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下水道清掃


王都が臭かった。


それは夏の終わりに訪れる、生温い風に乗ってやってくる腐敗臭だった。市場の魚売り場でも、食肉加工場でもない——街全体を覆う、下水と汚物の混ざった悪臭。貴族たちは香水で鼻を塞ぎ、平民たちは顔をしかめながら急ぎ足で通り過ぎる。


ティムは王都の中央広場に立ち、鼻を顰めた。三日前から降り続いた雨が上がり、今や太陽が容赦なく地面を照らしている。だが、その光は街の美しさを照らすのではなく、路地に溜まった汚水の水たまりを反射させるだけだった。


「酷いものだな」


背後から声がした。振り向くと、ジュリアンが黒と銀の制服を着て立っていた。いつもの冷静な表情だが、彼もまたハンカチで鼻を覆っている。


「雨が降るたびにこうなるのか?」ティムが尋ねた。


「ここ半年ほどだ。特に商業地区と下町が酷い」ジュリアンは溜まった汚水を指差した。「下水が機能していない。雨水と汚水が混ざり、溢れ出す」


「役所は何をしている?」


「契約上、問題はないそうだ」ジュリアンの声には皮肉が滲んでいた。「清掃契約は有効。業者も定期的に報告書を提出している。だから、問題は起きていない『ことになっている』」


「『なっている』のが一番怪しい」ティムは呟いた。


二人は下町へと向かった。石畳の路地は狭く、両脇には古びた木造の建物が並んでいる。住民たちは窓から不満げに二人を見下ろしていた。子供たちは汚水を避けるように壁際を歩き、老人たちは諦めたような顔で溜息をついている。


「ここが一番酷い場所だ」


ジュリアンが立ち止まったのは、路地の奥にある大きな下水口の前だった。鉄格子の蓋が半分開いており、中からは耐え難い悪臭が立ち上っている。


ティムは下水口を覗き込んだ。暗闇の中、汚泥が層をなして堆積しているのが見える。


「これは……完全に詰まっているな」


「ああ。雨が降れば溢れるのも当然だ」ジュリアンは溜息をついた。「だが、業者は『契約通りに清掃している』と主張している」


「嘘だな」


「証明できるか?」


ティムは考え込んだ。『フォース・オリジン』で契約書の偽造は見抜けるが、『清掃していない』という証拠は別の問題だ。下水道の設計と実態を理解する必要がある。


「専門家が必要だ」ティムは言った。「この下水道を設計した人間に話を聞きたい」


---


王都管理局の記録室は、羊皮紙と書類の山で埋め尽くされていた。


ティムとジュリアンは、下水清掃に関する契約書と、古い設計図を調べていた。ジュリアンが治安監督官の権限で記録を要求し、局の書記官が渋々提供したものだ。


「まず、王都は——『王都環境整備公社』と契約している」ジュリアンが最初の契約書を広げた。「年間予算は五千金貨。月一回の下水清掃と年四回の詳細点検」


「で、実際は?」ティムが尋ねた。


「『王都環境整備公社』——『ブライトウォーター社』に再委託している」ジュリアンは二枚目の契約書を取り出した。「委託料は三千金貨」


「二千金貨が消えたな」ティムが呟いた。


「さらに、『ブライトウォーター社』——『クリーンストリーム協同組合』に実作業を丸投げしている」ジュリアンは三枚目の契約書を広げた。「委託料は千五百金貨」


「現場に届くのは三割か」ティムは冷ややかに笑った。「芸術だね」


「芸術で済ませるな」ジュリアンは苦々しく言った。


ティムは契約書を凝視した。彼の瞳に淡い光が宿る——『フォース・オリジン』が発動した瞬間だ。


情報が脳裏に流れ込む。この契約書は三年前に作成された。インクは王都製紙局の標準品。署名は本物。印章も正規のもの。紙の劣化具合も年数と一致している。


だが、何かがおかしい。


「ジュリアン、元の契約書はあるか? 最初に王都が下水清掃を委託した時の」


「あるはずだ。待て」


ジュリアンは書記官に古い記録を要求した。十分後、埃をかぶった羊皮紙の束が運ばれてきた。


「これだ。二十年前の契約書」


ティムはそれを手に取った。再び『フォース・オリジン』を発動させる。


そして、彼は気づいた。


「仕様が違う」ティムは静かに言った。「元の契約では、『月一回、下水道全域の汚泥を除去し、流路を確保すること』と明記されている。だが、現在の契約では『月一回の定期清掃』としか書かれていない」


「言葉が曖昧になっている……」ジュリアンは眉を顰めた。


「意図的だ」ティムは断言した。「誰かが契約更新の際に、少しずつ文言を変えてきた。そうすれば、手抜きをしても『契約違反ではない』と主張できる」


ジュリアンは唇を噛んだ。「だが、元の契約書があれば、『契約の本来の趣旨』を証明できる。現在の契約は、その趣旨から逸脱している——つまり、契約違反ではなく『契約不履行』だ」


「違いは?」


「契約違反なら、業者は『契約通りにやった』と反論できる。だが契約不履行なら、『契約の目的を果たしていない』ことが問題になる。法的に、より強い追及ができる」


「なるほど」ティムは微笑んだ。「さすがだ」


「褒めるな」


ティムは古い設計図の束に目を向けた。黄ばんだ羊皮紙には、精密な線で下水道の構造が描かれている。設計者の名前が隅に記されていた。


「ラグナー・アイアンハンド……」


ティムは思わず声に出した。


「知っているのか?」ジュリアンが尋ねた。


「ああ」ティムは図面を見つめた。「ハートレイ領で、燭台を作ってもらった。音を記録する魔導具をな。頑固で、偏屈で、人間嫌いの——だが、腕は確かなドワーフだ」


「この下水道を設計したのが、その男か」


ティムは図面の精密さに目を奪われた。排水の流れ、勾配の計算、清掃の頻度——すべてが完璧に設計されている。これは単なる下水道ではない。一つの芸術作品だ。


「彼なら、現場の実態を見れば一発で分かる」ティムは言った。「そして、市議会で証言してもらえれば、説得力がある」


「だが、引退した技師が協力してくれるだろうか?」


ティムは燭台を作ってもらった時のことを思い出した。ラグナーは最初、頑なに拒否した。だが、領民を救うという目的を説明した時、彼の目が変わった。


「彼は職人だ」ティムは静かに言った。「自分の作品が腐っていくのを見過ごせない。特に、金に目が眩んだ連中のせいなら、なおさらだ」


ジュリアンは頷いた。「では、会いに行こう」


---


三日後、二人はアイアンピーク山脈の麓にある小さな工房を訪れた。


石造りの建物は古びているが、頑丈だった。煙突からは煙が立ち上り、中から金槌の音が聞こえてくる。ティムがドアをノックすると、中から低い声が響いた。


「誰だ?」


「ティム・ハートレイです。以前、燭台を作っていただいた」


しばらく沈黙があった。やがてドアが開き、灰色の髭を蓄えたドワーフが顔を出した。


「……お前か」ラグナーは訝しげにティムを見た。「燭台は役に立ったか?」


「ええ、おかげで不正を暴けました」


「で、今度は何だ?」ラグナーの目が鋭くなった。「また何か作れと?」


「いえ」ティムは首を横に振った。「今度は、あなたの知識を借りたい」


ティムは王都の下水道の状況を説明した。悪臭、浸水、そして契約の中間搾取。ラグナーの表情が徐々に険しくなっていく。


「……俺の設計した下水道が、そんなことに」


ラグナーの声は低く、だが怒りに満ちていた。


「月一回の清掃で十分機能するように設計した。それが守られていれば、こんなことにはならん」


「協力していただけますか?」ジュリアンが尋ねた。「あなたの証言があれば、市議会を動かせる」


ラグナーは二人を見た。その目には警戒と、そして——わずかな期待があった。


「条件がある」


「なんでしょう?」


「現場を見せろ。この目で確かめる。そして、もし本当に酷い状況なら——」


ラグナーは短剣の柄を叩いた。


「容赦しねぇ」


「暴力は駄目です」ジュリアンが即座に言った。


「分かってる」ラグナーは鼻を鳴らした。「言葉で殺す」


---


翌日、三人は王都の下町に立っていた。


ラグナーは下水口を覗き込んだ。数秒の沈黙の後、彼は低く呟いた。


「……十年分、掃除してねぇな」


彼は鉄格子を引き上げた。その瞬間、強烈な悪臭が立ち上り、ティムとジュリアンは思わず後ずさりした。


下水道の中は地獄だった。


本来なら水が流れているはずの溝は、汚泥と瓦礫で完全に塞がれている。木の枝、布切れ、腐った食物、そして得体の知れない黒いヘドロが層をなして堆積していた。


「これが……月一清掃?」ティムは信じられないという顔で呟いた。


「嘘じゃねぇぞ」ラグナーは冷ややかに言った。「業者は確かに来てる。ただし、表面をさっと撫でて報告書を書くだけだ。こんなもん、十年は放置されてる」


ジュリアンは顔を青ざめさせた。「なぜこんなことに……」


「金だろうよ」ラグナーは下水口を再び閉じた。「契約ってのは面白いもんだ。守ってるように見せかけて、実際には何もしない。そういう芸術もあるんだよ」


「紙は掃除してくれねぇ」ラグナーは吐き捨てるように言った。


ティムはラグナーの横顔を見た。彼の目には怒りがあった——だが、それ以上に、職人としての誇りを傷つけられた痛みがあった。


「手伝ってください」ティムは静かに言った。「あなたの作品を、元に戻しましょう」


ラグナーは数秒間、ティムを見つめた。やがて彼は短く頷いた。


「やってやる」


---


王都市議会が開かれた。


大理石の柱が並ぶ議場には、貴族、商人、そして市民代表が集まっていた。議長席には白髪の老貴族が座り、その周囲には書記官たちが控えている。


ジュリアンが壇上に立った。


「下水清掃契約に関する調査報告を行います」


彼は淡々と事実を述べた。契約の変遷、金の流れ、そして現場の実態。彼の声は冷静で、感情を排した報告だった。


議場はざわめいた。


「しかし!」王都環境整備公社の代表——肥満した中年男性が立ち上がった。「我々は契約通りに業務を遂行しています。報告書もすべて提出しています!」


「報告書は拝見しました」ジュリアンは冷ややかに答えた。「ですが、報告書と現実が一致していません」


「それは現場の問題だ! 我々は再委託先を適切に管理している!」


「では、説明していただきましょう」


ジュリアンは手を挙げた。議場の扉が開き、ラグナーが入ってきた。


彼は壇上に上がり、議場を見渡した。その目には軽蔑が満ちていた。


「ラグナー・アイアンハンド。元・王都下水道設計技師だ」


彼の声は低く、だが議場全体に響き渡った。


「俺はこの街の下水道を設計した。二十年前、王都の人口増加に対応するために、最新の排水システムを導入した。月一回の清掃で十分機能するように設計した」


ラグナーは一枚の図面を広げた。それは下水道の設計図だった。


「だが、今はどうだ? 下水道は詰まり、雨が降れば溢れる。何故だと思う?」


議場が静まり返った。


「清掃してねぇからだ」


ラグナーは懐から小さな瓶を取り出した。中には黒いヘドロが入っている。


「これが王都の下水道から取ってきたもんだ。十年分の汚泥だ」


彼は瓶を議長席の前に置いた。貴族たちが顔を顰める。


「この街の腹は腐ってる。原因は下水じゃねぇ」


ラグナーは議場を睨みつけた。


「金の流れだ」


議場が爆発した。貴族たちは抗議し、業者代表は弁明し、市民代表は怒りを露わにした。議長が何度もベルを鳴らしたが、混乱は収まらなかった。


その時、王都環境整備公社の代表が立ち上がり、声を荒げた。


「貴様、元技師風情が偉そうに! 契約は合法だ! 我々は何も間違っていない!」


ラグナーの目が険しくなった。彼の手が腰の短剣に伸びる——


「やめろ」


ティムが壇上に上がり、ラグナーの肩を掴んだ。


「殴る価値もないよ」ティムは静かに言った。「流れを変えれば、勝手に溺れる」


ラグナーは数秒間、ティムを見つめた。やがて彼は鼻を鳴らし、手を下ろした。


「……チッ」


ティムは議場に向き直った。


「皆さん、冷静に考えてください」彼の声は穏やかだが、明瞭だった。「問題は誰かを罰することではありません。システムを正すことです」


「だが、契約は……」


「契約は無効です」ジュリアンが断言した。「元の契約書と照らし合わせれば、現在の契約は『本来の目的』を果たしていない。これは契約不履行にあたります」


「そして」ティムが続けた。「新しい契約を作ればいい。中間搾取を排除し、現場に直接資金が流れるシステムを。そうすれば、誰もが得をする」


議場が再びざわめいた。だが今度は、怒りではなく議論だった。


---


二週間後、新しい契約が成立した。


王都は中間業者を排除し、実際に清掃を行う職人たちと直接契約を結んだ。予算の配分も見直され、現場には以前の三倍の資金が流れるようになった。


そして、雨が降った。


ティム、ジュリアン、ラグナーの三人は、あの下町の路地に立っていた。雨は激しく降り注ぎ、石畳を叩いている。


だが、汚水は溢れなかった。


下水口から水が勢いよく流れ込み、下水道が正常に機能している音が聞こえる。住民たちは窓から顔を出し、驚いたような、そして安堵したような表情を浮かべていた。


「流れたな」ラグナーが呟いた。


「合法的にな」ジュリアンが答えた。


「臭いも消えた」ティムが付け加えた。


雨が上がり、雲の切れ間から光が差し込んだ。石畳は濡れて輝き、空気は雨上がりの清々しさに満ちていた。


ラグナーはティムを見た。その目には、まだ警戒が残っているが——以前よりは柔らかかった。


「お前、信用ならねぇが役には立つ」


「最高の褒め言葉だ」ティムは笑った。


ジュリアンも、珍しく穏やかな笑みを浮かべた。


「次は何をする?」


「さあね」ティムは空を見上げた。


三人は顔を見合わせた。言葉はなかったが、そこには確かな連帯があった。


偽造者、治安監督官、そして元技師——異色の三人組が、こうして成立した。

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