第七章 ビルの最上階で踊ろう
突然の少女の出現に、破壊しつくされたレストランの最上階は時が止まったようだった。
事実、この異常事態の中ちゃんと動けるのはこの女の子と好男、それにあたしの三人だけだった。他の人達はいきなり天井が崩れ落ちたことでパニックを起こし、次いで聞こえた銃声に腰を抜かしている。
女の子の中の何かが物騒な言葉を吐いてから二分が経った。好男は相変わらず緊張した面持ちで時計を嵌めた手を女の子に向けて開いている。あれで威嚇しているつもりだったら呆れて口が塞がらない。いくら相手が小さな女の子だろうと、その手に持っているのは紛れも無く本物の銃だ。少なくとも何十階もある高層ビルの丈夫なガラスを軽々と撃ち抜くくらいの威力は持っている。
人間が撃たれたらどうなるか……あたしは途中まで想像してやめた。低級スプラッタ映画はスクリーンで見るから面白いのであって、実際に見るなんてナンセンスだ。
空から降ってきた女の子に銃口を向けられて恐怖のあまり思考が麻痺してきたあたしはそんな戯けたことを考えつつ、さっき聞こえた台詞を反芻する。なんかよくわからん名前を名乗っていたな。そういえば、どこぞの誰かさんも似たようによくわからん名前だったような……。
そこまで考え、あたしははっと気がついた。しっかり握り締めていたファイルを睨みつけると案の定、お寒い広告の陰に隠れてスィフィが縮こまっている。
「うぁあー……ウェジュが来たぁーよりによってウェジュ=サマンテがぁー」
「おい! 知り合いなんだな? またオマエのせいなんだな! 」
「うぅ知らないよぅーてか知らない振りしないとヤバイよぅこの場合ぃ……」
頭を振りつつスィフィは三角定規とコンパスのイラストの後ろへ逃げ始めた。こいつ、自分だけ助かるつもりなのか? 冗談じゃない、こんな悪いジョークのような奴に巻き込まれて死ぬのはお断りだ! どうせだったら今まで利用された分利用し返してやる!
非常事態で頭に血が上りすぎたせいか、気付くとあたしはスィフィが入った広告をファイルごとぶん投げていた。生まれてこの方聞いたことが無いほど無茶苦茶な悲鳴を上げながらファイルは女の子のほうへ落ちていく。あたしの奇想天外な行動に驚いたのか、女の子が一歩後ずさりした。
「アズァ、今だ! 」
体勢を崩した女の子を見て好男が合図する。と同時に好男の腕時計から黒い髪の毛のようなものが溢れ出た。黒い繊維状のそれはあっという間に少女を捕まえ、手に持つ銃を取り上げる。
「きゃぁっ」
少女が小さな悲鳴を上げた。小柄で華奢なその子は相変わらず何かに脅えていて、銃を取り上げて黒い髪で少女を縛り付ける好男のほうが悪人みたいだ。好男もアズァも、か弱い女の子を無理に捕縛するのは良心が咎めたらしく、彼女を締め付ける髪の毛が少し緩んだ。
「銃さえ取り上げれば、もう大丈夫だろ……? 」
小鹿のように震えるかわいそーな女の子を見て、好男は時計の中にいるアズァに確認を取る。空中に縛り上げられた少女の眼がうるうると涙に満たされていく。
「―――来るぞ! 下がれ! 」
アズァが背筋も凍るような声で叫んだと同時に、少女の眼から一粒の涙が落ちた。瞬間、停電した薄暗いフロアを眩しい光が包む。
「な、なんだっ? 」
痛む眼に手を翳しつつ、あたしは光の源を見た。あの少女だ。縛り付けられた黒い髪を彼女の背後から後光のように湧き出る光の筋が断ち切って、そのまま空中に浮かんでいる。倫理の時間に見た宗教画みたいだ――とあたしは思った。
その眩しく輝く姿は天使とかなまっちょろいもんじゃない。神。まさしくそう呼ぶに相応しい姿。
「おい、アズァ! 何だよあれは――」
「以前説明したものだ。それより早くその銃であの娘を撃て! 大惨事が起こってしまう」
「だ、だけど、相手は生身の女の子なんだぜ? 」
いつになく弱気な好男が尻込みして後退りした。そりゃそうだ、光の中心にいる少女は相変わらず苦悩の表情で涙を流していて、まともな神経してたら撃つなんてことできるわけがない。あたしが好男と同じ立場でも撃てないだろう。
目の前の圧倒的な存在に遂に腰が抜けたあたしの耳に、アズァが短く舌打ちする音が聞こえた。クールキャラのアズァでも舌打ちするのか――いや、それだけ状況が切羽詰ってるってことかな。
「……ならば、わたしが闘おう。好男、少し体を借りるぞ」
「え? え? 」
黒い腕時計から大量の黒髪が湧き出て好男の手を、そして身体を包んでいく。訳が判らないといった表情で、好男の顔が黒髪に覆いつくされた。人型をした髪の塊が、光の中ですすり泣く少女に銃口を向ける。
鋭い銃声に、あたしは耳を塞いで顔を伏せた。その耳に、さっきの偉そうで冷酷そうな声が聞こえる。
「他愛ない……やはり、こちらの武器は弱いな」
少女は無事みたいだった。少女の後ろの光が大きく揺らいで、傍にあったテーブルセットを翳めた。光が通った後には丁度その形に机と椅子が削り取られている。あんなのに当たったら、ひとたまりもない。そう思って震えるあたしの前で、涙を流す少女の両手が広がった。それに合わせて光の翼が開き、完全な円形の後光となって天井いっぱいまで広がる。巨大な光円の周りに小さな光が煌き始めた。
「アズァ=ルメイデン、貴様の命貰い受ける」
光の粒の先が一斉に黒髪に包まれた好男に向き、発射された。無数の光に対抗しようと好男を包んでいた黒髪が空間いっぱいに広がるけれど、それを突き破っても光の勢いは衰えない。
「好男――――っ! 」
あたしは思わず絶叫していた。蠢く黒髪は次々と形を変えてフロアの上を逃げ惑いなんとか光の追尾を引き離そうとしているが、どう見てもやられるのは時間の問題だ。しかも悪いことに、黒髪の装甲に守られる好男は失神しているらしい。隙間から一瞬だけ見えた白目を剥いて泡を吹いている情けない顔を見たあたしの心が奮い立つ。
このまま座ってるだけじゃ駄目だ。あたしもスィフィと協力して、あの子の中に居る何かを追い出してやる!
震える膝を無理矢理動かして、あたしは光を背負う少女の足元へ走り出した。ファイルまであと少し、手を伸ばすあたしの頬を光弾が霞める。
「うっ――」
「自ら敵の陣地に踏み込んでくるか。その勇気、気に入った。先におまえを始末する」
涙を流す少女の内側から聞こえる声がふざけたことをぬかして、少女の手が背中の光を一筋掴む。抜き取られた光は一本の太刀になってあたしの首筋に当てられた。耳元で、機械の調子が悪いときのような音がする。絶対泣くもんか、無意識にあたしはファイルを掴み取った。このイカレ殺人未遂野郎をぶちのめして、二度とこんなこと起こすまいと思うようにしてやるんだ。
ファイルを握って見えないそいつを睨むあたしの眼と、泣いている少女の眼が合った。少女の涙で光る目は何かを訴えかけているようだ。――絶対助けてやるから。あたしは少女に頷いた。少女が内側からの声に抵抗しているからなのか、太刀を持つ手はぶるぶる震えて止まっているけど、均衡が崩れるのもあと少しだろう。
ファイルを握る手が汗ばむ。吊り広告の中で、三角定規の後ろに隠れて怯えるスィフィの姿が見えた。頼れるのはこいつしか居ない。
「スィフィ、頼む! あたしに力を貸してくれ! 」
「で、でででも……」
「なんでもいいから! 早く! 『今』しかないんだ! 」
首筋に当てられる太刀の力が強まった。どんな契約でも受けてやる、とにかく強くなりたい。あの偉そうな声よりも、強く。迫り来る危機に観念したのか、スィフィは嫌々ながら頷いた。手の先から力が身体に流れ込んでくる。
新しい『色』の概念――混沌の中に渦巻くそれがあたしを導く。でも、これは……。
人知を超えた新たな概念に触れて困惑するあたしの脇を光の太刀が切り裂いた。余りに一瞬のことで声も出せずにその場に倒れるあたし。少女の身体を支配する声の主は光の太刀を構えなおし、泣いている少女の顔を左右に見回させている。
「……どこに消えた……? 」
きょろきょろとフロアに眼を走らせる暗殺者の前であたしは息を潜めた。わかった、スィフィの能力はステルス機能なんだ。けれどそこから先どうしたらいいかわからない。今動いたら物音で相手に気付かれてしまうし……。
「――! 」
悩むあたしの前で光の翼を針のような黒い剣が突き刺した。剣はすぐに光の中で蒸発し、少女の頬から血が一筋垂れるのが一瞬だけ見えた。旋風が巻き起こり少女の身体が光の翼と共に一回転する。ヴン、と何かが焼き切れる音が聞こえた。
「くっ……」
アズァの声だ。黒い装甲が破れ、すっかり気絶してしまっている好男の肩がぱっくり割れている。血は出ていない。髪で出来た黒い鎧が焼切れた黒い剣を捨てて新しく剣を造り出そうとしている。涙を流す少女の腕が上段の構えを取った。
「邪魔をするな! 」
太刀の動きで突風が吹き、真白なテーブルクロスが木の葉のように何枚も吹き飛ばされた。その上に乗っていた高そうなお皿達が床に当たって一度きりの楽曲を奏でる。演奏会が終わって静寂が訪れたフロアに、腹から二つになった好男と散らばった黒髪が転がっていた。
「好男! アズァ! 」
思わず叫んでしまったあたしの鼻先に太刀の切先が突きつけられる。
「そこにいたか。逃げたのかと失望したが、見直した」
「……」
思い切り睨みつけたあたしの眼は相手に見えているのだろうか。お互いに無言のまま対峙が続き、堪えきれなくなったあたしは一歩踏み出した。切先が喉仏に触れている。
「てめぇ、最低だな」
あたしは声の主に憎まれ口を叩いた。負け犬の遠吠えなのはわかってる、でも、どんな方法でもいいからこいつに一矢報いてやりたかった。持ち手の振動が伝わっている太刀はぷるぷると震えている。もう一歩踏み込もうと足を上げると、声が聞こえた。
「……自ら死に急ぐとは面白い奴だ。名乗れ、名を覚えておいてやる」
「丙盟 魅首だ」
自分の名前を吐き捨てると、あたしは少女の背後の光に人差し指を突き出した。
「そんなか弱い女の子を盾に闘って楽しいか? さっきから偉そーな口きいてるけど、そういうことはてめぇが自分の身体で闘ってから言えっての! 」
「――ふっ」
何が可笑しいのか、ムカつく声が泣いてる少女の中から響いた。いや別に少女は悪くないんだけど。
「勝てばいい。そのためには手段なぞ構わん」
百人の悪役が居たら九十五人が同じことを言いそうな台詞を吐いて、声の主が少女の腕を動かした。肩から袈裟切りに太刀が抜け、身体のバランスが崩れたあたしは床に倒れる。
こんなところであたしの人生は終わるのか……。光に包まれ何処か別の場所に転送されていく少女に手を伸ばしてごめん、とだけ呟くとあたしの意識は途切れた。