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ジュリアンの日常


夜明け前、王都はまだ眠っていた。


ジュリアン・ヴァレンタインは、毎朝五時に目を覚ます。寝室のカーテンを開け、窓から差し込む仄かな光を浴びる。空気は冷たく、澄んでいた。


彼は質素な部屋着に着替え、家の裏庭に出た。


訓練用の木剣を手に取り、基礎的な型を繰り返す。一振り、また一振り。呼吸は規則正しく、動きに無駄がない。三十分後、額に薄く汗が滲む。


トレーニングを終えると、簡素な朝食を作った。茹でた鶏胸肉、ブロッコリー、玄米粥。栄養バランスは完璧だが、味付けは最低限だ。


食卓の端に、小さな包みがあった。


薄い紙に包まれた、手のひらサイズの箱。中身は銀細工のブローチ——花の形をした、繊細な装飾品だ。


ジュリアンはそれを見て、小さく息を吐いた。


(腐らないものを選んだ。それが正しい)


彼は包みに触れず、朝食を黙々と食べた。


食後、彼は裏庭の犬小屋に向かった。猟犬が一匹、尻尾を振って出迎える。


「おはよう、ブルーノ」


ジュリアンは犬の頭を撫で、餌と水を与えた。犬は嬉しそうに食べ始める。


これが彼の日常だった。


規則正しく、無駄がなく、感情に左右されない。


(規則は感情を裏切らない)


ジュリアンは心の中で呟いた。


(感情はしばしば判断を誤らせる。だが、規則は——規則は常に正しい道を示す)


-----


午前七時、ジュリアンが着替えを終えた頃——玄関のドアがノックされた。


「開いてるぞ」


ドアが開き、ティムが入ってきた。目の下に隈があり、服は昨日と同じだ。


「おはよう」ティムは欠伸をしながら言った。「紅茶、もらえる?」


「徹夜か」


「まあね」


ティムは勝手に台所に入り、紅茶の葉を探した。ジュリアンは溜息をつきながらも、黙って見守った。


「何をしていた?」


「色々」ティムは湯を沸かしながら答えた。「酒を飲んだり、女性と楽しくおしゃべりしたり、乾杯したり」


「朝まで飲んでたのか」


「フィールドワークだよ」


ティムは紅茶を淹れ、ジュリアンの分も用意した。二人は食卓に座った。


「今日は何か予定あるの?」ティムが尋ねた。


「午後に誘拐事件の捜査会議がある」


ティムの手が止まった。


「誘拐?」


「ああ」ジュリアンは淡々と答えた。「子供が行方不明になった。容疑者は特定済みだが、証拠が足りない。令状の申請中だ」


「いつから?」


「三日前」


ティムは紅茶を一口すすり、静かに尋ねた。


「犯人の要求は?」


ジュリアンは答えなかった。


ティムはジュリアンの目を見た。そこには——僅かな焦燥があった。


「午後に呼んでくれ」ティムは立ち上がった。「何かできるかもしれない」


「待て、お前——」


だが、ティムはもう玄関に向かっていた。


「じゃあね。レディと予定があってね」


「……朝から?」


「前の晩から、だよ」


ティムはニヤリと笑ってドアを閉めた。


ジュリアンは一人、食卓に残された。


-----


午前中、ジュリアンは治安監督局の執務室にいた。


机の上には誘拐事件の書類が広がっている。被害者は七歳の少女、エミリア・ブラウン。三日前、学校からの帰り道で行方不明になった。


容疑者はロバート・ケイン——過去に人身売買で逮捕歴がある男。目撃証言もある。だが、決定的な証拠がない。


令状の申請は昨日提出した。承認が下りるのは、早くて今夜。


ジュリアンは書類を見つめた。


(最善の結果を出すための手順だ)


彼は自分に言い聞かせた。


(焦りは誤認を生む。冤罪は正義ではない)


だが、時計の針は刻々と進んでいく。


昼過ぎ、部下が駆け込んできた。


「監督官! ケインが動きました!」


「何?」


「家を引き払っています。共犯と思われる男たちが荷物を運び出しています」


ジュリアンは立ち上がった。


「すぐに追跡班を——」


「もう一つ」部下は躊躇いがちに言った。「現場に、あの男がいました」


「あの男?」


「ティム・ハートレイです」


ジュリアンの表情が険しくなった。


-----


ジュリアンは現場に急行した。


容疑者ケインの家は、王都の外れにある古びた長屋だった。だが今、その家は空っぽだった。家具も荷物も、すべて運び出されている。


「監督官」


部下が報告した。


「ティム・ハートレイが、一時間前にここに来ました。ケインと何か話をしていたようです」


「内容は?」


「不明です。ですが、その後すぐにケインは慌てて荷物をまとめ始めました」


ジュリアンは拳を握った。


(ティム……お前、何をした)


その時、背後から声がした。


「やあ」


振り向くと、ティムが立っていた。


「お前——」


「話がある」ティムは真面目な顔で言った。「場所が分かった」


-----


二人は人気のない路地裏で話した。


「エミリアは生きてる」ティムは静かに言った。「今夜、王都の外に移送される予定だ」


「どこで知った?」


「ケインを脅した」


ジュリアンは眉を顰めた。


「脅迫は——」


「犯罪だね」ティムは軽く言った。「でも、情報は得た。彼女は王都南部の廃屋に監禁されている」


「令状が——」


「今夜には間に合わない」


ティムはジュリアンの目を見た。


「今から行けば、間に合う」


ジュリアンは黙った。


「ただし、方法は非合法だ」ティムは続けた。「偽の通行証、身分偽装、強行侵入——君の嫌いなやつ全部」


「……」


「選べ。規則を守って子供を失うか、規則を破って子供を救うか」


ジュリアンは拳を握り締めた。


(規則は……規則は正しい)


だが、その規則が遅すぎる時、どうすればいい?


「……同行する」ジュリアンはやがて言った。「だが、主導は取らない。私はお前を止めに行く」


ティムは小さく笑った。


「了解」


-----


王都南部の廃屋——かつて倉庫として使われていた建物は、今は荒れ果てていた。


ティムとジュリアンは夕暮れ時、その建物に近づいた。


「見張りが二人」ティムは囁いた。「正面は無理だ」


「裏口は?」


「ある。でも、鍵がかかってる」


ティムは懐から小さな道具を取り出した——鍵開け用の針金だ。


「これは窃盗の道具では」


「人聞きが悪いな、緊急避難だよ」


ティムは素早く鍵を開けた。二人は静かに建物の中に入った。


薄暗い廊下を進むと、奥の部屋から声が聞こえた。


「明日の朝には船が出る。それまで静かにしてろ」


男の声だ。ティムとジュリアンは部屋の前で立ち止まった。


「令状がない状態で押し入れば——」


「だから、押し入らない」ティムは微笑んだ。「ただの『偶然通りかかった市民』として、子供を連れ出すだけだ」


ジュリアンは数秒考え、頷いた。


「分かった」


-----


ジュリアンは建物の正面に回った。見張りの二人が煙草を吸いながら立っている。


ティムが先に声をかけた。


「すみません、ちょっといいですか?」


ティムの声は明るく、人懐っこい。二人は警戒しながらも振り向いた。


「何だ?」


「この辺で退廃的なモチーフを探してるんですけど、ご存知ないですか? ここよりもっと崩れたような」


「知らねえよ。あっちの方じゃねえか」


見張りの一人が適当に方向を指差した。


「ああ、確かにあっちの方がありそうですね。ありがとうございます」ティムは歩き出しかけて、立ち止まった。「ところで、この建物って何に使ってるんです?」


「関係ねえだろ」


「いや、廃墟かと思って。もし倉庫なら、空いてる物件を探してまして——」


「空いてねえよ。さっさと行け」


ティムはニコニコしながら話し続けた。見張りたちは完全にティムに注意を向けている。


その隙に、ジュリアンは建物の裏側に回り込んだ。


-----


裏口の鍵を開け、ジュリアンは静かに建物の中に入った。


ジュリアンは息を潜め、ドアの隙間から中を覗いた。

部屋の隅に——小さな少女が縛られていた。エミリア・ブラウンだ。


(どうする……)


その時、表から騒がしい声が聞こえた。


「おい、お前! この辺をウロウロするな!」


ティムの声が答える。


「いやあ、本当にすみません。実は芸術仲間とと待ち合わせをしてまして、この辺りのはずなんですが——」


「知るか! さっさと消えろ!」


見張りたちの足音が遠ざかる——ティムが彼らを引きつけているのだ。


チャンスだ。


ジュリアンは静かに部屋に入った。男達は背を向けている。


ジュリアンは足音を殺して少女に近づき、口を塞ぐ布を外し、縄を解いた。少女は驚いて声を出しそうになったが、ジュリアンが人差し指を口に当てた。


「静かに。助けに来た」


少女は小さく頷いた。


ジュリアンは少女を抱き上げ、来た道を戻った——その時、男が振り向いた。


「おい、お前——!」


ジュリアンは走った。


-----


裏口から飛び出すと、ティムが待っていた。


「いいモチーフを見つけたようだね!」


三人は路地を走った。背後から怒声が響く。


「逃げたぞ!」


「追え!」


だが、男たちはティムを追い、ジュリアンはその隙に路地の奥深くに消えていた。曲がり角を何度も曲がり、追手の声が遠ざかる。


「ここまで来れば大丈夫だ」


ジュリアンは少女を降ろし、膝をついて目線を合わせた。


「もう大丈夫だ。君は安全だ」


少女は泣きながら頷いた。


ジュリアンは優しく少女の頭を撫でた。


-----


治安監督局の前で、ジュリアンは部下たちに少女を引き渡した。


「保護しろ。医師を呼べ。そして、両親に連絡を」


「はい! ですが、監督官——これは令状前の——」


「偶然だ」ジュリアンは冷静に言った。「私が巡回中、泣いている子供を見つけた。保護しただけだ」


部下は一瞬戸惑ったが、やがて頷いた。


「了解しました」


-----


一時間後、ティムが治安監督局の裏口に現れた。


服は少し汚れ、息が上がっている。


「無事か?」ジュリアンが尋ねた。


「ああ」ティムは笑った。「あいつら、俺を追いかけるのに夢中でね。途中で蒔いた」


「令状が下りた」ジュリアンは言った。「今から正式に逮捕に向かう」


「じゃあ、俺の仕事は終わりだ」


ティムは背を向けた。


「ティム」


ジュリアンは呼び止めた。


「助かった」


ティムは振り向かず、手を振っただけだった。


「どういたしまして」


彼は夜の闇に消えていった。


-----


その夜、治安監督局。


正式な報告書には、こう記されていた。


『巡回中、泣いている子供を発見し保護。身元確認の結果、誘拐事件の被害者と判明。令状取得後、容疑者を逮捕』


ティムの名前は、どこにも記されていなかった。


ジュリアンは執務室で報告書を見つめていた。


(偶然通りかかった市民が子供を連れ出し、私が保護した——帳尻は合っている)


ティムの偽造した通行証も、鍵開けも、すべて「なかったこと」になっている。


ジュリアンは窓の外を見た。月が静かに王都を照らしている。


-----


深夜、ジュリアンは自宅に戻った。


食卓の端に、朝見た包みがまだあった。


銀細工のブローチ——渡せなかった贈り物。


ジュリアンは包みを手に取った——その時、包みの間から小さな紙片が落ちた。


拾い上げると、ティムの字だった。


『渡せないなら、腐らないものを選んだのは正解だね。でも、腐らないからといって、永遠に待ってくれるわけじゃない。次は勇気を』


ジュリアンは思わず笑った。


(いつの間に……)


ティムが朝、紅茶を淹れていた時だろうか。それとも、もっと前か。


ジュリアンはメッセージを読み返した。


(勇気、か)


彼は深く息を吐いた。


ティムとの関係は、理解ではなく「黙認」で一段深まった。


そして、ジュリアンは——規則を知った上で、飲み込む一歩手前にいた。


規則正しく、無駄がなく——だが、少しだけ、柔軟に。


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