その指先が微かに震えていることを、自分だけは知っていた。
その日の深夜。
温室の窓が、乱暴に叩かれた。
いつもの「お忍び」ではない。切迫した、助けを求めるような音。
「……開けろ! 頼む、エリーゼ!」
雨に濡れたクライヴの声だ。
エリーゼが鍵を外すと、彼は泥だらけのブーツのまま転がり込んできた。
その顔色は、彼自身が石化しかけているかのように蒼白だった。
「どうしたのですか。今日は来ない約束では……」
「父上が……陛下が、危篤だ」
クライヴは床に膝をつき、絞り出すように言った。
「全身の皮膚が灰色に変色し、呼吸が浅くなっている。教会の高位司祭たちが総出で治癒魔法をかけたが、逆に進行が早まった。……もう、今夜が山だと言われた」
王の病状は、やはり石化病だった。
そして、魔法生物(病原体)にとって、魔力は最高のエサだ。治癒魔法をかければかけるほど、ウイルスは活性化し、宿主を石に変える。
「……そうですか」
「街の噂を聞いた。お前が『魔女』だと。……だが、俺は知っている。お前はこの温室で、人を癒やすための研究をしていたことを」
クライヴは顔を上げ、エリーゼを真っ直ぐに見つめた。
そこには、王太子の威厳も、男のプライドもなかった。
ただ、父親を救いたいと願う息子の、必死な眼差しだけがあった。
「エリーゼ。お前なら、何とかできるんじゃないのか? 俺の頭痛を治したあの知識で……父上を救ってくれ!」
「……」
「頼む! この通りだ!」
国の頂点に立つ男が、床に額を擦り付けていた。
沈黙が落ちる。雨音だけが温室のガラスを叩く。
エリーゼは、冷徹な計算をした。
見捨てれば、王は死ぬ。クライヴは即位するが、後ろ盾を失い、宰相の傀儡となるだろう。国は乱れ、いずれ革命や戦争が起きる。そうなれば、私の「平穏な引きこもり生活」も維持できない。
何より。
目の前で泣きそうな顔をしているこの男を、見捨てて寝覚めが良いほど、私は悪党になりきれていない。
「……殿下。顔を上げてください。床が汚れます」
エリーゼは静かに立ち上がり、棚の封印を解いた。
琥珀色のフラスコを手に取る。
「これは『石化解除薬』。病原体の殻を分解し、石化した細胞を軟化させる薬です。……ただし、劇薬です。失敗すれば即死するかもしれません」
「構わん。座して死を待つより、お前に賭けたい」
「……わかりました。同行します」
エリーゼは白衣の上から、顔を隠す深いフード付きのマントを羽織った。
そして、懐から一枚の書類を取り出し、クライヴの前に突き出した。
「ただし、条件があります」
「金か? 地位か? 何でも言え」
「いいえ。これに署名してください」
それは、彼女が準備していた**『婚約破棄合意書』**だった。
「私が王を救ったら、殿下は私との婚約を正式に破棄してください。そして、私への一切の干渉を禁じ、地方での薬師開業を許可すること」
クライヴが息を呑んだ。
その瞳に、動揺と、深い痛みが走る。
彼はこの数週間で、エリーゼとの未来を夢見始めていたのだから。
「……それが、条件か」
「はい。私は魔女扱いされています。王を救っても、宰相たちは私を『危険分子』として排除にかかるでしょう。その前に、王家との縁を切り、姿を消す必要があります。……私の命を守るための取引です」
嘘ではない。だが、本音の全てでもない。
これ以上、貴方に情が移る前に離れたい。そうでなければ、私はまた「貴方のために」と自分を殺して生きてしまうから。
クライヴは震える手で書類を受け取った。
数秒の葛藤。
やがて、彼は決断したようにペンを取り、乱暴に署名した。
「……わかった。約束する。だから、父上を助けてくれ」
「商談成立ですね」
エリーゼは書類を確認し、懐にしまった。
胸の奥がチクリと痛んだが、それは見なかったことにした。
「行きましょう。夜明けまでが勝負です」
エリーゼはフラスコを鞄に詰め、雨の降りしきる闇の中へと足を踏み出した。
引きこもりが、扉を開けた瞬間だった。
向かうは、因縁渦巻く王宮。
武器は、この一本の薬と、覚悟だけ。




