21 女神イシュ・チェル(4)
龍血樹が薙ぎ払われ、年老いた老女の顔と、若い娘の顔を持つ邪神が現れた。若い娘の顔は、かつてのイシュ・チェルだった。しかし、その目は血走り、捲れ上がった口からは鋭い牙が覗いた。
「どこだっ、キニチ・アハウどこにいるっ」
彼女が、私の神名を叫んだ。その姿は巨大で、鋭い鉤爪のついた手が、実のなる木を草のように薙ぎ払う。そのたびに、木から無数の実が吹き飛び、黒い邪気の中へ飲み込まれていった。もう、私たちのいる場所から、数十メートルほどしか離れていない。しかし、彼女には、私のいる場所が分からないようで、苛立ちながら探し続けた。
黒い邪気がさらに溢れ出し、邪気の中で激しい雷光が発生し、雷鳴が轟き渡った。
「キニチ・アハウ、どこ、どこにいるの。私を迎えに来てくれたのでしょう?」
突如、蠢く靄の中から、かつての美しい女神の姿が現れ、私へ呼びかけたが、次の瞬間、それはもう、年老いた女、さらに黒い眼窩も露わな髑髏へと変わった。
「・・・・・・」
私、キニチ・アハウが、すべての神力を使い尽くしてまで、守ろうとした者の姿が目の前にあった。もう、それは女神とも呼べない、邪の塊だった。私に妄執し、私を破滅させようとする邪神、私がナクシット石へ封じたものの正体だった。
私の体を暖かいものが支えていた。
「顯、あれは、過去の出来事から現れた亡霊よ。あれに囚われては駄目よ」
ダーキニーの囁きが聞こえ、私は黙ったまま頷いた。もう、彼女の姿を見ても、私の神威が揺らぐことはない。私は、あの事件を思い出す時、悲しみを感じても、神威が揺らぐことは、もう決してないだろう。私とイシュ・チェルの今生の縁は、完全に断ち切られたのだ。それは、もう二度と戻ることはない。私には、彼女を救うことはできないのだと、はっきり悟ったからだ。
その時、どこか遠いところから真言が聞こえてきた。剛照和尚の唱える真言だった。イシュ・チェルの前に、三眼四面八臂の降三世明王が現れ、彼女を打ち据えた。イシュ・チェルの姿は、ふっと消え失せた。
「消えたわ」
ダーキニーが、ため息を吐くように言った。剛照和尚に真言を唱えてほしいとお願いしたことが、降三世明王の降臨を可能にした。衆生を救うべく、邪を降伏するためのの降臨だった。
私は、薙ぎ払われた木立の間から、邪神が消えた空を見上げた。そこには何もなく、ただ空漠とした灰色の空が広がるだけだった。その空の向こうから、邪神を避けていたククルカンが、こちらへ向かってくるのが見えた。
私は、イツァムナ神の原身であるイグアナを抱え、ダーキニーとチャックへ
「戻ろうか」と、声をかけた。
闇のバラム神の記録が突然発光し、眩しい光とともに、三人ともう一匹が現れた。
「ヒイィィィ、あなた、また、虚空蔵にそんなものを持ち込んでっ」
虚空蔵菩薩が、目を剥き悲鳴を上げた。
私は抱き抱えたイグアナを見下ろした。
(あれ?虚空蔵菩薩は、爬虫類全般が苦手なのか?)
「これ、イツァムナ神です」
「へっ、神なの?大きなトカゲじゃないの!」
虚空蔵菩薩と観音菩薩が同時に叫んだ。イツァムナは、それをジトっと睨んで、大欠伸をしながら尻尾を振った。
「色々お世話になり、ありがとうございました。これから、下界へ戻ります」
私は、虚空蔵菩薩と観音菩薩へ礼を言った。横でチャックも頭を下げた。ダーキニーは私に抱きついたままだったが、もう、引き離す気力がなかった。私は、時空通路のショートカットを使い、青華寺へ戻った。




