第4話:聖女の煙攻め
その日、公爵邸の廃温室には、穏やかな時間が流れていた。
昼下がりの陽光が差し込む中、エリーゼは実験机で薬草を刻み、その傍らのソファでは、この国の王太子クライヴが優雅にティーカップを傾けている。
「……随分と顔色が良くなりましたね。もう解毒剤は不要では?」
エリーゼがジト目で指摘すると、クライヴは涼しい顔で答えた。
「まだ頭の芯に鈍痛がある。それに、城の茶は不味くて飲めん」
「贅沢病ですね。追加料金をいただきますよ」
「構わん。ツケておけ」
ここ数日、クライヴは公務の合間にこの温室を訪れていた。
名目は「公爵令嬢の病気見舞い」だが、実態は「解毒剤の摂取」と「仮眠」だ。エリーゼにとっても、彼がいる間は父公爵が文句を言いに来ないので、意外と快適な共生関係となっていた。
だが、その平穏は唐突に破られた。
「お、お嬢様! 大変です!」
侍女のマーサが、血相を変えて温室の扉を叩いた。
「どうしたの? 父様なら『感染するから来るな』と……」
「違います! キャンベル男爵令嬢が……その、ミア様がいらしたのです!」
エリーゼの手が止まり、クライヴが眉をひそめた。
ミア・キャンベル。次期聖女候補であり、クライヴの周りをうろつく「ピンク色の頭痛の種」だ。
「なぜ男爵令嬢ごときが公爵邸に入れる? 門前払いしなさい」
「それが……『聖女として、病めるエリーゼ様を癒やしに参りました』と仰って、強引に……ああっ、もうそこまで!」
マーサの悲鳴と共に、温室の外から甘ったるい声が響いてきた。
「エリーゼ様ぁ〜! ミアですぅ! 心配で来ちゃいましたぁ!」
ガラス越しに見えるのは、フリル満載の桃色のドレスを着た少女。背後には、困惑する公爵家の使用人と、彼女の護衛騎士(魅了済み)を引き連れている。
王子の訪問は極秘(お忍び)だが、彼女は堂々と正面突破してきたらしい。
「……チッ。俺がいるとバレると面倒だ」
クライヴが舌打ちし、素早く身を隠そうとする。
エリーゼは冷静に温室の奥にある資材置き場(という名のガラクタ山)を指差した。
「あそこに隠れてください。絶対に音を立てないで」
「わかっている。……おい、どうする気だ?」
「どうもしません。物理的に追い返します」
エリーゼはゴーグルを装着し、マスクを二重にした。その姿は、令嬢というより解体業者だ。
クライヴが物陰に隠れたのと同時に、ドンドンと扉が叩かれた。
「エリーゼ様! 開けてください! 私、祈りの力で治してあげますから!」
「……お引き取りください。伝染病です」
エリーゼは扉越しに冷たく告げた。だが、ミアには言葉が通じない。
「嫌ですぅ! 私、エリーゼ様と仲直りしたいんです! 病気なんて、私の『聖なる愛の力』があれば一発ですよぉ!」
ミアは善意100%だ。自分が拒絶されているとは露ほども思っていない。「恥ずかしがっているだけ」と脳内変換しているのだ。これが一番タチが悪い。
さらに悪いことに、彼女の護衛騎士が剣の柄に手をかけた。
「ミア様、この扉は立て付けが悪いようです。私がこじ開けましょう」
「えっ、いいの? じゃあお願い♡」
ガガン! と金属音が響く。不法侵入未遂だ。
物陰のクライヴが飛び出しそうになる気配を感じたが、エリーゼは手で制した。
ここで王子が出て行けば、「王子と密会していた」と騒がれ、ミアの被害者面ムーブが加速するだけだ。
「……言葉が通じないなら、仕方ありませんね」
エリーゼは手元の七輪に火をつけた。
そして、乾燥させた『竜の屁』と呼ばれるハーブの束を放り込む。
これは本来、農作物を荒らす巨大害虫を駆除するために使われる、強烈な刺激臭を放つ忌避剤だ。
「換気口、閉鎖。排煙ダクト、扉側へ開放」
エリーゼは手慣れた手つきでダクトを操作し、送風機(手回し式)を回した。
もくもくと立ち上る黄色い煙が、一直線に扉の隙間へと吸い込まれていく。
「さあ、開きますよぉ〜……えっ、なにこれ、くさっ!?」
扉の隙間から噴出した黄色い煙幕が、ミアと騎士を直撃した。
その臭いは、腐った卵と古漬けと硫黄を混ぜて煮込んだような、生物の本能が「逃げろ」と叫ぶ悪臭だ。
「きゃあああ! 目が、目がぁ!」
「ぐおっ!? なんだこの毒ガスは!」
騎士が剣を取り落とし、ミアが顔を押さえてのたうち回る。
聖女の加護も、魅了の魔力も、物理的な悪臭の前には無力だ。生理現象には勝てない。
「ゲホッ、オェッ……ひどい、ひどいですエリーゼ様ぁ!」
「消毒です。病原菌が死滅するまで燻しますので、そこにいてくださいね」
「無理ぃ! 死んじゃう! 退却ぅ!」
ミアはドレスの裾を捲り上げ、聖女とは思えない速さで逃げ出した。騎士たちも這うようにして後を追う。
公爵家の使用人たちは、風上にいたため難を逃れ、呆然とその様子を見送っていた。
庭が静寂を取り戻す。
エリーゼは送風機を止め、満足げに頷いた。
「害虫駆除、完了です」
マスクを外すと、背後から押し殺したような震える声が聞こえた。
「くっ、くく……っ!」
資材置き場から出てきたクライヴが、腹を抱えて笑っていた。
王太子としての威厳など欠片もない、年相応の少年の笑い声だ。
「あははは! 見たか、あの顔! 『聖なる愛の力』が、竜の屁に負けて逃げ帰るとは!」
「……笑い事ではありません。残り香が染み付いたらどうするんですか」
「いや、すまない。……今まで、あいつの涙を見るたびに『守らねば』という謎の焦燥感に駆られていたんだが」
クライヴは目尻の涙を拭い、真顔に戻った。
「今、あいつが鼻水を垂らして逃げるのを見ても、何も感じなかった。むしろ滑稽だと思った。……俺の目は、本当に曇っていたんだな」
それは、ミアの「魅了」が完全に解けた瞬間だった。
神秘性も可憐さも剥がれ落ちたミアは、ただの「迷惑で非常識な女」でしかない。
エリーゼの物理的な反撃(悪臭)が、魔法的な洗脳を強制解除したのだ。
「君は凄いな、エリーゼ。剣も魔法も使わず、あの聖女を撃退するとは」
「私はただ、平穏を守りたかっただけです」
「その平穏への執念が、俺を救ってくれた」
クライヴは一歩近づくと、自然な動作でエリーゼの髪についた煤を払った。
その距離の近さに、エリーゼの心臓が不覚にも跳ねた。
「……触らないでください。臭いがつきます」
「構わんと言っただろう。……ああ、いい気分だ。こんなに笑ったのは何年ぶりだろうな」
王子の笑顔は、1周目の記憶にある「冷酷な仮面」とは別人のように柔らかかった。
エリーゼはそっぽを向き、赤くなりそうな耳を隠すようにゴーグルを掛け直した。
(調子が狂うわ。……早く帰ってくれないかしら)
だが、この日の事件でクライヴの「ミアへの未練」は消滅し、代わりにエリーゼへの「共犯者意識」が強固なものになったことは間違いなかった。




