地下鉄で通う女4
無論指紋を残さぬ為だろうが、この場合スマートフォンを相手に返しさえすれば指紋がついていても問題はないと言える。シレッとした顔で、
「落としましたよ」
と返せばよいのだ。もっともそれでは相手に顔を晒すことになるし、警戒心も抱かせてしまうに違いないが。
アケチは相手に自分の存在を気づかせない方法を選択した。次の駅に着く直前、ブレーキと線路の継ぎ目のせいで再びガクンと列車が揺れた瞬間を捉え、スリ取った時と同様誰にも悟られずにスマートフォンを女性のバッグに戻したのだ。
それにしても大した手技である。ファスナーや蓋のついていないトートバッグとはいえ、周りに悟られずに手を差し入れ物をスリ取り、尚且つこっそりと元の場所に返してしまうのだ。伝説のスリ、仕立て屋銀次や親指サムを思い起こさせる鮮やかさだ。
電車が駅に着く。プシュッと圧縮空気が抜ける音がしてドアが開く。数名が降り、それ以上の客が乗り込んでくる。車内の密度は更に増した。アケチは女性の背後の位置をキープしたまま両手を差し上げ、吊り革を掴む。もう手を使って何かをスリ取る必要はないということだろう。
電車は再び動き出す。もうアケチは女性を観察する素振りを見せず、チラチラと車内の他の乗客の様子を眺めているようだった。
車内アナウンスが流れ、次の駅名が告げられる。女性の様子に変化があった。トートバッグを肩に掛けなおし、ドアの方へ身体を向ける。次の次の駅がいわゆるオフィス街の端に当たるのだが、どうやらその手前で降りるらしい。
電車が速度を落とし止まる。女性は客の隙間に体をねじ込むようにしながらドアに向かいホームに降りる。アケチもその後に続いた。
女性は軽く舌打ちをしながら服の乱れを直すと、カツカツとヒールを鳴らしてホームを歩き始める。スーツの仕立てが良いのか、それとも女性のプロポーションと歩き方のせいなのか、恐らくその両方なのだろうが、女性は気品と自信と艶っぽさに溢れた美しい歩きっぷりでホームを行く。歩みを進めるたびに尻の筋肉がネコ科の獣のように蠢く。
アケチはその後ろを少し距離を置いてついて行く。女性が地上に出るエスカレーターに乗る。間に数人挟んでアケチもエスカレーターに乗った。エレベーターを降り駅の改札まで来ると、女性は再びスマートフォンを取り出し改札にかざした。改札を出るとトートバッグにスマートフォンを仕舞う。アケチにスリ取られたことには全く気がつかないようだった。
アケチも改札をくぐる。女性はアケチの尾行には全く気づかないようだ。アケチはスマートフォンを覗きながらゆったりとした歩調で女性について行く。
地上に出た女性は歩道を歩く。すれ違う人々がチラチラと女性に視線を投げていく。歩道の隣は四車線の道路だ。朝から交通量が多い。片側二車線の道路は北へ向かう車線が混み、南行はやや空いている。北へ向うとオフィス街なのだ。北へ目を向けると朝日を浴びたガラス張りの繊細なデザインのビルが立ち並んでいるのが見える。
アケチは途中で缶コーヒーを買う。季節柄もう冷たいコーヒーがほとんどだが、アケチが選んだのは甘くて暖かい缶コーヒーだった。モッズコートのポケットに缶を突っ込んで歩き続ける。
相変わらず付かず離れずで女性をつけるアケチ。駅を出て十分ほど歩いたろうか。オフィス街でもなく住宅街でもない、やや古びた感じの街中を女性は颯爽と歩く。普段からスポーツなどで体を鍛えているのだろう。尻と腿、ふくらはぎの筋肉の動きはとてもリズミカルでしなやかだ。
歩道もない四メートル道路の路側帯を進む女性。三十メートルほど間を空けてアケチが続く。まだ学校の通学にも早い時間であり人影はまばらだ。
と、女性が角を曲がった。アケチは慌てるでもなく、変わらぬ歩調で同じ角を曲がる。目の前に広い都市公園が広がっていた。




