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ティム・ハートレイは善人ではない


王都の昼下がりは穏やかだった。市場には商人の声が響き、石畳の通りには市民が行き交い、酒場の看板が心地よい風に揺れている。


ジュリアン・ヴァレンタインは、その平和な光景の中で一人の男を探していた。


黒と銀の制服を着た治安監督官の姿は、人混みの中でも目立つ。彼の周囲を歩く市民たちは、敬意と僅かな緊張をもって道を開ける。ジュリアンはそれに慣れていた。だが、今日はそれが仇となっていた。


(どこだ……)


彼が探しているのはティム・ハートレイ——善人ではないが、最近の仕事のパートナー。下水道問題の解決以来、ジュリアンは彼に新しい案件の相談を持ちかけようとしていた。王都北部の商業ギルドで不正の噂があり、ティムの『フォース・オリジン』が必要だった。


だが、ティムは三日間、完璧にジュリアンを避けていた。


「ティム!」


ジュリアンは人混みの向こうに茶色の髪を見つけ、声をかけた。だが、その人影は路地を曲がり——消えた。


ジュリアンは急いで路地に入った。


誰もいない。


(おかしい……確かに今、ここに……)


「ジュリアンさん」


背後から声がかかった。振り向くと、果物売りの老婆が手を振っている。


「誰かお探しですか?」


「ああ、茶色い髪の若い男を……」


「ああ、さっきそっちに行きましたよ」老婆は反対方向を指差した。


ジュリアンは礼を言って走り出した。だが、その方向にも誰もいなかった。


(明らかに避けられている)


ジュリアンは立ち止まり、深く溜息をついた。


その時、遠くの屋台の陰から、ティムがニヤニヤしながらこちらを見ているのに気づいた。二人の目が合った瞬間——ティムは手を振り、別の路地に消えた。


「……」


ジュリアンは額に手を当てた。


-----


午後遅く、ジュリアンは路地裏で足を止めた。


そこでは、三人のチンピラが一人の少年に酒樽を運ばせていた。少年は十歳ほどで、体格は小さい。樽は彼にとって明らかに重すぎた。


「おい、もっと早く運べよ」


「す、すみません……」


少年は必死に樽を抱えているが、足がふらついている。チンピラたちは笑いながら、それを見物していた。


ジュリアンは介入しようと一歩踏み出した——その時、別の人影が路地に入ってきた。


ティムだった。


彼は何も言わず、チンピラたちに近づき、懐から銀貨を数枚取り出した。そして、無造作にリーダー格の男の足元に投げた。


銀貨が石畳で跳ねる音が響く。


「お前らの一日分の稼ぎだ。この子は用済みだろ?」


チンピラたちは驚いて振り向いた。リーダー格の男は文句を言いかけたが、銀貨を見て口を閉じた。計算をするように目を細め、やがて肩をすくめた。


「……まあ、金もらえるならいいか」


チンピラたちは銀貨を拾い、立ち去った。


ティムは樽を軽々と持ち上げ、少年に小声で言った。


「困ったら衛兵の詰所へ行って『ジュリアン』って名前を出せ。王都で一番、融通が利かない男だ」


少年はぽかんとした顔で頷き、去って行った。


「今のはどういう意味だ」


ジュリアンが路地に入ってきた。ティムは振り向き、いつもの軽い笑みを浮かべた。


「保険だよ。あの子が本当に困った時、君なら必ず助ける。そういう男だからな」


「それは……」


ジュリアンは言葉を探した。褒められているのか、からかわれているのか、判断がつかなかった。


「で、何の用だ?」ティムは樽を地面に置いた。「また仕事の話か?」


「ああ。北部の商業ギルドで——」


「却下。しばらく仕事をする気分じゃないんだ」


ティムは即座に遮った。


「そうだ、今夜は『市民の夜間実情調査』と行こう」


「そんな任務は存在しない」


「今できた」


ティムはジュリアンの腕を掴み、強引に引っ張った。


「待て、私はまだ仕事が——」


「仕事は逃げない。でも夜の王都は逃げる」


「意味が分からない」


「すぐ分かる」


ジュリアンは完全に流された。


-----


夜の王都は、昼とはまったく違う顔を見せていた。


通りには明かりが灯った家々から光が漏れ、酒場からは陽気な笑い声が聞こえてくる。路地裏では商人たちが夜市を開き、怪しげな骨董品や薬草を売っていた。


ティムはジュリアンを引っ張り、次々と場所を巡った。


最初に訪れたのは、賑やかな酒場だった。中には労働者や商人が集まり、ビールを片手に談笑している。ティムは自然に人混みに溶け込んだが、ジュリアンは完全に浮いていた。


黒と銀の制服が、場違いすぎた。


「治安監督官殿、お疲れ様です!」


酔った商人がジュリアンに声をかけてきた。ジュリアンは礼儀正しく会釈したが、内心では居心地の悪さに苦しんでいた。


次は小劇場だった。舞台では即興劇が上演されており、観客は爆笑していた。ティムは前列に座り、楽しそうに観劇している。ジュリアンは後ろに座り、何が面白いのか理解できなかった。


その次は路地裏の詩人だった。白髪の老人が即興で詩を朗読しており、周囲には若者たちが集まっていた。


「おお、治安監督官! あなたに捧げる詩を!」


老人が突然ジュリアンを指差した。


「黒き制服、銀の輝き! 法を守りし孤高の騎士! だが心には、誰も——」


「結構です」ジュリアンは丁重に断った。


ティムは横で笑いを堪えていた。


最後は占い師の屋台だった。水晶玉を持った怪しげな老婆が、ジュリアンの手を掴んだ。


「ああ……あなた、とても真面目ね」


老婆は水晶玉を覗き込み、眉を顰めた。


「今夜、あなたは何かを失うわ。それも、自分の意志で」


「何を失うんですか?」


「分からない。でも……」老婆はジュリアンの目を見た。「それは高い授業料になるでしょうね」


ジュリアンは首を傾げた。


「……ご忠告、ありがとうございます」


ティムは横で何か言いたげな顔をしていたが、黙っていた。


-----


次にティムが連れて行ったのは、路地裏の奥にある賭場だった。


入口には屈強な男が二人立っており、中からは歓声と罵声が混ざった声が聞こえてくる。ティムは軽く手を挙げて挨拶し、中に入った。ジュリアンも渋々後に続く。


薄暗い部屋の中には、いくつものテーブルが並んでいた。サイコロ、カード、ルーレット——様々な賭けが行われている。客たちは真剣な顔で金を賭け、勝者は歓声を上げ、敗者は悔しそうに席を立つ。


「私は賭博には参加しない」ジュリアンは即座に言った。


「そうか」ティムは肩をすくめた。「まあ、真面目な治安監督官には無理だよな」


「……どういう意味だ」


「いや、別に。ただ、夜の王都を理解するには、こういう場所も知っておくべきだと思っただけだ。でも、君には無理だろう」


ジュリアンは少しムッとした。


「何が無理だというんだ」


「賭けは度胸と観察力の勝負だ。君は真面目だから、そういうのは苦手だろう?」


ティムの言い方には、明らかに挑発が含まれていた。


ジュリアンは数秒考え、やがて溜息をついた。


「……一回だけだ」


「本当に?」


「ああ。だが、サイコロのような運任せは嫌だ。カードゲームにする」


ティムは意味深な笑みを浮かべた。


「了解」


-----


ジュリアンは空いているテーブルに座った。向かいには、人の良さそうな笑顔を浮かべた中年男性が座っていた。


「おや、新しいお客さんですね。ルールはご存知で?」


「基本は分かる」


ジュリアンは手札を受け取った。このゲームは王都で一般的なもので、手札の数字の合計で勝敗を決める。シンプルだが、駆け引きが重要だ。


最初の数回、ジュリアンは順調に勝った。


「なかなか強いですね」相手の男は感心したように言った。


だが、次第に流れが変わった。ジュリアンの手札は悪くなり、相手は次々と良い手を出してくる。


(おかしい……ここまで偏るのは不自然だ)


ジュリアンは相手を観察した。男の手つきは自然だ。

例えイカサマをしていても、シロウト同然のジュリアンに見破れるはずもなく。


(一体どうすればいいんだ)


「もう一勝負、いかがです?」


男は親切そうな笑顔で尋ねた。だが、その目には——ジュリアンがイカサマに気づいていないと確信した冷たい光があった。


(このままでは……)


ジュリアンが答えようとした瞬間、男がカードを配ろうとして——


その手首を、ティムが掴んだ。


「そこまでだ」


ティムの声は低く、冷たかった。男は驚いて顔を上げる。


「何だお前は!」


「友人のゲームを見てただけだよ」ティムは男の手首を握ったまま、微笑んだ。「いいカードの配り方だね。袖に二枚隠してるだろ?」


男の顔色が変わった。


「証拠は——」


「欲しい?」ティムは男の袖を軽く引いた。二枚のカードが床に落ちる。


周囲の客たちがざわめいた。男は青ざめた。


「さあ、選べ」ティムは静かに言った。「このまま続けるか、ここを仕切る連中に引き渡されるか」


男は数秒迷った後、立ち上がった。


「……すまなかった」


彼は慌てて賭場を出ていった。


ジュリアンはティムを見た。


「助かった。だが、私の負け分は——」


「諦めろ」ティムは冷たく言った。「これは授業料だ」


「授業料?」


「夜の王都には、こういう奴らがたくさんいる。君は真面目すぎて、簡単に騙される。今日の負けを忘れるな」


ジュリアンは悔しそうに唇を噛んだ。だが、ティムの言うことは正しかった。


「……分かった」


ティムは肩を叩いた。


「次行こう。本当に美味い酒が飲める店がある」


-----


夜も更け、二人は「金狐亭」という老舗の酒場に辿り着いた。


外観は控えめだが、中は温かい雰囲気に満ちていた。木製のカウンター、磨かれたグラス、壁に掛けられた古い絵画——すべてが丁寧に手入れされている。


カウンターには、一人のエルフ人女性が立っていた。


金の髪を一つに結び、エプロンを身につけている。年齢は二十代半ばほどに見え、整った顔立ちと鋭い耳が印象的だった。彼女は客にワインを注ぎながら、自然な笑顔で会話をしている。


「ティム、久しぶりね」


女性はティムを見て微笑んだ。


「テオドラ。相変わらず美人だな」


ティムは自然にカウンターに座った。ジュリアンもその隣に座る。


「この店、ワインの温度が完璧だ。管理してるのは君だろ」


「相変わらずね」テオドラは笑った。「いつもの?」


「ああ。それと、こっちの堅物にも何か」


テオドラはジュリアンに目を向けた。


「初めまして。テオドラ・フォックスです。この店を切り盛りしています」


「ジュリアン・ヴァレンタイン。治安監督官です」


「ああ、噂は聞いてるわ。王都で一番融通が利かない男」


ジュリアンは思わずティムを睨んだ。ティムは無実を装って視線を逸らした。


テオドラは二人にワインを注いだ。ティムは一口飲み、満足そうに頷いた。


「やっぱり最高だ。どこで仕入れてる?」


「企業秘密よ」テオドラは笑った。「でも、あなたならもう分かってるんでしょ?」


「南部の小さなワイナリーだろ。樽の香りが特徴的だ」


「正解。さすがね」


二人は自然に会話を続けた。ジュリアンは完全に置いていかれていた。


その時、酒場の隅から男が近づいてきた。商人風の服装で、手には羊皮紙を持っている。


「治安監督官殿、少しよろしいですか?」


ジュリアンは振り向いた。


「何でしょう?」


「簡単な確認書です。この地区の夜間巡回に関する同意書でして——店主の方々から署名をいただいているんです」


男は羊皮紙を広げた。内容は曖昧で、「責任者」「承認」「巡回協力」といった言葉が並んでいる。ジュリアンは真面目に読もうとしたが、文章が長く複雑だった。


「多くの店主の方々にご協力いただいています。治安監督官殿にも、ぜひ」


周囲の客たちが興味深そうに見ている。雰囲気が慌ただしくなった。ジュリアンは焦りを感じた。


(これは……内容に問題はなさそうだが……)


テオドラが横から覗き込んだ。


「ああ、その書類ね。うちの店にも来たわ」


「署名されたんですか?」


「しなかったわ。なんとなく、ね」


テオドラは意味深な笑みを浮かべた。


だが、男は急かすように言った。


「お時間がないようでしたら、後ほど詳しくご説明しますので、今ここで——」


ジュリアンは一瞬迷った。だが、テオドラの言葉が引っかかった。


(彼女が署名しなかった理由は……?)


ジュリアンは羊皮紙をもう一度見た。「責任者」という言葉。「承認」という曖昧な表現。そして——


「……いえ、やはり詳細を確認させてください。後日、正式に」


男の顔が僅かに曇った。


「そうですか……残念です」


男は羊皮紙を回収し、不満そうに立ち去った。


ジュリアンはテオドラを見た。


「なぜ署名しなかったんですか?」


「直感よ」テオドラはワイングラスを磨きながら答えた。「この街で長く商売してると、怪しい話は匂いで分かるの」


ティムが横から口を挟んだ。


「賢明だ。あの書類、署名すると『責任者』として何かのトラブルに巻き込まれる可能性があった」


「分かっていたのか?」ジュリアンが尋ねた。


「もちろん」ティムはニヤリと笑った。「でも、君が自分で気づくかどうか見てたんだ」


「……試したのか」


「授業の続きだよ」


ジュリアンは溜息をついた。だが——今回は、自分で気づけた。少しだけ、満足感があった。


「テオドラさんのおかげです」


「どういたしまして」テオドラは微笑んだ。そしてティムを一瞥すると一段声を落として「面倒な男を連れてるのね」と。


「ええ、だが嫌いじゃない」ジュリアンは苦笑するように言った。


ティムはまた別の女性を口説いていた。


ジュリアンはティムを見て、小さく溜息をついた。だが、その口元には——僅かに笑みがあった。


-----


その夜、王都では特に何も変わらなかった。


ただ一人、治安監督官だけが「夜は油断すると危険だ」という、どうでもいい教訓を得ただけだった。


そして翌朝、ジュリアンが目を覚ますと——机の上に、北部商業ギルドに関する詳細な調査報告書が置かれていた。


ティムの字だった。


「……やっぱり、嫌いじゃない」


ジュリアンは小さく笑い、報告書を手に取った。

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