第10話:終身雇用契約
玉座の間で、紙片が舞い散った。
それは、エリーゼが生存戦略の切り札として用意していた『婚約破棄合意書』の残骸だった。
「……陛下。どういうおつもりですか」
エリーゼは引きつった笑顔で問いかけた。
目の前の国王は、病み上がりとは思えないほど血色が良く、そして悪い顔をしていた。
「契約不履行だと責めるか? だが、その契約は『王太子』とのものだ。王家の家長である余は承認しておらん」
「それは……屁理屈です!」
「王とは理屈そのものだ。よいか、ローゼン公爵令嬢。そなたは余の命を救い、国を救った。そんな『国宝級の人材』を、はいそうですかと野に放てるわけがなかろう」
国王は玉座に座り直し、指を組んだ。
「考えても見よ。そなたが市井の薬師になったとしよう。隣国の帝国の密偵が、そなたを誘拐しない保証はあるか? あるいは、宰相の残党が報復に来ないと言い切れるか?」
エリーゼは言葉に詰まった。
痛いところを突かれた。私の技術(特効薬製造)は、既に国家機密レベルだ。一人で薬屋を開くなど、無防備に黄金を持ち歩くようなもの。
平穏なスローライフなど、夢のまた夢。
「そこでだ。余から新しい提案がある」
国王が合図すると、侍従が新しい羊皮紙を広げた。
そこには、驚くべき条件が羅列されていた。
王宮の敷地内に、ローゼン公爵令嬢専用の「王立薬草研究所」を設立する。
研究予算は無制限(国家予算から直引き)。
公務、夜会、社交は一切免除。
研究所内での服装、言動は自由とする。
「……なっ」
エリーゼの目が釘付けになった。
これは、彼女が公爵邸の廃温室で細々とやっていたことの、国家規模バージョンだ。
最新の設備、希少な素材、そして面倒な人間関係からの解放。
薬師にとって、これ以上の楽園はない。
「こ、これは……雇用契約、ですか?」
「そうだ。王家直属の『宮廷主席薬師』としての待遇だ。どうだ、悪い話ではなかろう」
国王がニヤリと笑う。
悪魔の囁きだ。断る理由が見当たらない。
だが、一つだけ問題がある。
「……待遇は最高ですが。それなら、婚約は破棄して『職員』として雇っていただければ……」
そう。王太子と結婚する必要はないはずだ。
しかし、その退路を断ったのは、隣でずっと黙っていたクライヴだった。
「それはダメだ」
クライヴが一歩前に出た。
彼は懐からペンを取り出し、その契約書の末尾に、サラサラと一文を書き足した。
ただし、本契約の条件として、王太子クライヴ・アシュバートンの『専属健康管理医』となり、生涯その心身を管理すること。
「……殿下?」
「エリーゼ。俺はもう、お前の淹れる茶がないと眠れない身体にされた。お前の手が触れないと、頭痛が止まらないんだ」
クライヴは真顔で、とんでもなく重いセリフを吐いた。
衆人環視の中で。
「責任を取れとは言わない。だが、俺という患者を見捨てるのか? お前の医療者としての良心が、それを許すのか?」
「っ……卑怯です」
彼は知っているのだ。エリーゼが「困っている患者(特に自分)」に弱いことを。
クライヴはエリーゼの手を取り、その手の甲に唇を寄せた。
「俺を利用しろ、エリーゼ。最高の研究環境と、絶対的な安全。それを維持するための『スポンサー兼番犬』として、俺を使えばいい」
「……王太子を番犬にするなんて、不敬罪で首が飛びますよ」
「構わない。俺の首輪を握れるのは、世界でお前だけだ」
その瞳は、熱かった。
1周目の冷徹さも、2周目当初の猜疑心もない。
そこにあるのは、呆れるほどの執着と、全幅の信頼。
エリーゼは大きく溜息をついた。
計算機が弾き出した答えは「YES」だ。
感情的にも……まあ、悪くない。
この男は面倒くさいが、私の聖域を壊さないと約束した。そして何より、彼となら「背中を預けて戦える」ことを、今夜の王宮奪還劇で知ってしまった。
「……わかりました。契約、成立です」
エリーゼが頷いた瞬間、玉座の間が割れんばかりの拍手に包まれた。
クライヴの顔が輝き、勢いよく彼女を抱きしめる。
「苦しいです、殿下。……それに、まだ『薬草の匂いがする』とか言わないでくださいね」
「言うさ。一生、俺の鼻腔をその匂いで満たしてくれ」
諦めの混じったエリーゼの表情は、しかし、どこか満更でもなさそうだった。
──数年後。
王宮の最奥に、不思議な区画があった。
一年中ガラスに覆われ、青々とした植物が茂る「王立薬草研究所」。
そこは「引きこもり妃」と呼ばれる王太子妃エリーゼの城だ。
「……コラ、クライヴ。また仕事をサボってここに来ましたね」
白衣姿のエリーゼが、ソファで丸まっている金髪の男をジト目で見下ろした。
次期国王であるクライヴは、山のような書類から逃げ出し、妻の膝に頭を乗せてくつろいでいる。
「休憩だ。補給が切れた」
「はいはい。特製ハーブティーを淹れますから、飲んだら戻ってください」
「……あと五分。このまま充電させろ」
クライヴはエリーゼの腰に手を回し、その白衣に顔を埋める。
土と、薬草と、陽だまりの匂い。
彼にとっての唯一の安息。
エリーゼは呆れつつも、その髪をそっと撫でた。
かつて断罪され、処刑された悪役令嬢はもういない。
ここにいるのは、国一番の技術を持ち、国一番の権力者に溺愛され、誰にも邪魔されずに好きな研究に没頭する、最強の「引きこもり妃」だ。
(まあ、悪くないわね。この生活も)
彼女は実験中のフラスコを揺らしながら、小さく微笑んだ。
その笑顔は、どんな宝石よりも美しく、そしてやっぱり少しだけ「毒」を含んでいた。
処刑台から始まった二度目の人生は、どうやら最高にハッピーな結末(研究成果)を迎えたようである。
(完)




