通行許可証
王都近郊の街道は人と荷車で溢れかえっていた。春の大市まであと三日——東方から運ばれてきた香辛料、北部の毛織物、南部の果実、そして西部の陶器が、王都の富裕層と商人たちの手に渡る年に一度の商機だ。
だが今、その商機が失われようとしていた。
「もう三日も待ってるんだ!」
「通行証がなければ王都には入れません」
「だから申請してるだろうが!」
検問所の前で商人たちの怒声が響く。ティムは馬上からその光景を眺めていた。荷車の列は街道を一里以上も埋め尽くし、苛立った商人たちが衛兵に詰め寄っている。
(これは酷いな)
「問題でも?」
背後から声がかかった。振り向くと、黒と銀の制服に身を包んだジュリアンが馬を並べていた。
「通行証の発行が滞っているらしい」ティムは顎で検問所を示した。「大市まで三日しかないのに、この調子では商人の半分が間に合わない」
ジュリアンは眉を顰めた。「王国経済にとって大きな損失だ。確認してくる」
二人は馬を降り、検問所へと向かった。建物の中は更に混沌としていた。羊皮紙の山が机を覆い、疲弊した書記官たちが必死にペンを走らせている。インクの染み、床に散乱した書類、窓から差し込む埃っぽい光——すべてが機能不全を物語っていた。
「治安監督官のジュリアン・ヴァレンタインだ。責任者を呼べ」
ジュリアンの声に、書記官たちが一斉に顔を上げた。奥から白髪混じりの中年男性が現れる。目の下の隈が深く、服には三日分のシワが刻まれていた。
「フェリックス・ダンバーと申します。王都通行管理局の主任書記官でして……」フェリックスは疲れ切った様子で頭を下げた。「申し訳ございません。人手が足りず、書類処理が追いついておりません」
「原因は?」
「二週間前、担当官のグレゴリーが病に倒れまして。彼が発行権限を持つ唯一の官僚だったのです」フェリックスは机に積まれた申請書の山を指した。「代理の任命を上層部に要請していますが、承認が下りるまでには更に一週間……」
「大市が終わってしまう」ジュリアンは冷静に言った。「書記官だけでは発行できないのか?」
「王国法により、通行許可証の発行には『王印』の使用権限を持つ者の署名が必要です。私たちにはその権限がありません」
ティムは机の上の書類を手に取った。申請者の名前、出身地、商品の種類、滞在予定期間——すべて丁寧に記入されている。審査も終わり、承認印まで押されているのに、最後の署名がないために無効なのだ。
「制度の欠陥だな」ティムは呟いた。
フェリックスは苦々しく頷いた。「まったくです。しかし、規則は規則でして……この状況で商人たちに『待て』と言い続けるしかないのです」
外では更に怒声が高まっていた。商人たちの焦燥、衛兵たちの苛立ち、そして何より、無為に過ぎていく時間。
ティムはジュリアンを見た。ジュリアンもティムを見た。
二人は無言で外に出た。
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検問所から少し離れた木陰で、二人は向かい合った。
「何を考えている?」ジュリアンが尋ねた。
「簡単な話だ」ティムは肩をすくめた。「通行許可証を作ればいい」
「それは犯罪だ」
「そうだね」ティムは軽い口調で答えた。「でも、今のままでは数百人の商人が大市を逃し、王都の商人たちも商品不足で困る。税収も減る。誰も得をしない」
「だからといって偽造が許されるわけではない」
「偽造じゃない。『代理発行』だ」
ティムは懐から一枚の羊皮紙を取り出した——先ほど検問所で手に取った申請書だ。彼は書類の隅々まで目を通し、承認印の形状、インクの色、羊皮紙の質感を確認していた。
「本物と完全に一致する一時通行証を作る。期限は大市期間中のみ。記録も残す。書類上の矛盾も生じない。被害者もいない」
「お前の『フォース・オリジン』を使うつもりか」
「その通り」
ジュリアンは腕を組み、しばらく考え込んだ。彼の表情には葛藤があった。法を守る立場として、偽造を認めることはできない。だが、現実には数百人が困窮し、王国経済に損失が出ようとしている。
「条件がある」ジュリアンはやがて言った。「すべての発行記録を私に報告すること。そして、正規の担当官が復帰した時点で、この『代理発行』の事実を報告し、事後承認を得ること」
「つまり?」
「お前の偽造を、私の監督下で行う。それなら治安監督官として責任を持てる」
ティムは小さく笑った。「取引成立だ」
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その夜、ティムは検問所の一室を借りて作業を始めた。
机の上には本物の通行許可証の見本、申請書の束、そして彼が持参した道具——特殊なインク、羊皮紙、印章を作るための彫刻刀と蝋。
「まず、王印の複製から始める」
ティムは見本の許可証に押された王印を凝視した。その瞬間、彼の瞳に淡い光が宿る。『フォース・オリジン』——対象物の構造、材質、製造過程のすべてを理解し、完璧に再現する能力。
彼の脳裏に情報が流れ込む。この印章は王都の工房で作られた。材質は真鍮と銀の合金。刻印の深さは0.8ミリメートル。縁の装飾は職人の手彫り。インクは王立製紙局特製の顔料……
「見えた」
ティムは蝋の塊を手に取り、精密な彫刻を始めた。彼の手は迷いなく動く。一時間後、王印の完璧な複製が完成した。
次は羊皮紙だ。本物の許可証と同じ質感、同じ厚み、同じ透かし模様。ティムは持参した羊皮紙を特殊な溶液に浸し、乾燥させ、表面を磨いた。
そして筆記。書体、文字の大きさ、行間——すべてを本物と一致させる。ティムの手は機械的な正確さで動き続けた。
ジュリアンは椅子に座り、その様子を黙って見ていた。彼の表情は複雑だった。目の前で行われているのは明らかに犯罪行為だ。だが同時に、それは数百人を救う行為でもある。
「完成した」
ティムが最初の一時通行証を掲げた。それは本物と見分けがつかなかった。王印、署名、日付——すべてが完璧だ。
「すごいな……」フェリックスが息を呑んだ。彼も作業を見守っていた。「本物にしか見えない」
「本物だよ」ティムは軽く言った。「ただ、正規の手続きを経ていないだけだ」
「詭弁だ」ジュリアンが呟いた。
「でも有効だろう?」
ジュリアンは答えなかった。
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翌朝、検問所の前に告知が掲示された。
『一時通行許可証の緊急発行について』
「担当官不在のため滞っていた通行許可証の発行を、治安監督官ジュリアン・ヴァレンタインの監督の下、緊急措置として再開いたします。発行される許可証は大市期間中のみ有効です」
商人たちは歓声を上げた。
検問所の中では、ティムとフェリックス、そして数名の書記官たちが流れ作業で許可証を発行していた。フェリックスが申請書を確認し、ティムが許可証を作成し、ジュリアンが最終チェックを行う。
「アルバート・クレイン、織物商。南部からの仕入れ品。滞在予定十日間」
「確認」
ティムの手が動く。五分後、完璧な許可証が完成する。
「次。マリア・デュポン、香辛料商……」
作業は深夜まで続いた。ティムの手は疲れを見せず、機械のように正確に動き続けた。ジュリアンは一つ一つの許可証を記録し、後日の事後承認に備えた書類を作成していた。
「休憩しないのか?」ジュリアンが尋ねた。
「あと五十枚」ティムは答えた。「明日の朝までに終わらせたい」
「無理をするな」
「大丈夫だ」ティムは振り向き、微かに笑った。「これは俺の能力の正しい使い方だと思ってる。少なくとも、今は」
ジュリアンは何か言いかけて、口を閉じた。
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三日後、春の大市が開幕した。
王都の中央広場は色とりどりの天幕で埋め尽くされ、東方の香辛料の香り、焼き菓子の甘い匂い、革製品の独特な臭い——様々な匂いが混ざり合っていた。
「見てくれ、あれ」
広場の一角で、ティムは香辛料の屋台を指差した。店主は恰幅の良い中年男性で、客に陽気に声をかけている。
「アルバート・クレインか」ジュリアンが言った。「お前許可証を発行した商人の一人だな」
「ああ。無事に商売ができている」
二人は広場を歩いた。ティムが発行した許可証を持つ商人たちが、活気に満ちた商売を繰り広げている。果物を売る若い女性、陶器を並べる老人、毛織物を広げる家族——誰もが笑顔だった。
「結果的には、正しかったのかもしれないな」ジュリアンが呟いた。
「『かもしれない』ってことは、まだ完全には認めていないんだな」
「当然だ。お前がやったことは犯罪だ。ただ……」ジュリアンは言葉を探すように空を見上げた。「結果が、被害者を生まなかった。それだけは認めよう」
「進歩だ」ティムは笑った。
「調子に乗るな」
だが、ジュリアンの口元にも、微かな笑みがあった。
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一週間後、担当官のグレゴリーが復帰した。ジュリアンは彼に事の経緯を説明し、ティムが発行したすべての通行許可証のリストを提出した。
「治安監督官殿の監督の下での緊急措置……」グレゴリーは書類に目を通した。「記録も完璧だ。むしろ、私が発行したものより丁寧に整理されている」
「では?」
「事後承認します」グレゴリーは公式の印章を書類に押した。「この件については、緊急時の適切な対応として記録します」
ジュリアンは安堵の息をついた。
後日、二人は王都の外れにある小さな酒場で会っていた。
「結果オーライだったな」ティムはワインを一口すすった。
「たまたまだ」ジュリアンは答えた。「次も同じようにうまくいくとは限らない」
「でも、今回は信じてくれた」
ジュリアンは黙った。確かに、彼はティムの行動を止めなかった。いや、それどころか協力さえした。法を守る立場にありながら、偽造を黙認し、その結果に責任を持った。
「お前の能力は危険だ」ジュリアンはやがて言った。「使い方を間違えれば、王国の秩序を破壊することもできる。だが……」
「だが?」
「使い方が正しければ、人を救うこともできる。今回、それを見た」
ティムは静かに頷いた。
「だから、私はお前を監督し続けるとしよう」ジュリアンは口角をあげてティムを見た。
「脅しか?」
「約束だ」
二人の視線が交わった。そこには、まだ完全ではない——だが、確かに芽生え始めた信頼があった。
「分かった」ティムは小さく笑った。「監視してくれ。俺も、お前が腐った役人にならないように見張ってやる」
「生意気な」
ジュリアンも、ついに笑みを浮かべた。
窓の外では、春の陽光が王都を照らしていた。大市は大成功に終わり、商人たちは満足げに故郷へと帰っていく。そして誰も知らない——その成功の影に、一人の偽造者と一人の治安監督官の、小さな協力があったことを。




