9 妹島の女神(1)
翌日早朝、婆ちゃんの操縦する船で、私たちは妹島へ上陸した。婆ちゃんは、半分腐って板がなくなった船着場に船を止め、私たちに注意した。
「ここから三時間ばかり山を登るから、足元に気をつけてな。毒蛇はおらんが、噛まれたら痛いムカデとかおるから、気をつけてな」
岸の向こうは、濛濛と白い霧が立ち込め、先が見通せなかった。
「なんか、薄気味悪いところだな」
勝手についてきた光一は、腕を抱え込みぶるぶる震えながら囁いた。一方、島本教授は、祠の実物が見られること以外、他のことは眼中に入らないようだった。
しばらく歩くと森の中へ入った。姉島と違い、随分霧が深い。雨も降っていないのに、木々の葉には、じっとりと水滴がついていた。湿度は高いのに、案外気温は低い。春先だからだろうか。明らかに、姉島の方とは植生も異なり、木性シダが繁る雲霧林には、太古の森の雰囲気が色濃く残っていた。
薄い靄が少しずつ晴れていくように、曖昧な記憶の一部が甦った。上古の時代、このあたりは高山が連なる雲霧林だった。雲霧林のそばには、人と精霊の一族が共同で住む村があった。あの頃の私は、世界中を飛び回っていたので、この辺りの地形も空から何度か見たことがあった。今は、氷河が溶け海面が上昇してしまい、海上に残された高山の頂あたりが点々と連なる島嶼となっている。
大昔のことをぼうっと思い出していると、婆ちゃんが
「着いたよ」と、言った。真っ白な霧で周囲がまったく見えない。婆ちゃんは、躊躇うことなく、しっかりした足取りで前を進んでいく。それに、私たち三人は遅れないように付いていった。
「何か、臭わないか」
光一が袖で鼻先を覆い、くぐもった声で言った。確かに、先ほどから卵が腐ったような硫化水素系の臭いが漂っている。有毒ガスが発生しているのなら、邪気の大本に近づいたということだ。
「ほれ、祠が見えて来た」と、先頭の婆ちゃんが指差す先、霧の向こうに崩れかけた屋根と柱が見えて来た。私は、有毒ガスを薄めようと、こっそり風を起こし、ついでに立ち込める霧も吹き払った。
婆ちゃんの指差す二十メートルほど先に、斜めに傾ぎ、屋根は落ちてしまい、苔むして今にも土に還ってしまいそうな祠があった。そして、祠の前の緩やかな斜面の下、五メートルほど先に、大きな沼が真っ黒な水面を覗かせていた。沼の先、五百メートルほど向こうには、台風で山体崩壊を起こした山が見えた。
突然、過去の景色が脳裏を過ぎった。緑濃い高山から白い瀑布が水量豊かに流れ落ち、そこにできた滝壺、それが、過去のこの沼の姿だった。
(この沼は滝壺の跡なのか?)
「ああっ、祠の中の御神体がないっ」と、祠の扉を開けるなり、婆ちゃんが叫んだ。




