101号室の住人。5
まるでボールを投げるようにポイッと庭に放ったナキルさんの後ろ姿をそっと見上げると、すっと冷たい目で牛さんを見ている。こ、怖い。昨日の可愛い感じはどこに?
あまりの温度差に驚いていると、ナキルさんは静かに牛さんを見て、
「俺は一人で城に向かうと言ったが?」
底冷えするような声に、思わず私が身をすくめた。
怖い、端的に怖い。ブラック企業で上司に意味もなく怒鳴られた時を思い出して、思わず涙目になってしまう。
投げられたけどようやく状況を理解した牛さんがガバッと体を起こし、
「ああああ、あの、でも、ヴェロー様、間違ってキノコ送っだっで」
「キノコ?」
眉を潜めるナキルさんに、ハッとした。
キノコって、もしかしてさっきのあの黒いキノコの事か?!
「あの、ナキルさん宅配置場に黒い動くキノコがあって‥」
「そ、そでのこどだ!!」
牛さんがコクコクと頷き、私は「ちょっと待ってて下さい!」と言ってから、ガムテープを貼りまくったダンボールを持ち上げて持っていくと、牛さんがホッとしたように受け取ってくれた。
「間違ってこっちに届けられちゃう事もあるんですね‥」
「よくわかったな」
「さっきダンボールから飛び出してきたんで、急いで詰め込んだんです。すみません‥勝手に」
つい何かしても謝ってしまうブラック企業で働いていた故の悲しい習性‥。けれどナキルさんはふっと笑ってお礼を言うと、
「今度は楽しくできるといいな」
「‥‥楽しむ?」
「長くやるんだろ。楽しい方がいい。それにここは宿り木荘だ。タキが言っていた、宿り木とは時には休んだり、誰かに頼ったり、寄り添ったりする場所なんだと」
「おばあちゃんが‥」
昨日、一緒に天ぷら蕎麦を食べつつブラックな企業で働いていた話をしたのを覚えていたのだろう。
なんてことない気持ちで言ってくれたその言葉がストンと胸の中に落ちてきて、すっかりブラック企業で勤めていた三年で忘れていた暖かい気持ちが溶けたバターのようにじわりと広がった。
楽しむ‥。
そんな気持ち、ずっと忘れてたな。
久しぶりの感覚に驚いていると、ナキルさんが牛さんに視線を送る。
「おい、行くぞ。お前の姿はこの世界では目立つ」
「は、はい”!!」
「え?牛さんは住人じゃないんですか?」
「ああ、あれは俺の配下だ」
「配下‥」
あの怖い人が配下なの?
住人でなくて良かったという安堵と共に怖くないの?って心配したけど、ナキルさんそもそも魔王だったな。あと牛さん投げられたけど大丈夫なのかな‥私は動物病院を検索すべきか?って思ってたんだけど。
なんだか朝からキノコやら牛さんに頭が追いつかない。
おばあちゃん本当に圧倒的に説明が足りない‥。
と、ナキルさんは真っ黒なコートをひらめかせ、カツカツと音を立て、黒いドアの方へ歩いていくと、その後ろをダンボールを抱えつつズシンズシンと足音を立てる牛さんがついていく。
そうだ見送りしなきゃ!
ドアを開けたナキルさんに、
「行ってらっしゃい!」
大きな声で言うと、ドアノブに手をかけたナキルさんの動きが一瞬止まった。
そうしてゆっくりこちらを振り返ると、ちょっと照れ臭そうに、
「行ってくる‥」
小さな声で返してくれて、それだけで嬉しくなってにこーっと笑ってしまう。
と、ナキルさんはちょっと目を丸くしたかと思うと、ドア横に頭をぶつけ牛さんに「大丈夫でずか!??」と心配されつつ静かにドアが閉まった。
「やった‥まずは一つ仕事を成し遂げられた」
ホッと息を吐いて、汗を拭った。
大して仕事してないけど、今回ものすごくプレッシャーの大きい案件をやっと終えられた気分だ。と、お腹がぐうっと鳴った。朝食にするか、仕事を続けるかちょっと迷ったその時、不意にナキルさんの「今度は楽しめるといいな」という言葉を思い出した。
今までそんな余裕もなかったけれど、ここなら楽しめるかな?
ちょっと考えて握り締めていた箒を一旦片付けて、まずは朝食を食べる事にした。
うん、楽しみながらやればいい。
今度はそうしよう。
チラッと庭の真ん中にできた牛さんが落ちて窪んだ穴を見て、差し当たっては朝食を食べたら平らにしておこう。あとあの分厚いマニュアルも読んでおこう。そう決めて、ドアを閉めた。
今回は一気に更新しましたが、明日から1話更新です。
楽しんで読んで頂けると嬉しいです(^^)