2 お父さんがやって来ました。(1)
発掘現場に、神森 繁教授は二年ぶりに戻ってきた。教授は、反政府ゲリラによるバス襲撃事件で一人息子を失った。発掘現場を手伝う近隣の村人たちの中にも、その当時事件に巻き込まれて家族を失った者は多かった。ここへ戻ってくれば、辛いことばかり思い出されるのだが、長年の夢であったマヤ遺跡の発掘作業を再開するため、教授ははるばる日本から戻ってきたのだ。
作業に集中する日中は、気が紛れるのだが、夜になると手を引いてバス停まで連れていった息子のことが思い出された。本当は、息子とバスに乗り、空港から日本へ親子そろって帰国する予定だったのに、発掘現場のトラブルで呼び戻されてしまった。それで息子を、バスに乗る知り合いの婦人に託し、先に妻の待つ町まで連れていってもらうことにしたのだ。
「顯・・・」
もう何度息子の名を呼んだか分からないが、可愛らしい声で返事をしてくれたあの子はもういないのだ。
そんなある日、発掘現場の作業が休みの日、教授のところへカルロスが尋ねてきた。カルロスの妻は、二年前、顯と一緒にバスに乗り、ゲリラに射殺され亡くなったのだ。
「お久しぶりです、先生」
「カルロス・・・どうしていた?体は大丈夫か?」
発掘作業員をあの事件の後辞めてしまい、二年ぶりに姿を見せたカルロスは、恰幅の良い陽気な男であったのが、別人のように痩せて陰鬱な姿となっていた。近況報告やら、しばらく雑談した後、カルロスは、遠慮がちに用件を切り出した。
「妻の供養祭をしようと思ってまして、よかったら、坊ちゃんの供養祭も一緒にしたらどうかと思って来たんです」
「供養祭か・・・」
カルロスは薄っすら笑みを浮かべて頷くと、
「俺たちの流儀で供養祭をしようと思ってましてね」
と言い、教授の反応が悪そうではないと確認すると続けて言った。
「先生の坊ちゃん、亡骸が見つからないそうですね。冥府の王様に、返してくれるようお願いした方がいいと思うんです」
「冥府の王様?」
地元の発掘作業員は、日曜日になれば村の教会に礼拝へ行く信心深い人たちだった。カルロスも、亡くなった妻と、日曜日の礼拝を欠かすことはなかった。しかし、カルロスが“俺たちの流儀で供養する”と言うのなら、それは教会が行うものではないのだろう。一神教である教会の信徒となった今でも、彼らが古来からの神々への信仰を続けているという噂を聞いたことはあった。けれど実際に、その様子を見たことはなかった。神森教授は、発掘が専門だが、古来の神々は遺跡のモチーフにもよく現れるし、いまだに完全に解明されていないマヤ文字問題もあり、知見を広めたいと思った。息子が見つかると期待したわけではなかったが、カルロスの誘いに応じることにした。
カルロスは、薄汚れたカーキ色の大きなリュックサックを背負い、手には木蔦を編んで作った大きな釣鐘型の鳥籠を持っていた。
鳥籠の中の、凶悪そうな目つきの真っ黒な鶏と目があった神森教授は、思わず
「カルロス・・それは鶏かい?」と、尋ねた。
「はい、捧げ物ですよ」
「捧げ物なのか。分かった」
鶏は、不機嫌にケッ、ケッと鳴き声を上げた。
二人は、教授が滞在するコテージから暫く歩き、村を出て密林との境界へやって来た。そこに、もう一人、待ち合わせをする男がいた。服装は、この辺の村人と同じように質素なものだったが、背が高く、がっしりとした体つきで、猛禽のような目をした、妙に威厳のある男だった。その男を、カルロスが
「シャーマンのホセです。今日の儀式を取り仕切ってもらいます」と、教授へ紹介した。ホセは無言で頷いた。
先頭に立つカルロスが山刀を振るい、草木が生い茂る道なき道を切り開いて進み、その後を神森教授、ホセが続いた。二時間ほど歩き、セノーテの畔へ到着した。
(こんな所にも、泉があったのか・・・)
密林の奥深く、カルロスの案内なしでは辿り着けそうにもない場所だった。カルロスは、周囲の草を刈り取り、三メートル四方の空き地を作った。それから、リュックサックの中から、マヤ文字がびっしり連なる円陣が描かれた大きな敷物を取り出し、ホセの監督のもと祭壇を作り始めた。作業するうちに、カルロスの顔から何度も汗が滴り、その度に首にかけたタオルで拭きながら作業を続けた。ホセは、ただ、置き場所を指図し、指示するだけで、手を触れようともしなかった。神森教授は、大変そうなカルロスを手伝ってやりたかったが、勝手も分からないので、ただ見ていることしかできなかった。手持ち無沙汰で困惑する教授へ、ホセが突然話しかけた。
「祭壇は、供養主が作らなければならない。供養主以外は、儀式が終わるまで、決して触れてはならないのだ」
「なるほど、そうなのですか」
ホセは、教授を、じっと睨むように見てから言った。
「あなたも供養主だから、カルロスが用意した後、祭壇に一回触っておくとよい。息子さんと、あなたの心が、それで繋がる」
「分かりました」
ただの好奇心で参加したのを見透かされた気がして、神森教授は赤面した。そこへカルロスが来て、
「祭壇の用意ができました。もう一度点検してください。それから、先生も祭壇を触っておいてくださいよ」と、声をかけてくれた。
円陣の四隅には、手長猿、ワニ、梟、蛇の形の香炉が置かれ、真ん中に祭壇があった。祭壇は、一辺が一メートルほどの、小さな四段の階段となったピラミッドで、紅と白の粉で装飾され、蝋燭が各段ごとにびっしり立てられ、その頂点には、黒いジャガーが寝そべる形を模した深皿が置いてあった。ホセに指導されるまま、カルロスは、四隅の香炉へ香玉を入れ、火を入れた。神森教授もそれを手伝い、次にピラミッドの蝋燭へ火をつけた。周囲の香炉からモクモクと煙が上がり始め、息苦しくなってきた。
ホセは、祭壇の前に立ち、祝詞を唱え出した。地元に伝わる古語で、今使っている言葉とは随分違っていて、ところどころ意味の分からない箇所があった。
「かしこみ、かしこみ候、冥府の主、シバルバーの王、黒き闇バラムの使いよ、哀れな夫カルロス、哀れな父親カンモリの願いを聞き届け給え、これら二人の贈り物を納め、二人の言葉へ耳をかたむけ給え」
大意はこのような感じで、三回繰り返された。
煙が白く立ち込め、教授は目が染みて開けていることが辛くなってきた。カルロスは、鳥籠から鶏の首を掴んで取り出した。危険を感じた鶏は、絶叫を上げ、黒い羽を飛び散らせ、足を蹴立てて暴れた。その抵抗に怯むこともなく、カルロスは左手で鶏を掴んだまま、祭壇の前へ進み、鶏の首を山刀で掻き切り、ジャガーの深皿へ、血を撒き散らした。一斉に燃える蝋燭から熱流が渦をまき、ピラミッドは巨大な炎に呑み込まれ、深皿から立ち上る血煙がシンクの靄となった。
靄は、円陣を覆い尽くすほど広がり、その一部が突然裂け、生き物のように蠢き、地底の深淵から重低音が響いた。
「我を呼んだのは、そなたらか」