若者たち
彼女のことがとても好きだ。僕にはなぜ、器量のいい彼女がこんな冴えない男子大学生に構ってくれるのか訳がわからない。僕はそれがわからなかったから、必死で自分の思う枠に当てはめようとしていた。だから彼女は去っていって、もう、僕の中にしかいない。僕には彼女のことが何もわからないのにね。
「そういうの……嫌にならない……の?」
いくら笑顔を取り繕っても、自分の嫌悪感が言葉に出てしまうのは僕がまだ若いからなのか、そのときだって僕は自分の独りよがりな欲求をーーできれば自分一人のものであって欲しいというーー隠せないでいた。言葉を言い切る前に、彼女はそれを敏感に察知した。ただでさえ切れ長の目が一層鋭くなるのに、僕はたじろいでしまう。それでもおずおずと口がまごつくその瞬間でさえ僕が彼女から目を逸らさなかったのは、色白の肌にキリッとした眉、朱色に塗られた目尻の艶やかさに見惚れていたからだと思う。
「……あきらくんに、何がわかるの?」
彼女の長い黒髪はいつだって綺麗に切り揃えられていて、前髪の長さはおろかまつげの長さでさえ寸分違わず、まるでそうして産まれたかのように完成されていた。笑うと小刻みに揺れる肩と、そこにかかる黒髪の一本一本はしなやかーー風に揺れる柳のようにーーで、それは少し意地悪な笑顔と対照的に気品や優しさに満ちていた。例え学生ばかりの安っぽい食堂であっても、彼女は微塵も曇ることなく、何者にも侵されず美しさが保たれていた。
最初にこの食堂で出会ったときからずっと。
「分からないけど、いや、別に否定するつもりじゃないんだけどね。」
「ふーん。そう。それって要するに、あきらくんに都合が悪いってことね?」
「違うって」
「いいよ。じゃあ、これでおしまいでいいんじゃない?」
彼女は常々どこか芝居じみていたけれども、怒ったのだろう、今日はいつもよりもずっとセリフのように言葉を返してくる。僕が垣間見たと信じた、瞳の奥の優しさはもう黒く塗りつぶされて、真っ黒な瞳になっていた。
「いや、だから……なんでそうなる?」
「そういう約束でしょ?めんどうならー」
「だから、なんでそうなるかな!」
それは僕だけなのだろうか。焦りが募るといつだって思っている気持ちとは裏腹に、苛立ちや理解してもらえない悲しさ、悲劇的な気持ちが言葉の節々に現れてしまう。僕は少しも彼女を傷つけたくなんかないし、気まずい思いにさえさせたくないと思っているというのに。
「なに?そういう話だったよね?私には好きな人がいて、あきらくんもそれを知ってる。それでもヤるだけならいいって、そう言ったでしょ。お互いそれで満足。でしょ?何が不満なの?」
彼女は不機嫌な時でさえ、どこか楽しむように、あるいは不機嫌を演じて僕の反応を楽しむかのように、言葉に抑揚をつけたり手遊びをしたり、不敵な笑みを浮かべたりした。きっと何もかも僕の気持ちなんて分かっていて、そして僕のあどけなけを嘲笑しながら、そこに手を差し伸べる、そういうプロットなのだ。僕が最初から分かっていたことは、僕なんかじゃ彼女とは釣り合わないということだけだった。それでも僕の中には何故か彼女のいたいけさを守ってあげなくてはいけないような、そんなお節介さと驕りが、彼女を諦めきれない理由としてあったのだと、今ならわかる。
「そんなのおかしいって……あんな年ばかり食った男にいいように遊ばれて、都合のいい女演じて……何がいいんだよ!こないだだって……」
僕にとってその言葉はとても恐ろしいものだった。飼い主に牙を剝くような、力の差からくる反撃の恐ろしさと、帰るところを失う恐ろしさとが、一緒くたになって目の前に迫っているからだ。唯一の救いは、そのときにはもう、いつだってビクビクしていた周りの目も喧噪も、まるで目に入らずただの灰色の壁と化していたことだろうか。
「だからさ。関係ないでしょ。私が誰と付き合おうと、相手が何歳だろうと。私が彼を好き。私は誰のものでもないの。私が決めてるの。それで終わり。ね、あきらくん。大人になろ?」
腑甲斐無さというのは、こと日本の男性性にとって最も屈辱的な感情だと思う。あるいは僕が言わずもがな頼られる男でありたいという願望の現れなのかもしれない。少なくともその時の僕の感情は、不誠実な男に対する怒りや、彼女の痛々しさよりも、僕が口を挟む余地も魅力もないことへの無力感だった。僕にどんな力があれば、彼女を振り向かせ、彼女の無邪気さが彼女自身を傷つけるのを止められたのだろうか。いや、それも僕の奢りなのだろうか。
「……。」
そして僕は何も言い返せないまま黙ってしまった。
「じゃあ、そういうことで。」
彼女は特に何があるわけでもないのに、肩掛けポーチを一度開いてジッパーを閉めると、肩にかけ直した。忘れ物も何もない。僕らはただ座って、この安っぽい学生向けの食堂で、コートも脱がずに言葉を交わしただけだ。彼女はそれから体をすこし前に倒して、うつむくぼくの顔を覗き込んだのだ。
「……。」
「楽しかったよ?ばいばい。」
それからの彼女は早かった。僕の脇を通り過ぎるモコモコとしたコートからは、最近使い始めたのであろう少し高そうな甘ったるい香水の香りがした。それはおよそ僕の思い出にない香りで、いつまでもいつまでも僕の鼻に残るものだった。鼻の奥にツーンと沁みたせいであろうか。僕の頰に涙が伝うのに気づいたその時に、僕は何か世界が音を立てて崩れて行くような気がして、振り返った。実際、彼女の姿を追い掛けることはまだできるはずだった。
「あ……。」
僕の目に入ったのは、視界に入る限りのギリギリのところで食堂の窓の外、見切れて行く彼女の黒髪の先だった。それがゆれた黒髪でしかないにも関わらず、彼女であることを疑う余地はどこにもなかった。僕が急いで立ち上がったそのときに、パイプ製の椅子の足が僕を捕まえた。そんなこと普段ならよろめく程度で済んだのに、その日の僕はうまく態勢を立ち直せないまま、尻もちをついてしまった。ガラガラと音を立てて転んだ僕とそれを見つめる目、目、目。そして乾いた笑い声の中で僕は、やはり世界の崩れる音が聞こえた。
「……痛い……。」
僕は立ち上がるのをやめて、いっそ背中を床につけて寝転がってみた。いつまでも立ち上がらない僕に、笑っていた声の中から、親切そうな女子学生が僕に近づいてくるのを感じる。それでも僕は動かず、恥ずかしさはもうそこになく、そして格好がつくように取り繕うことさえもどうでもいいと感じる自分を知った。笑い声の無意味さや、視線の奥にある好奇の移りやすさ、そんなことが黒ずんだ食堂の天井と同じくらいに大したことないように思えたのだった。
「大丈夫ですか?」
声を掛けてきた若い女性は柔軟剤の匂いがする、あどけない雰囲気にシンプルな化粧の長い黒髪の人だった。僕はその顔にハッとして息を飲む。その女性は背中に背負ったリュックサックを椅子に下ろすと僕に手を伸ばしー
……
「それで、続きは?」
僕の前には色白の肌にキリッとした眉と朱色に塗られた艶やかな目尻をもつ女性がいた。彼女の長い黒髪はもちろん、前髪の長さもまつげの長さでさえ、綺麗に切り揃えられていて、笑うと小刻みに揺れる肩にかかる黒髪の一本一本はいつまでも見飽きることがなかった。意地悪な笑顔で彼女はいつも語尾が上がる言葉を使う。
「最初からずっと同じ。今日、今ここで君と別れるまでいつも同じ。……あのとき君が去る瞬間に世界がもう閉じてしまったんだ。君は必ず出て行く。僕がこんな風にお爺さんになっていても。きみがもっとヨボヨボのおじいさんに恋をしていても。君は必ず出て行く。そして君が必ず手を差し伸べる。」
「ふーん。そうなんだ。面白い話ね。でも私そろそろいかないと。あきらくん待たせてるから。また、お話ししてよね。」
彼女は立ち上がるとき、毎回必ずうつむく僕の顔を覗く。
「今日も楽しかったよ?」
そして彼女が視界の端に見切れるその瞬間まで、僕は立ち上がることはもちろん、振り返る気力が少しも起きなくなる。彼女が行ってしまえばまた同じ時間が何万回も繰り返されるだけだ。このタイミングでは決まって、彼女が最近使い始めたという香水の甘い匂いに鼻がムズムズと刺激されて涙がでる。
「ああ……あああ……。」
僕が振り返り、彼女の髪が視界の端入り口の窓ガラスの向こうにサラサラと揺れながら消えると、世界はガラガラと音を立てて、気づけば僕は床に倒れ伏していた。
「大丈夫ですか?」
目を瞑る僕に手を差し伸べる彼女……ヨボヨボになった手でそれを掴んでしまえばまた同じことが繰り返す。それだというのに僕はまたそれを掴む。僕は何度繰り返しても諦めきれないのだ。
「ああ……夢ならどうか覚めないで。」




