第3話:餌付けと解毒
差し出されたカップの中身は、どう好意的に見ても「沼の水」だった。
深緑色に濁り、草の茎のようなものが浮いている。湯気と共に立ち上るのは、鼻が曲がりそうなほどの強烈な苦味と、清涼感のある香り。
「……毒か?」
膝をついたまま、クライヴは脂汗を浮かべて問いかけた。
視界が明滅している。頭の中で鐘が鳴り響くような激痛。限界だった。
「毒なら、もっと飲みやすく作りますよ。苦しまずに死ねるように」
エリーゼは無表情で肩をすくめると、躊躇なくカップに口をつけ、その液体を一口啜った。
ごくり、と喉が鳴る。
「ほら。ただの強壮剤兼、解毒ハーブティーです。……もっとも、殿下のような軟弱な舌には合わないかもしれませんが」
「挑発のつもりか……!」
クライヴは引ったくるようにカップを奪い取った。
このまま倒れて、騎士団に担ぎ込まれる無様な姿を晒すわけにはいかない。毒でなければ、泥水でも飲んで正気を保つ必要があった。
彼は一気に液体を煽った。
「ぐっ……!?」
喉が焼けるような苦味。泥とミントを煮詰めて凝縮したような暴力的な味が、食道を駆け下りる。
吐き出しそうになった、その時だ。
胃の底から、カッと熱いものが広がった。
直後、血流が爆発的に巡り始める感覚と共に、頭を締め付けていた万力のような痛みが、嘘のように消え去った。
視界の歪みが晴れ、呼吸が深くなる。
「……な、んだこれは」
クライヴは愕然として自分の手を見つめた。
教会の高位司祭が使う「回復魔法」でも、ここまで鮮やかに頭痛が消えたことはない。魔法特有の浮遊感もなく、ただ純粋に「身体機能が正常化した」感覚だ。
「成分は秘密ですが、血管を拡張して、血中の毒素を尿として排出させる作用があります」
エリーゼは空になったカップを受け取り、淡々と解説した。
「殿下、最近『甘い匂い』のする場所に長時間いませんでしたか? その匂いの成分が神経に蓄積して、中毒症状を起こしていますよ」
「甘い、匂い……?」
思い当たる節しかなかった。
男爵令嬢ミア・キャンベルだ。彼女が執務室に差し入れに来るたび、あるいは隣に座るたび、強烈な花の香りが漂っていた。
周囲は「癒やしの香りだ」と絶賛していたが、クライヴだけは微かな不快感を覚えていたのだ。
「あれが、毒だと?」
「毒というより、麻薬に近いですね。摂取し続けると判断力が鈍り、依存性が高まります。……まあ、今の薬で一時的に中和しましたから、数時間は楽になるはずです」
エリーゼは興味なさそうに言い捨てると、実験台の方へ戻ろうとした。
しかし、クライヴは立ち上がれなかった。
痛みが消えたことで、これまで気力だけで誤魔化していた「数日分の徹夜の疲労」が、一気に押し寄せてきたのだ。
「すまない、少し……休ませてくれ」
クライヴは抗う間もなく、温室の隅に置かれたボロ切れのようなソファへ倒れ込んだ。
意識が急速に泥のように沈んでいく。
最後に見たのは、倒れた自分を一瞥し、「邪魔だなぁ」と心底嫌そうに溜息をつく婚約者の顔だった。
目を覚ました時、温室の中は茜色に染まっていた。
どれくらい眠っていたのだろう。数時間か、あるいは数分か。
クライヴは重い体を起こした。かけられていた粗末な毛布が滑り落ちる。
「生きてますか? 死なれると死体処理が面倒なので、そろそろ起きてください」
実験机に向かっていたエリーゼが、背中を向けたまま声をかけてきた。
カチャカチャと乳鉢を擦る音が心地よく響いている。
クライヴは深呼吸をした。
驚くほど頭が軽い。身体の節々の痛みも消えている。ここ数年で、これほど深く眠れたことがあっただろうか。
宰相の嫌味も、書類の山も、ミアの纏わりつくような視線もない。
あるのは、土と薬草の静かな匂いだけ。
「……礼を言う。身体が軽い」
クライヴはソファから立ち上がり、ポケットから金貨を一枚取り出して机に置いた。
窓ガラスの修理代と、薬代としては破格の金額だ。
「口止め料込みだ。俺がここで寝ていたことは他言無用で頼む」
「ご安心を。殿下がサボっていたなんて噂が流れたら、私の隠れ家まで捜索されますから。墓場まで持っていきますよ」
エリーゼは金貨を素早く懐にしまうと、初めて少しだけ口元を緩めた。金には弱いらしい。
「あの薬、もう一杯もらえるか」
「ダメです。あれは劇薬です。一日に何度も飲めば胃が荒れます」
「なら、茶葉をくれ。城で飲む」
「それもダメです。素人が淹れると毒になります。温度管理と抽出時間が重要なので」
エリーゼは頑として首を振った。
彼女にとって、薬は半端な知識で扱ってはいけない聖域なのだ。その職人気質な態度に、クライヴは苦笑した。
「ならば、また来る」
その言葉に、エリーゼの手がピタリと止まった。
振り返った彼女の顔には、「は?」という文字が張り付いていた。
「お断りします。ここは私の聖域です。殿下の来る場所ではありません」
「俺にはあの茶が必要だ。それに、ここなら宰相の目も届かない」
クライヴにとって、これは政治的な判断だった。
自分の判断力を奪っていたのが「ミアの香水」だとすれば、城は危険地帯だ。
解毒ができるこの温室こそが、唯一安全な補給基地となる。
「君にとっても悪い話ではないはずだ。俺が通えば、君の父公爵も文句は言えない。研究費が必要なら、俺が出そう」
「……」
エリーゼの目が計算高く細められた。
彼女は「生存」と「研究」を天秤にかけている。
王子の頻繁な訪問はリスクだが、同時に「公爵(父)からの干渉」を防ぐ最強の盾にもなる。それに、王太子の財布は魅力的だ。
「……条件があります」
長い沈黙の後、彼女は指を一本立てた。
「一、私の研究の邪魔をしないこと。二、私はお茶を淹れるだけで、愛想は振りまきません。三、私の実験台になっていただく場合があります」
「実験台?」
「ええ。新作の味見係です。死にはしません。たぶん」
「……いいだろう」
クライヴは即決した。
毒見など、宮廷での食事に比べればマシだ。
「契約成立ですね。では、さっさと帰ってください。閉店時間です」
エリーゼはシッシッと手を振って追い立てる。
クライヴは割れた窓から外へ出ると、待機させていた近衛騎士団長と合流した。
「殿下、ご無事で!? 公爵令嬢に何かされたのでは!」
「ああ。……不味い茶を飲まされた」
そう答えるクライヴの口元には、久しぶりに皮肉ではない、自然な笑みが浮かんでいた。
頭痛がない。思考がクリアだ。
これなら戦える。
温室を振り返る。
あそこには、この国で唯一、俺を「王太子」ではなく「邪魔な客」として扱う女がいる。
その事実が、奇妙なほどクライヴの心を奮い立たせていた。




