10 決死の神上げ(3)
ここは天龍界、天上の龍の国だ。今日も御老公さまは、屋敷の前の蓮池に釣竿を垂らしていた。今流行りの仏典を、いかにもそれらしく開いて傍に置いているが、目を通す気なんかまるでない。上古の若かりし頃から、御老公さまは、学問が嫌いだった。よくお仕えしていた神様からも「もうちょっと勉強しておかないと、実務で舐められるぞ」と注意されたものだった。けれど、どうせ自分は第三王子で、南海龍王を継ぐことなどないからと、気楽に遊んでいたのだ。ところが、大劫が起こり、常世の国は一夜で海中に没し消えてしまった。あれから、何もかもが激変し、とうとう自分が南海龍王を継ぐ事になってしまった。それから、長い年月、とうとう次代へ引き継ぎ、妻を神上げして、夫婦で天龍界に上がってきた。それからまた、長い年月が経ち、天龍界でも大長老となって、今は
「アァァァァッ、退屈だあ、何にもすることがない。大空を力一杯全速力で飛び回りたい」
腕を伸ばし、背中を逸らして、天龍界の空を見上げた。そして、ふと気がついた。
「何だか今日はやけに騒々しいな。どうして空を若い龍たちが飛び回っているのだ?」
「旦那様、旦那様っ」
空を見上げていた御老公へ、臈長けたご婦人が駆け寄った。
「どうしたのだ、ミユメ、そんなに慌てて」
いつもは、大長老の妻らしく落ち着き払って威厳のあるミユメが、若い娘のように取り乱し息を切らしてやって来た。しばらく息を落ち着け、それから一気に言った。
「大変でございます。天龍界の門前まで、何者かが神上げしてきて、その神上げされた者が、『ミユメお姉ちゃん』と呼びかけているそうでー」
御老公は、妻に最後まで言わせなかった。いきなり転身し、
「乗れ、ミユメ、すぐさま、門へ行くぞ」
「はいっ、旦那様」
天龍界へ通じる朱色の大門、その門が聳える手前、祥雲が厚く立ち込める空間に、はるか遠い下界から光の柱がとどき、その中に透き通るような羽の可憐な蝶々がヒラヒラと飛び回り、さかんに
「ミユネお姉ちゃん、ミユネお姉ちゃん」と、呼び続けていた。
若い龍たちは、扱いに困り果て、ただ周りを取り囲んで飛び回るばかりだった。
そもそも若い龍たちは神上げを知らないのだ。天龍界で神上げがあったのは、今は御老公と呼ばれる大長老、先々代の南海龍王が行ったのが最後なのだ。
若い龍の方へ、一際巨大な漆黒の龍が、猛スピードで接近してきた。
「あっ、御老公」
「どけどけ、急いでおる、どいてくれぇぇっ」
御老公は、天龍界育ちの上品な若龍たちを蹴散らし、光の柱へ突進した。
「ミユネお姉ちゃん、ミユネお姉ちゃん」
呼びかけながら、もうボロボロになってきた羽で飛び回る蝶々へ、ミユネが腕を伸ばし、手の平の中へ蝶々をそっと包み込んだ。
「ミヌメ、やっと来たのね。望みがかなったのね」
「うん、会えたよ。ここへ送ってくれたの」
その時、柱が消え、はるか遠いどこかから声が響いた。
「上古の縁は結ばれた。受け入れに感謝する」
「ワカ、ワカっ、どこです、どこにおられるのですか」
その後も、御老公は方々を飛び回り、光の柱の出所を探したが、結局みつからなかった。けれど、最後に聞こえた声、あれは間違いようもない、我が主、ワカミアヤの声だった。御老公は、ワカミアヤはお姿を現さないが、下界のどこかにいらっしゃるに違いない、いつか必ず見つけ出し、お助け致さねばと、固く固く決意したのだった。




