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2度目の悪役令嬢は、断罪回避をあきらめて「引きこもり薬師」を目指します  作者: 秋月 もみじ


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5/10

第5話:夜会のボイコット


 その夜、王都の夜空は魔法の光で彩られていた。

 王家主催の建国記念舞踏会。貴族にとって、出席は義務であり、欠席は社会的死を意味する最重要イベントだ。


 だが、公爵邸の北外れにある温室だけは、世界の喧騒から切り離された静寂に包まれていた。


「……よし。これで完璧ですね」


 エリーゼは羊皮紙にインクを走らせ、満足げに頷いた。

 書き上げたのは、『診断書』だ。病名は「重度剥離性皮膚炎」。感染性あり。安静加療を要する。署名は、公爵家の主治医の筆跡を完璧に模倣したものだ。


「それを宰相に送りつけるのか? 公文書偽造だぞ」


 実験台のソファで、正装に着替えたクライヴが呆れたように言った。

 彼はこれから戦場(夜会)に向かう身だ。紺碧の軍服に金糸の刺繍、腰には儀礼用のサーベル。その姿は絵本から抜け出した王子のようだが、本人の顔色は死ぬほど暗い。


「偽造ではありません。予防措置です」

 エリーゼは平然と封筒に蝋封をした。

「あの会場に行けば、私は必ずストレスで胃に穴が開き、肌が荒れます。つまり、未来の事実を先取りして書いただけです」

「……お前のその、屁理屈を堂々と言い切る度胸だけは評価する」


 クライヴは溜息をつき、立ち上がった。

 彼には逃げ場がない。摂政として、ホスト役を務めなければならないからだ。


「行ってくる。……ああ、気が重い」

「いってらっしゃいませ。お土産はいりませんので、ミア様の香水をたっぷり浴びて帰ってきても、入室拒否しますからね」

「縁起でもないことを言うな!」


 クライヴは忌々しげに吐き捨てると、窓(修理済みだが鍵は開けてある)から夜の闇へと消えていった。

 残されたエリーゼは、肩をすくめて薬草の選別に戻った。

 1周目の今日、私はあの会場で王子にダンスをねだり、冷たくあしらわれ、笑い者になった。

 だが今夜は違う。私はここで、ただの草と戯れる。

 なんて贅沢で、平和な夜だろうか。


 王宮の大広間は、むせ返るような熱気に満ちていた。

 シャンデリアの輝き、楽団の演奏、絹擦れの音。そして何より──数多の貴族たちが振りまく、香水と整髪料と化粧粉の混ざり合った、濃厚な人工臭。


「うっ……」


 入場した瞬間、クライヴは鼻を押さえた。

 これまで「華やかな香り」だと思っていたそれが、今は「腐臭を隠すための厚塗り」のように感じられたのだ。

 エリーゼの淹れる薬草茶で感覚が正常化(解毒)された鼻は、この空間の不自然さを敏感に察知していた。


「クライヴ殿下、お一人ですか?」

「ローゼン公爵令嬢は逃げたらしいぞ」

「顔が崩れたという噂は本当だったのね」


 扇の陰から聞こえる噂話。好奇と嘲笑の視線。

 以前なら、公爵家の体面を気にして苛立っていただろう。だが今は、心底どうでもよかった。

 

(エリーゼは正しかったな。ここは体に悪い)


 作り笑顔で挨拶をかわしながら、クライヴは出口を探した。

 その時だ。


「クライヴ殿下ぁ〜!」


 人混みを割って、強烈な「甘さ」が突っ込んできた。

 ピンク色のドレスを纏ったミア・キャンベルだ。

 彼女はエリーゼ不在の好機を逃すまいと、今夜一番の気合を入れた特製香水を浴びるように纏っていた。


「お久しぶりですぅ! エリーゼ様がいなくて寂しいですよね? でも大丈夫、私が代わりにパートナーを務めますから!」


 ミアは慣れ親しんだ動作で、クライヴの腕に自分の腕を絡ませようとした。

 彼女のうなじから、濃縮された薔薇と麝香ムスクの香りが漂う。

 それはかつて、クライヴの思考を奪い、ふわふわとした高揚感を与えていた香りだ。


 だが、今のクライヴの身体は「清浄」だった。

 毒素が抜けきった健康な細胞は、再侵入しようとする異物(神経毒)に対して、最も原始的な拒絶反応を示した。


「──ッ、おぇ」


 ロマンチックな場面で、あるまじき音が漏れた。

 強烈な吐き気。

 胃が裏返るような悪寒。


「へ……? で、殿下?」


 腕を組もうとしたミアが凍りつく。

 クライヴは反射的に彼女を突き飛ばすように振り払っていた。


「寄るな! ……臭い!」


 大広間が静まり返った。

 王太子が、聖女候補に向かって「臭い」と叫んだのだ。

 だがクライヴには、取り繕う余裕などなかった。呼吸をするたびに、彼女の匂いが鼻粘膜を焼き、頭痛を引き起こす。

 それは、エリーゼの温室にある「土の匂い」や「薬草の苦い香り」とは対極にある、まやかしの猛毒だった。


「ひどい……臭いだなんて……私、最高の香水をつけてきたのに……」

「それが毒だと言っているんだ! 下がれ、俺の半径5メートル以内に近づくな!」


 クライヴはハンカチで口元を覆い、青ざめた顔で側近に合図した。


「退出する。……気分が悪い」

「は、はい! 殿下、こちらへ!」


 騒然とする会場。泣き崩れるミア。

 だがクライヴは一度も振り返らなかった。

 今すぐ、あの場所へ行かなければ。

 空気が綺麗で、嘘がなくて、苦いけれど身体に優しいお茶を出してくれる、あの偏屈な薬師の元へ。


 ガタッ、と窓が開く音がした時、エリーゼは丁度カモミールの選別を終えたところだった。


「……早かったですね。まだ開始から一時間も経っていませんよ」


 振り返ると、そこには幽鬼のように青ざめた王太子が立っていた。

 彼はよろめきながら入ってくると、そのままエリーゼの前の椅子に崩れ落ちた。


「茶をくれ……。一番苦いやつを……」

「またですか? 一体何をしてきたんです」

「地獄を見てきた。……お前の言った通りだ。あそこは毒ガス室だった」


 クライヴは肩で息をしながら、手袋を脱ぎ捨てた。

 その顔には、疲労の色と共に、憑き物が落ちたような清々しさがあった。


「エリーゼ。俺は今まで、あんな厚化粧の虚構を『美しい』と思い込まされていたのか」

「ええ、まあ。貴族社会とはそういうものですから」


 エリーゼは手慣れた動作でポットに湯を注ぐ。

 立ち上る湯気は、ミントとレモングラスの香り。

 クライヴはその香りを、まるで砂漠で水を見つけた遭難者のように深く吸い込んだ。


「……いい匂いだ」

「ただの草ですよ」

「いや、これがいい。……俺には、これが必要だ」


 うわ言のように呟くクライヴを見て、エリーゼは少しだけ眉を寄せた。

 なんだか、雲行きが怪しい。

 私の計画では、彼は私を無視してミアとくっつくはずだった。

 なのに今の彼は、ミアを全否定し、私の淹れる雑草茶に依存し始めている。


(解毒しすぎたかしら?)


 差し出されたカップを両手で包み込み、幸せそうに啜る王子。

 その姿は、もはや「婚約者」ではなく、完全に「餌付けされた大型犬」だった。


「……殿下、言っておきますが、追加料金は高いですよ」

「城の予算を回す。言い値でいい。だから、明日も来ていいか?」


 夜会の華やかな光よりも、薄暗い温室のランプの下で、二人の奇妙な夜は更けていく。

 

 エリーゼはまだ知らない。

 この夜の「拒絶」によって、王宮でのミアの立場が崩壊し始め、代わりに「姿を見せない公爵令嬢」への関心が、別の意味で高まってしまうことを。

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