鼻水はながれるままにしておいた
人が死ぬなんて当たり前のことだと思っていて、だから僕には涙を流す意味がよくわからなかった。高校に入ってから仲良くなった”あいつ”が亡くなったと聞いて僕は本当になんとも思わなかったんだ。だから葬式に行ってみんなの顔を見た時、正直大袈裟だなって思った。僕は1人で部屋の隅にいて、それからー。
彼女が体を乗り出して”あいつ”に挨拶を済ませると、僕の隣の席に戻ってきた。冷たい無機質のパイプ椅子だ。それは頼りなくて姿勢を変えるたびにギイギイと軋んだ。まるで椅子まで暗い顔のもでなければいけないというかのようじゃないか。そんな空気に間を刺そうと、僕はわざとらしくむりやりににやにやとした顔を作る。それを見て彼女は言う。
「何がおかしいの?」
僕は最初、それがただのあいづちだと思って、気にも留めないままスマートフォンの画面を見つめたままだった。だけど彼女は真剣だった。だから普段怒ったときのそれと同じように、彼女は食い下がらずにこちらを見つめたままでいた。しかし次に繰り返された彼女の声は聞き慣れたはずなのに、耳の奥に鋭く刺さった。
「ねえ、何がおかしいんですか?」
彼女は画面をタップする僕の指をそっと抑えて、嫌が応にも僕の目を彼女に向けさせた。普段お互いに意識して直に触らないようにしていただけに、肌と肌が触れたことに驚いて、まだ少しにやにやとした顔でそれを誤魔化しながらいた。そしておどけたままに彼女を見た。そのときの彼女の目、それは少し赤く充血していて、口の形もいつもより少しだけ引きつっていた。いつもはつい見つめてしまう鼻の横っちょにあるホクロも、今は少しも気にならなかった。ただ彼女の瞳、その中にある僕にはまだよくわからないあるいは僕には似合わないと思っていた感情にひどく怯えている自分が見えた。
「実際、誰が死んでも別に大したことなくね?ないっしょ?」
僕は自分の動揺を隠すようにまたしてもわざとらしくにやにやと言った。僕らはただの友達で放課後にいつもつるんでいただけの3人なのだから。英語の先生の声真似をしたり、メロンパンを3等分したりしただけの3人だったのだ。今だってただ、いつも放課後につるんでいたもう1人の友人、”あいつ”を待っているところだった。僕にとって”あいつ”はたいした人じゃないし、”あいつ”にとって僕もたいした人じゃないだろう。誰だってだいたいは”ただの他人”の延長だ。僕にしたって、みんなにとってはどうでもいいただの他人だろうに。
「...でも、何も面白くないよ...。」
彼女はそれから、スカートのポケットからほんのり薄青く見える薄い木綿のハンカチを取り出して僕に渡した。僕は彼女にしては随分と地味なハンカチだななどと、心の中でおどけながら目を落とした。
「...私はまた会いたいよ。」
いつになく真剣に言うのに根負けして、僕は仕方なくハンカチを受け取った。”あいつ”がいつも好きだと言っていた洗剤の匂いがした。結局聞けず終いになってしまったけれど、あいつはもしかしたら彼女のことも好きだったのかもしれない。
...
それからしばらくして”あいつ”がやけにごてごてした白い棺に入れられて、台車で運ばれてやって来た。それは花や金色の装飾と、ほんのりとした化粧も相まってひどく嘘っぽく見えた。僕には人を送ることについて、まだ何も分からなかった。きっと彼女にだって何も分からないんじゃないかと思う。ただ、彼女はそうすべきだと、そうしなければ何かを逃してしまうとそう思っただけなのだろう。僕は靴を見つめたまま人の波に従って動いた。ただ一言、骨は拾わないと断って、閉塞的な部屋の、なるたけ”あいつ”から遠い壁際に寄りかかった。僕は誰にも聞こえない声で床を見つめたままつと短く別れをいった。
「またね。」
...
帰り支度の間、不貞腐れたようにスマートフォンを取り出して、適当に3人で撮ったセルフィーを見返した。思いの外楽しそうな顔をしている自分に驚かされる。それどころか他の2人とも、僕が知っていたよりもはるかに柔らかな目をしていることに妙に驚かされた。最後の1枚を見終わると、いくら指を滑らせても、余白がそこにあるだけだった。柄にもなく感傷的な自分を誤魔化すように、僕は独り言を言う。
「おまえも死ぬなんて思ってなかったよな。」
そしてあたりの雑音が遠のくのを感じた。こめかみに熱を感じる。鳩尾から腹にかけて重たいものがのしかかる。そして意識が嫌に鮮明になっていく。窓の外に体を向け、今は誰も話しかけてくれるなと願う。そして、しばらく鼻水を流れるままにしておいた。今、この時に、頬を伝う1粒の涙の味がしょっぱいことを知る。僕はそれが体に染み渡っていくのを感じながら、空を見上げて涙が蒸発するのを待った。
2、3深呼吸をしてから、彼女が貸してくれたハンカチで全てを拭った。
「...やっぱり俺はこの匂い苦手だわ。」
そう言ってから振り返ると、遠くで大人と話していた彼女と目が合った。
彼女は静かに頷き、僕も自然と頷き返した。
もう一度目を合わせるのはどうにもむず痒くて、
僕は逃げるように人の波へ身をまかせた。
歩き出した瞬間、ふと、”あいつ”だったらこういう時どうするだろうと思った。
きっと、あいつは澄ました顔で歩くだろう。あいつはいつだって乾いたやつで、もし逆の立場なら、涙なんて見せなかったかもしれない。その想像が少し悔しくて、僕もわざと澄ました顔でエントランスを出た。冷たい灰色の秋空が出迎える。寒くないふりをして背筋を伸ばし、足を前へ運ぶ。そのとき、不意に”あいつ”は消えたわけじゃないのだと感じた。もう会えないのは事実なのに、僕はどこかでまだ、あいつと張り合っていて、多分これからもそうやって生きていくのだろう。足音はやけに軽く響いた。
何も知らない僕たちが”一生の別れ”を消化する時。




