第6話:王子の禁断症状
夜会をボイコットした夜、温室の空気は静まり返っていた。
ハーブティーを飲み干し、一度は落ち着いたかに見えたクライヴだったが、その様子がどこかおかしかった。
「……寒い」
ソファに座るクライヴが、自身の肩を抱いて小さく震えていた。
温室内の気温は適温だ。これは物理的な寒さではない。
「離脱症状ですね」
エリーゼは冷静に診断を下した。
長期間摂取していたミアの「魅了毒」が、今夜のショック療法(夜会での過剰摂取と拒絶反応)によって急速に抜け落ちようとしている。
体内の毒が抜ける際、一時的に強烈な不安感や悪寒、渇望が生じるのは、薬物依存の典型的な症状だ。
「エリーゼ……茶を。もっと濃いやつをくれ」
「これ以上は胃が荒れます。今は耐えてください。毒が抜ければ楽になりますから」
「無理だ……頭の中が、うるさい」
クライヴは頭を抱え、うわ言のように呟き始めた。
普段の冷徹で完璧な王太子像は見る影もない。そこにいるのは、重圧と孤独に押し潰されかけた、ただの二十歳の青年だった。
「誰も俺を見ていない……。宰相も、貴族たちも、俺の背後に『権力』を見ているだけだ……。父上が倒れてから、誰も俺を……」
「……」
エリーゼは実験器具を片付ける手を止めた。
その言葉は、痛いほど彼女の古傷を抉った。
かつての自分もそうだった。「公爵令嬢」という看板、「王太子妃候補」という役割。誰も「エリーゼ」という人間を見てはいなかった。だから必死に着飾り、完璧を演じ、そして壊れた。
(……面倒くさい人)
本来なら放置して寝かせるべきだ。関われば情が移る。
けれど、目の前で震える男を放っておくことは、医療者としての矜持が許さなかった。
「……仕方ありませんね」
エリーゼは溜息をつくと、棚の奥から小瓶を取り出した。
『夢見の滴』。強力な鎮静作用を持つシロップだ。
彼女はソファに歩み寄り、クライヴの隣に腰を下ろした。
「殿下、口を開けて。これを飲めば眠れます」
「嫌だ……眠れば、また明日が来る。書類と、嘘と、媚び笑いの明日が……」
「来ませんよ。ここは私の聖域です。私が許可するまで、宰相も朝も入れません」
子供をあやすような口調で言い聞かせ、スプーン一杯のシロップを流し込む。
甘い薬液を嚥下し、クライヴの呼吸がわずかに深くなる。
だが、震えは止まらない。彼は無意識に何かを求めるように、エリーゼの袖を掴んだ。
「……行くな」
「行きませんよ。実験の片付けがあるんです」
「嘘だ……お前も、どうせ逃げる……」
その瞳は、迷子のように怯えていた。
エリーゼは観念した。これは薬だけでは治まらない。精神的な欠落だ。
彼女は躊躇いつつも、そっとクライヴの金色の髪に手を伸ばした。
「逃げません。私は引きこもりですから」
指先で、汗ばんだ髪を梳く。
一定のリズムで。ゆっくりと。
それはかつて、乳母が幼い自分にしてくれた入眠の儀式。
「……お前の手は、冷たいな」
「土いじりをしていますから」
「……でも、いい匂いだ。……土と、草の……」
クライヴの瞼が重く落ちていく。
彼はエリーゼの手に頬を擦り寄せた。まるで、何年も探し求めていた安息の地にようやく辿り着いたかのように。
「エリーゼ……」
最後に呼んだ名は、役職でも記号でもない、彼女個人の名前だった。
規則的な寝息が聞こえ始めるまで、エリーゼはその手を離すことができなかった。
(……なんて無防備な顔)
眠った王子の顔は、あどけなかった。
こんな男を、私は1周目で憎み、恐れていたのか。
いや、知らなかっただけだ。彼もまた、システムの中で摩耗する被害者だったことを。
「……今回だけですよ」
誰にともなく言い訳をして、エリーゼは彼に毛布をかけ直した。
翌朝。
小鳥のさえずりと共に目を覚ましたクライヴは、自分が温室のソファで寝ていたことを悟った。
身体を起こす。
驚くほど気分が良かった。頭痛も、焦燥感もない。昨夜の錯乱が嘘のように、思考が澄み渡っている。
「おはようございます。宿泊代、請求書に追加しておきますね」
実験机の方から、淡々とした声が飛んできた。
エリーゼは既に白衣を纏い、何やら怪しげな青い液体をフラスコで揺らしている。
いつも通りの、愛想のない背中。
だがクライヴは、昨夜の微かな記憶を覚えていた。
冷たくて優しい指先。
泥とハーブの香り。
そして、「逃げない」という言葉。
(……ああ、そうか)
クライヴは胸の奥に、かつてない感情が芽吹くのを自覚した。
これは「薬」への依存ではない。
この「空間」と、そこにいる「彼女」への渇望だ。
彼は立ち上がり、エリーゼの背後に歩み寄った。
「エリーゼ」
「なんですか。朝食なら出しませんよ」
「俺は、お前との婚約を破棄しない」
フラスコを持つエリーゼの手が滑りそうになった。
「……は? 何を寝ぼけたことを。昨夜の薬の副作用ですか?」
「正気だ。むしろ、今までで一番冴えている」
クライヴは彼女の隣に並び、その横顔を覗き込んだ。
狩人のような、あるいは宝を見つけた子供のような目だった。
「俺にはお前が必要だ。……いや、訂正しよう。俺の『健康維持』のために、お前という主治医が不可欠だ」
「私は薬師です。医者ではありません」
「同じことだ。俺は決めたぞ。お前をこの温室ごと、俺の管理下に置く」
それは、求愛というにはあまりに実務的で、独占欲に満ちた宣言だった。
「……お断りします。私は静かに暮らしたいんです」
「ならば尚更、俺の庇護下に入れ。宰相たちを黙らせ、お前の研究環境を死守してやる。その代わり、お前は俺だけの薬を作れ」
逃がさない。
その瞳が雄弁に語っていた。
エリーゼはゾクリと背筋が震えるのを感じた。
1周目の「無関心」とは真逆のベクトル。これはこれで、生存戦略的に非常に危険な兆候ではないか?
(……解毒しすぎた。完全に懐かれてしまったわ)
エリーゼは「実験失敗」のレポートを脳内で書きながら、深くため息をついた。
だが不思議と、その提案を「不快」だとは思わなかった自分に、彼女はまだ気づいていないふりをした。




