第5話:夜会のボイコット
その夜、王都の夜空は魔法の光で彩られていた。
王家主催の建国記念舞踏会。貴族にとって、出席は義務であり、欠席は社会的死を意味する最重要イベントだ。
だが、公爵邸の北外れにある温室だけは、世界の喧騒から切り離された静寂に包まれていた。
「……よし。これで完璧ですね」
エリーゼは羊皮紙にインクを走らせ、満足げに頷いた。
書き上げたのは、『診断書』だ。病名は「重度剥離性皮膚炎」。感染性あり。安静加療を要する。署名は、公爵家の主治医の筆跡を完璧に模倣したものだ。
「それを宰相に送りつけるのか? 公文書偽造だぞ」
実験台のソファで、正装に着替えたクライヴが呆れたように言った。
彼はこれから戦場(夜会)に向かう身だ。紺碧の軍服に金糸の刺繍、腰には儀礼用のサーベル。その姿は絵本から抜け出した王子のようだが、本人の顔色は死ぬほど暗い。
「偽造ではありません。予防措置です」
エリーゼは平然と封筒に蝋封をした。
「あの会場に行けば、私は必ずストレスで胃に穴が開き、肌が荒れます。つまり、未来の事実を先取りして書いただけです」
「……お前のその、屁理屈を堂々と言い切る度胸だけは評価する」
クライヴは溜息をつき、立ち上がった。
彼には逃げ場がない。摂政として、ホスト役を務めなければならないからだ。
「行ってくる。……ああ、気が重い」
「いってらっしゃいませ。お土産はいりませんので、ミア様の香水をたっぷり浴びて帰ってきても、入室拒否しますからね」
「縁起でもないことを言うな!」
クライヴは忌々しげに吐き捨てると、窓(修理済みだが鍵は開けてある)から夜の闇へと消えていった。
残されたエリーゼは、肩をすくめて薬草の選別に戻った。
1周目の今日、私はあの会場で王子にダンスをねだり、冷たくあしらわれ、笑い者になった。
だが今夜は違う。私はここで、ただの草と戯れる。
なんて贅沢で、平和な夜だろうか。
王宮の大広間は、むせ返るような熱気に満ちていた。
シャンデリアの輝き、楽団の演奏、絹擦れの音。そして何より──数多の貴族たちが振りまく、香水と整髪料と化粧粉の混ざり合った、濃厚な人工臭。
「うっ……」
入場した瞬間、クライヴは鼻を押さえた。
これまで「華やかな香り」だと思っていたそれが、今は「腐臭を隠すための厚塗り」のように感じられたのだ。
エリーゼの淹れる薬草茶で感覚が正常化(解毒)された鼻は、この空間の不自然さを敏感に察知していた。
「クライヴ殿下、お一人ですか?」
「ローゼン公爵令嬢は逃げたらしいぞ」
「顔が崩れたという噂は本当だったのね」
扇の陰から聞こえる噂話。好奇と嘲笑の視線。
以前なら、公爵家の体面を気にして苛立っていただろう。だが今は、心底どうでもよかった。
(エリーゼは正しかったな。ここは体に悪い)
作り笑顔で挨拶をかわしながら、クライヴは出口を探した。
その時だ。
「クライヴ殿下ぁ〜!」
人混みを割って、強烈な「甘さ」が突っ込んできた。
ピンク色のドレスを纏ったミア・キャンベルだ。
彼女はエリーゼ不在の好機を逃すまいと、今夜一番の気合を入れた特製香水を浴びるように纏っていた。
「お久しぶりですぅ! エリーゼ様がいなくて寂しいですよね? でも大丈夫、私が代わりにパートナーを務めますから!」
ミアは慣れ親しんだ動作で、クライヴの腕に自分の腕を絡ませようとした。
彼女のうなじから、濃縮された薔薇と麝香の香りが漂う。
それはかつて、クライヴの思考を奪い、ふわふわとした高揚感を与えていた香りだ。
だが、今のクライヴの身体は「清浄」だった。
毒素が抜けきった健康な細胞は、再侵入しようとする異物(神経毒)に対して、最も原始的な拒絶反応を示した。
「──ッ、おぇ」
ロマンチックな場面で、あるまじき音が漏れた。
強烈な吐き気。
胃が裏返るような悪寒。
「へ……? で、殿下?」
腕を組もうとしたミアが凍りつく。
クライヴは反射的に彼女を突き飛ばすように振り払っていた。
「寄るな! ……臭い!」
大広間が静まり返った。
王太子が、聖女候補に向かって「臭い」と叫んだのだ。
だがクライヴには、取り繕う余裕などなかった。呼吸をするたびに、彼女の匂いが鼻粘膜を焼き、頭痛を引き起こす。
それは、エリーゼの温室にある「土の匂い」や「薬草の苦い香り」とは対極にある、まやかしの猛毒だった。
「ひどい……臭いだなんて……私、最高の香水をつけてきたのに……」
「それが毒だと言っているんだ! 下がれ、俺の半径5メートル以内に近づくな!」
クライヴはハンカチで口元を覆い、青ざめた顔で側近に合図した。
「退出する。……気分が悪い」
「は、はい! 殿下、こちらへ!」
騒然とする会場。泣き崩れるミア。
だがクライヴは一度も振り返らなかった。
今すぐ、あの場所へ行かなければ。
空気が綺麗で、嘘がなくて、苦いけれど身体に優しいお茶を出してくれる、あの偏屈な薬師の元へ。
ガタッ、と窓が開く音がした時、エリーゼは丁度カモミールの選別を終えたところだった。
「……早かったですね。まだ開始から一時間も経っていませんよ」
振り返ると、そこには幽鬼のように青ざめた王太子が立っていた。
彼はよろめきながら入ってくると、そのままエリーゼの前の椅子に崩れ落ちた。
「茶をくれ……。一番苦いやつを……」
「またですか? 一体何をしてきたんです」
「地獄を見てきた。……お前の言った通りだ。あそこは毒ガス室だった」
クライヴは肩で息をしながら、手袋を脱ぎ捨てた。
その顔には、疲労の色と共に、憑き物が落ちたような清々しさがあった。
「エリーゼ。俺は今まで、あんな厚化粧の虚構を『美しい』と思い込まされていたのか」
「ええ、まあ。貴族社会とはそういうものですから」
エリーゼは手慣れた動作でポットに湯を注ぐ。
立ち上る湯気は、ミントとレモングラスの香り。
クライヴはその香りを、まるで砂漠で水を見つけた遭難者のように深く吸い込んだ。
「……いい匂いだ」
「ただの草ですよ」
「いや、これがいい。……俺には、これが必要だ」
うわ言のように呟くクライヴを見て、エリーゼは少しだけ眉を寄せた。
なんだか、雲行きが怪しい。
私の計画では、彼は私を無視してミアとくっつくはずだった。
なのに今の彼は、ミアを全否定し、私の淹れる雑草茶に依存し始めている。
(解毒しすぎたかしら?)
差し出されたカップを両手で包み込み、幸せそうに啜る王子。
その姿は、もはや「婚約者」ではなく、完全に「餌付けされた大型犬」だった。
「……殿下、言っておきますが、追加料金は高いですよ」
「城の予算を回す。言い値でいい。だから、明日も来ていいか?」
夜会の華やかな光よりも、薄暗い温室のランプの下で、二人の奇妙な夜は更けていく。
エリーゼはまだ知らない。
この夜の「拒絶」によって、王宮でのミアの立場が崩壊し始め、代わりに「姿を見せない公爵令嬢」への関心が、別の意味で高まってしまうことを。




