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第四五章 再誕

 誰かに呼ばれたような気がする――。


 そう思って、あたしは辺りを見回した。スィフィに触れられて気を失ってから、どれくらいの時間が流れたんだろう? なんだか、身体のあちこちが痛い。でも、筋肉痛とか、怪我とかとは違う痛みのような……。


 ぼんやりと考えて視線を泳がせていると、あたしは奇妙なことに気が付いた。……なんか、変だ。気絶する前まで見えていた景色と、今見えている景色は何かが違う。――でも、じゃあ具体的にどこが違うのかと訊かれても、すぐ答えられないんだけど。


白黒の世界を眺めながら、あたしは二、三回瞬きした。そうだ、何かがせわしなく動いてるんだ。黒とも灰色ともつかない巨大な剣みたいなものが、空間の中を暴れまわっている。そいつのせいで、亀裂がさらに増えてるみたいだ。あたし達がやってきた亀裂もすっかり大きくなって、橙色の図書館の屋根が――?


 あたしは目をこすった。いや、正確にはこすろうとした。もやっとした感覚が身体中に広がっただけで、手が全然顔に触れない。でも、図書館の屋根の色に比べたらそんなこと大したことじゃないと思った。


 さっきまで橙色だった図書館の屋根が、妙に鮮やかな緑色になっている。図書館だけじゃない、よく見るとアスファルトもねずみ色から薄桃色になってる。蟻みたいに小さく見える人達の肌の色はまるで赤葡萄あかぶどうみたいだし――。

 この景色、何かに似てる……。少しズキズキする頭でそんなこと考えていると、また誰かがあたしを呼んだ気がした。よく知ってる誰かの声のはずなんだけど、ハウリングを起こしたマイクの音みたいに色々な割れた音が混じって聞き取りづらい。それになんだか、外側からじゃなくって、内側から声が響いているような。……内側? それってもしかして、あたしの内側ってことか?


 変な気分になって視線を動かすと、灰色の地面に三人の人影が見えた。真白な影に、白いお下げの女の子と、制服を着た女の子。皆、やっぱり肌の色が葡萄みたいな色してる。


 じっと見ていると、段々焦点が合ってきて三人の顔までよく見えるようになった。あの白髪のお下げの子、もしかして――刈子?

 丸眼鏡を掛けた女の子をじっと見詰め、推定が確信に変わる。間違いない、刈子だ。ということは隣にいる白い影は背格好からして好男――?


 ちょっと待て、とあたしは頭を抱えた。って言っても、また妙な感覚が身体に走っただけで、手が動いた感覚なんてこれっぽっちも無かったんだけど。亀裂の向こうにいる人達が変な色になってるのは、空間を通る光がどうのこうのでなんとか説明つくかも知れない。でも、こっち側にいる好男や刈子まで、さっきと全然違う色になってるってのはどういうことだ? それに、二人はそんなこと気にもしてないみたいだ。というか、気付いてない――。


 目の前の出来事に混乱していると、好男達目掛けて黒い剣が何本か飛んで来た。好男が刈子を抱えてそれをかわし、剣は制服の女の子に向かっていく。


 危ない――――! そう叫んだつもりだった。でも、声が出ない。よく考えると、そもそも喉の感覚が無い。代わりにどこかで誰かが危ない、と叫んだみたいだ。女の子の身体に剣が当たって、弾き返される。ぐらりと女の子の足がバランスを崩し、丁度振り返ってこっちをみるかんじになった。ばっちり視線のぶつかったその子の顔を見て、あたしは絶句した。


 写真や鏡でしか見たことのない『あたし』が、あたしを見詰め返していた。


 もちろん例外なく、あの赤葡萄みないな肌色をしている。気持ち悪い色の『あたし』は気持ちよく眠ってたところを叩き起こされたみたいな不機嫌な顔をしていて、そして何故か泣いていた。なんだよ、これ。もしかしてあたし、まだ眠ってるのかな? 夢見てるのかな? できることならこれは夢ってことにして、何もかも無視したいんだけど。


 眩暈みたいに視界が揺らいだ。誰か、何がどうなってるか、あたしに教えてほしいんだけど……。そこまで思って、はたと気付く。


 そうだ、スィフィ。二人で一心同体になるとか言ってたけど、さっきから全く姿が見えない。あいつはどこにいるんだ?

 遥か上空から『あたし』と、その周りを見るけれど、スィフィのいる気配は無い。……あれ、ちょっと待って。あたし今浮いてるってこと? そのわりには虫眼鏡で見るみたいに、遠くを拡大して見たりできるし――ただ浮いてるのとも少し違うのかな。平衡感覚の無い、本当に夢の中みたいな目の前に広がる光景。それを呆然と見てると、なんだか写真のネガを見てるような気分になった。そうか、もしかしておかしいのは世界じゃなく、あたし自身なのかも。


 考えを改めてもう一度視界に映るものを見てみると、変色には一定の法則があるみたいに思われた。ということは、やっぱり、あたしのほうが何かのはずみでおかしくなったってことなんだな。うん。

 何かのはずみってのは勿論、てっとりばやく強くなろうとしたあれだ。――ってことは、あたしは今、強くなっているのか? そうだよな? そうでなくっちゃ困る。


 ぐるぐる思考をループさせていると、段々視界がまたおかしくなってきた。以前に能力を使ったときみたいに、いくつかの世界が重なって見えるような感じだ。写真を印刷した眼鏡を何枚も掛けたような感じ、と言ったほうがいいかも……。

 重なった視界の端に好男達が見える。この見え方、地面からの距離感、間違いなく『あたし』の、いや、あたしの視界だ。重なった視界が濃くなるにつれて、身体の感覚も元に戻ってきた。手も自由に動かせるようになったみたいだ。

 握ったり開いたりする右手を見詰めるあたしの耳に、大分普通の音に戻った好男の声が聞こえる。


「魅首ちゃん、大丈夫か? 」


 おいおい、そんな遠くから大丈夫かって訊くことは無いだろ。俯瞰視点から好男と刈子のいる位置を確かめて、一体何が起こったのかと尋ねる。ついでに気付いたけど、どうやら見下ろす視点だけじゃなく見上げる視点も重なって見えてるみたいだ。色んな視点が重なって、見えにくいにもほどがあるな。振り返りもせずに尋ねるあたしを、好男が不思議そうな顔をして見詰めた。


「……剣を弾き返したか……。どうやら本来の能力の使い方が解ったようだな」


 好男の代わりに、誰かがあたしに話しかけた。色んな音が混ざって聞き取りづらいけど、このむやみに偉そうな低い声には聞き覚えがある。あの巨大な剣が本当はどんな色なのか理解したあたしは、声のするほうへ振り返った。ありとあらゆる角度から、あたしの視線が灰色の塊へ向けられる。本来ならば目を開くのも耐え難い、まばゆい白光の中心へと。


 見覚えのある光景だった。涙を流す年端もいかない少女が円形の翼を背負い、光を従えて宙に浮かぶ姿。その中に巣食う偉そうな刺客のことを思い出して、あたしは少女の中に居るそいつを思い切り睨んだ。女の子の顔を使って、そいつが気味の悪い笑みを浮かべる。


「へいめい みしゅ、だったか? 貴様のような直情的な人間に、とてもスィフィの持つ能力を理解しきれるとは思えなかったが――激しい感情が成せる業なのか。異世界の人間がここまでの域に到達するとは。陛下がご覧になったら、さぞ驚きになられるだろうな」


 涙の流れる頬を歪めて、少女の中の何かが笑い声を上げた。それと同時に少女の手から伸びる剣が舞い、裂けた空間の壁をさらに切り刻んでいく。真上から振り下ろされた剣を思わず両手で受け止めるあたし。触っただけでものが消し飛ぶ光の剣なのに、何故か受け止めることができた。……いや、直接触ってるわけじゃないみたいだ。手のひらと光剣の間に、もやっとした何かが渦巻いている。見ようとしてもよく見えないそれは、空間の亀裂の縁によく似ていた。


 光剣を受け止めたあたしを見て、少女の下瞼がぴくりと痙攣する。不快そうに顔に皺を寄せて、そいつは白光の剣を引いた。忌むべき力だ、と、吐き捨てるようにそいつが呟く。


 確かにそうかも知れなかった。冷たい目でこっちを見下ろす少女を見詰め、あたしは左手で拳を握った。ありとあらゆる角度から、全てのものが見える。このちっぽけな身体だけじゃなくて、広大な空間の隅々にまで感覚が広がっている。そう、精神が空間に溶け出してるんだ。

 目は光に包まれた少女へ向いているのに、すこし離れたところに居る十四季が赤いドレスの女と対峙しているのがよく見える。背後にいる好男や刈子の表情も、別の角度の視点から見れば、何もかもか見える。……それに、あたしの身体を覆うこの何か。


 気が付くと、身体が震えていた。どこからともなく湧き上がってくる、根拠の無い万能感。もう少し、あと少しで、何もかも超えられそうな。この場を、世界を、自由にできるちから

 

「……」


 無言であたしを見下ろすそいつを、あたしも睨み返していた。あの時とは違う。勝てる。どす黒い感情が腹の底から湧いてくるのがわかった。だめだ、あたしはこいつに勝ちたいんじゃない。こいつに操られてる女の子を助けたいんだ。こいつを持てる力全てで打ち負かしたら、殺してしまったら、女の子も助からない。

 早鐘のように打つ胸を押さえて深呼吸するあたし。暴れ馬のような感情に手綱をかけようとするけれど、なかなかどうして上手くいかない。まるで自分が自分じゃないみたいだ。頭の中に色んな情報が入ってきて、とても状況を整理しきれない。


 頭を押さえて首を振るあたしを、光の中に浮かぶ少女が見下ろしている。細い両手が差し伸べられて、指先から伸びる光の剣が、あたしの周りに円状に突き刺さった。


「陛下が異世界こちらへいらっしゃるまでに、下準備を整えておきたかったのだが――。貴様の能力は陛下に毒だ。完全に使いこなせるようになる前に、消えてもらおう」


 陛下――? それって、スィフィ達が言ってた『あのお方』のことか――? 何重にもなって響くそいつの言葉に、記憶の網を手繰り寄せる。遠い記憶を探り当てる作業は、少女が剣を動かしたせいで中断された。狭まる檻のように迫ってくる光の柱を避け、なんかの塊につまづいてよろめくあたし。なんでこんなとこにコンクリートの塊が転がってるんだよ、危ないな。

 脛を押さえるあたしの横に黒髪の鎧が駆け寄って、ふらつくあたしを支えた。ありがとう、と言うあたしに、鎧の中の好男が頷く。


「あのさ――あたしが寝てる間に何が起こったのか説明してくれる? 」


 刺突してきた光剣を弾き変えすあたしの問いに、アズァの声が答える。コンクリートを操る敵のこと、刈子のこと、赤いドレスの女と十四季のこと、目の前の少女の中にいる何かのこと。その何かが、スィフィ達の故郷は滅んでしまったと言ったこと。


「ちょ、ちょっと待って……。あの女の子の中にいる奴は、確かその故郷むこうを守るために、あたし達を追ってたんだよな? その故郷が無くなったってのに、なんでこんなところで迷惑極まりないことしてるんだ? もしかして、思考回路が弾け飛んで自暴自棄になっちゃってるのか? 」


「……わたしもそう思っていた。だが、先程のウェジュの言葉――。どうやら故郷は、異世界からの侵蝕で滅んだわけではなさそうだ。あの言葉をそのまま受け取るなら、故郷は……」


 言葉を濁して、アズァが黙った。何か言うのを躊躇ってるみたいだ。もう、この際、隠し事なんかしないで全部話しちゃおうって! そうハイテンションな声で言って、あたしは鎧の肩をぽんぽんと叩いた。……今の、あたしはそんなこと全然思ってなかったんだけど。

 自分の行動にぎょっとしているあたしを見て、腕時計の中のアズァが困惑している。


「魅首殿――」


「え、えっと、さっきのは違うっていうか。あたしはそんなこと言うつもり全然なかったって……」


 両手を振って必死に否定するけれど、アズァは目を泳がすばかりだ。どうすればいいかと頭を掻いている好男の背後から、光の剣が迫る。


 危ない、と鎧を掴んでこっちにひっぱろうとした瞬間だった。勝手に身体が動いて、ありえない角度から蹴りを繰り出して光の剣を弾き飛ばした。バク宙して着地するあたしに、好男も刈子も点になった目を向けている。……間違いない、誰か勝手にあたしの身体を動かしてるな。誰かってのは勿論、スィフィ以外の誰でもないんだけど。

 あたしの気持ちなど露知らず、身体は軽快に跳ねて光剣の動きを目で追っている。揺れるスカートのポケットから、くしゃくしゃになった小さな白い本が皹だらけの地面に落ちた。


 それが合図だったかのように、少女の指先から伸びる剣と、その周囲を漂う光弾があたし目掛けて降り注ぐ。なるべく触らないように、と、多角度から逃げられる道を探している間に、また身体が勝手に光を弾き返していた。跳ね返された光弾を剣で吸収して、少女の中の奴が顔をしかめる。

 短い悲鳴が聞こえて、あたしは視点を切り替えた。


 蟹の少年が、ぐったりしてるスォンの肩を揺さぶっている。スォンの手には、さっきあたしが落とした小さな白い本が握られていた。泣きじゃくる少年にそれを渡すと、スォンはそのまま目を閉じてしまった。脇のあたりから、青い液体がじわりと広がっている。……もしかして、あたしが落とした本を取ろうとして、光の攻撃に当たってしまったんだろうか。まさか死んでなんかいない、よな――。だとしたら契約したあの少年も只じゃ済まないし。――でも、蟹の少年はどこにも怪我してない……。


 戸惑うあたしの視界の中で、少女の操る光とは違う灯りがちらついた。少女の中の奴が呻く声が聞こえる。そして、赤いドレスの女の、甲高い耳障りな声も。


「冗談じゃないわ……。アンタの好きになんかさせるもんですか……! 」


 息も絶え絶えにそう言いながら、女が少女に向けた手を下ろした。真赤なマニキュアを塗った指先に、小さな炎が灯って消える。少女の胸には、こぶし大の穴が開いていた。少女の周りを飛んでいた光が次々に消えていく。赤い血の代わりに白い光の粒子を散らしながら、少女はゆっくりと落下しはじめた。よく見ると、剣を出していた指先も同じように光の粒となって散り始めている。


「――っ」


 新たに光の台座を作り出してそこに膝をつく少女。それを見て、赤いドレスの女が引き攣った笑い声を上げた。胸に開いた刺し傷を押さえて、血の溢れる真赤な口で絶叫に近い声を上げる。


「どうせ死ぬんなら、皆道連れよ! わたしが居ない世界なんて、存在するだけ無駄じゃない! ……だけど、アンタが世界を壊すのは許せない。壊すのは、このわたし! わたしなのよ! 」


 無茶な声出して咳き込むと、女は楽しそうに嗤った。あいつも、ちょっと見ないうちに完全にイカれちゃったみたいだ。狂った笑い声を空間にぶちまける女の肩を、黒い包帯を巻いた手が掴んだ。

 こちらも息をするだけでやっとな十四季に、赤いドレスの女が血走った眼を向ける。冷たく見下ろす十四季の視線に気が付くと、女は醜く口端を歪めて挑発した。


「……アンタもこの先長くはなさそうねぇ。どう、ほら、わたしが憎くて仕方がないんでしょう? 殺してみなさいよ……ねぇ。愚かな復讐者さん? ふふふっ」


 傍で聞いてるあたしのはらわたが煮え繰り返るほどムカつく女の言葉に、十四季の両目がぎらりと光った。握り締めた左手の拳が、かたかたと震えているのがここからでもわかる。その手を胸の前まで持ってきて、そのまま女を殴るのかと思いきや、十四季は女の肩から手を離してしまった。力を失って地面に膝をついた女が、十四季を見上げて嘲笑う。


「殺せないの、腰抜けね。家族の仇を討つんじゃなかったの? 遺された息子がこんな腑抜けじゃ、お父さんお母さんも浮かばれないわよ」


 脂汗を流しながらも嫌味を言う女が、胸を押さえてうずくまる。足元で喘ぎながらのた打ち回る血塗れの女を、十四季はじっと見詰めている。灰色の唇が開いて、かすれた声が聞こえた。


「生きているものはいつか必ず死ぬ――。そう言ったのは、貴様自身だったな」


 静かな声で尋ねる十四季に、女が瞳孔の開ききった目を向けた。血で汚れた顔に嘲笑を浮かべ、女が十四季の言葉を肯定する。


「そうよ。……当たり前じゃない。わたしが殺してきた人たちだって、その死ぬときがちょっとはやくなっただけ。強いものが弱いものを駆逐する、それが自然の摂理でしょう? わたしは何も間違っていないわ。それを逆上するなんて、自然の心理を真っ向から否定するもの」


 違う、と、十四季が女の言葉を遮った。かすれた声が震えているのは、十四季が怒ってるからなのか、それとも泣いてるからなのか。

 どこが違うっていうのよ、と女は十四季に意地悪な顔を向けて開き直る。また持論を展開しようとする女に、十四季は両手を拳に握り締めてかすれた声を絞り出した。


「人はいつか死ぬ。それは真実だ。……でも、それと貴様が人を殺すのは、全く別の事柄だ。貴様は――おまえは、論点を摩り替えて自分の持論を正当化してるだけだ。人殺しだけじゃない、ありとあらゆる非道を、勝手に論点を摩り替えて、『自分は悪くない』と壁を作ってる。都合のいい、嘘で固めた壁だ。そうやって虚構の世界を自分の中につくって、本当の世界から目を背けていたんだ。――そうしなきゃ、誰も……おまえのことを肯定してくれないから」


 淡々と、でも血を吐き出すように一語一句を話す十四季。ドレスを着た女の顔は、さっきとは全然違う表情になっていた。十四季を嘲笑っていた口は血の気を失くして、貪欲に光っていた茶色の瞳は茫然と十四季を見上げている。やがて、血の流れる胸を押さえる手がわなわなと震えはじめた。違う、違う、と、うわ言のように同じ言葉を口の中で女が呟いている。嫌な音を立てて咽ると、女は十四季を睨みつけた。


「違うわ! 間違ってるのはアンタなのよ! 鼻水垂らしてるようなガキなんかに、説教される筋合いなんか無いわよ。それに、わたしは独りぼっちなんかじゃ――」


 女が咽こみ、言葉が途切れた。背を向けようとする十四季の足を、女の痩せた手が掴む。


「待ちなさい! わたしを殺しなさいよ! アンタもこっちに堕ちるのよ――! 」


 腹の底から搾り出した本音を聞いて、十四季が振り返った。期待と侮蔑の篭った女の視線に、十四季が囁くように答える。


「おまえを殺して家族が蘇るなら、何百回でも殺してやるよ。でも……、そんなことしても、父さんも母さんも、弟も帰ってこない。おまえはおまえの言葉通り、いつか死ぬそのときを、きちんと迎えてくれ」


 静かな宣告に、女の表情は絶望に染まった。急に目の光が無くなったかと思うと、呪ってやる……、とだけ呟いて、女は目を閉じた。力の無くなった女の手を足から振り払い、十四季がこちらへ歩いてくる。その姿はとても勝ち誇ってる感じには見えなくて、なんかそのまま消えてしまいそうだった。


 十四季……、と、あたしが声をかけようとしたと同時に、光の柱に膝をつく少女の中から、苦しそうな声が聞こえた。


「……確か貴様は……。少年、俺と契約しないか。こちら側へ来れば、再び父母とまみえることも不可能ではないぞ」


 そいつの言葉に、十四季が歩みを止めた。疑わしそうな目を光る少女へ向ける十四季に、そいつはさらに語り掛ける。


「今まで回収した魂は、契約者のものも含め全て陛下へお還したのだ。この計画が成功して、陛下が再び御力を取り戻されたら、亡くなった者を再生させてくださるかもしれない」


 そんなこと初めて聞いたんだけど――。光の粒子となって散っていく少女を見詰め、あたしは眉をひそめた。十四季がそんなことに耳を貸すとは思えないけど、いやでも、あいつ結構家族のこと気にしてるみたいだし……。

 そっと十四季の様子を窺うと、相変わらずすっかり生気の抜けた顔で首を横に振っていた。断られると思っていなかったのか、少女の中の奴は若干動揺している。そうこうしているうちにも少女の身体はどんどん光の粒子へ変化していく。ああ、なんとかしないと。でもどうやって?


「――だったら、ボクが契約します! 」


 組み立てた思考は、蟹の少年の一声によって掻き消された。あいつ今なんて言った? 慌てて振り返ると、少年はバンダナを外してそれを捧げ持つようにしていた。その傍らには、静かに横たわるスォンの姿。少女の光を発する瞳がそれを見詰め、暫しの沈黙の後に頷いた。――まずい、こいつは弱っててこのぐらいの強さなのに、あのぴんぴんしてる蟹の少年と再契約なんかしたら――。


 けれど、焦るあたしが止めに入る暇も無く、契約は完了してしまったみたいだった。少女の身体の回りを漂っていた光が消えていき、少女の指先と傷口から出ていた光の粒子が人の形をつくる。はじめて見るそいつの姿は、なんだかいかめしくて近寄りがたい雰囲気だった。ぼんやりとした輪郭のそいつが、光を従えて少年のほうへ進んでいく。見捨てられた少女は、支えを失くして落下しはじめた。慌てて落ちてきたところを抱きとめると、女の子はまだ生きていた。潤んだ黒い瞳があたしを見詰め、血の気を失った唇が微かに動く。ありがとう、とか細い声が耳に聞こえた。


「……ううん、こんなになるまで助けられなくて――ごめん」


 また何か言おうとする少女を好男に預け、あたしは蟹の少年の元へ走った。どうにかして、あいつらをなんとかしなくっちゃ。そう考えるあたしの目の前で、光で出来たそいつが止まっているのが見えた。――え、どうしたんだ。蟹の少年と契約したはずじゃ――?


 そう思って蟹の少年に眼を移す。バンダナを握った蟹の少年は、口を真一文字に結んで光の塊を睨んでいた。緊迫した空気が流れ、少年がぼろぼろのバンダナを繊維に沿って引き裂いた。光輝く男が呻き声を上げ、頭を押さえて後退する。


「な、何故だ――。途中で器を壊してしまっては、契約することが出来ないのに――」


 訳がわからないと戸惑っている男を無視して、蟹の、いや、普通の人に戻った少年があたしに向かってはっきりと叫んだ。


「お姉さん、今っす! 」


「お、おう――――! 」


 両目に涙を溜めた少年の声にあわせて、あたしは男に拳を打ち込んでいた。触れるだけで物質を消し去る光の粒子に、あたしを包むもやもやした何かが触れて、色とりどりの眩しい光が飛び散る。剣を出して斬りかかろうとする男の手を捻り挙げ、そのまま背負って投げ飛ばす。思ったよりずっと軽かった男の身体は、数メートル飛んで地面に叩きつけられた。

 突然のことに、あたしも男も何がなんだかわからないって顔をしている。息を切らして少年を見るあたし。男が倒されて安心したのか、少年はへなへなと地面に座り込んでいた。


「おい……なんで契約しなかったんだよ。おまえ、あたし達の敵なんだろ……? 」


 遠巻きに尋ねるあたしに、少年は泣きながら首を振る。


「ボクはただ、姉ちゃんを助けたかっただけっす……。そのためには力が、強さが必要だって思ってたっす。でも、でも――」


 感極まったのか、少年は号泣し出した。そして何言ってるか聞き取れなくなってしまった。あれだけ大胆なことしておいて、そんな普通の男の子みたいに泣き出されても――。……って、こいつも元々は普通の子どもだったんだよな。


 白い本を片手に泣きじゃくる少年の声がこだまする空間で、いつの間にか投げ飛ばされた男は立ち上がっていた。光る肩を上下させ、はぁはぁと苦しそうに口で息をしている。汗のかわりに、光の雫が滴り落ちた。


「どうして――何故、受け入れようとしないんだ。テンキィもアズァも、ここに居る異世界の人々も――。全ては廻る命の渦、その小さな一粒である我々が生を終えたとしても、また渦の中へ還っていくだけなのに」


 苦悶の表情を浮かべながら、男が電波な言葉をのたまっている。終いには、自分の上に広がる真っ暗な亀裂に向けて、祈りのことばみたいなものを呟いちゃってるし。やっぱりこいつ、レストランで闘ったときと何か違う。

 性格が微妙に変わった男を怪しんでいると、どこかから男の詞に答えるように声が聞こえてきた。細い透き通った声なのに、空間全体が震えてる。驚くあたし達の目の前で、真っ暗な空間から白い手が男に差し伸べられた。


「サマンテ、そなたは与えられた務めをよく果たした。そなたの努力は、全てわらわのまなこが見届けた……。さぁ、わらわの腕の中へ還ってくるがよい」


 声に導かれるように、男はふらふらと差し伸べられた手のほうへ歩き出した。傷ついた胸から流れ出る光の粒子が尾を引いて、空間に男が歩いた軌跡をつくる。それがふつふつと消えていく様は、まるで小さな銀河の動きを見ているみたいだった。


「あ、あれはいったい何ですか……? 」


故郷むこうを統べる女王、『あのお方』――。あの姿……自分の民と世界を食い尽くしてしまったのか」


 怯えて好男の陰に隠れる刈子に、アズァが答える。黒い鎧が見詰めるその先には、白い二本の手が映っていた。身体は、暗闇に紛れてよく見えない。


 白魚のようなたおやかな手に男が近付き、自らの手を伸ばした。伸ばされた手が触れたのは、巨大な人差し指のほんの一面だった。どうやらこの空間、ついに遠近感覚までおかしくなったらしい。目をこすってよく見ようとする間に、白い手は男をそっと持ち上げた。暗闇の空間に、それの身体が白く浮かび上がる。

 絶望するほど、それは巨大だった。今までの苦戦がなんだったのかさえわからなくなるほどに。ちっぽけな光る男を手に乗せて、それはもう片方の手を使って、空間をこじ開けた。生物の悲鳴のような音と、砂嵐のような音が一層強く鳴り響く。目覚めたとき感じた万能感なんて、もうすっかり吹き飛ばされてしまった。


 とても人間の視界に入りきらない大きさの物体が、空間を越えて存在している。ただ茫然とそれを見るしかできないあたし達を、別角度から見た真白なそれが見下ろしていた。ぽかんと口を開けているあたしの上に、白い破片が降り注ぐ。

 髪についたそれを手で掃っていると、くすくすと笑い声が聞こえてきた。


「おおサマンテ、そなたの働き、見事なものであった。見よ、そこかしこに広がる忌々しき異なる世界を……。これがわらわを苦しめ、わらわの子らを変えてしまった……。しかしそれも、今日で終わりとなろう。すべてが、わらわのかてとなり、わらわが総てとなるのだ……」


 それこそが終わりなき命の輪よ、と、それは誰に語るともなしに言った。何わけのわかんないこと言ってるんだ、こいつ。どうすればこいつが亀裂の向こうに帰ってくれるかを考えていると、それはおもむろに白い手を近くの亀裂に突っ込んだ。幾つもの悲鳴が上がり、そして巨大な口の中に運ばれ消えていく。


「てめぇっ……! 止めろよ! 」


 考えるよりも先に声が出てしまった。それの足元まで駆け寄って、力任せに白い足を殴る。ぱらぱらと小さな破片が散ったけれど、大した損傷を与えられないのは殴るまでもなく明らかだった。

 それでも女王さまの機嫌を損ねることには成功したみたいだ。それは空間の亀裂から手を抜いて、足元のあたしを巨大な目で見詰めた。硝子みたいな無感情な目からでる視線が、まっすぐあたしに注がれている。


「愚かな子――可哀想に。永遠を知らないから、刹那でしか物事を測れない……。わらわと共に来れば、何も恐れるものなど無いのに」


 ふざけんな、そう言い返そうと口を開いた瞬間、光の矢が頭上から降り注いだ。また弾き返せる、そう思って翳した手に矢が刺さる。な、なんで――。

 驚愕するあたしを、アズァの黒髪が包んで引っ張った。雨のように降る光の矢が、透明な地面に突き刺さった。その地面が意志を持つように隆起して、波打っている。


 悲鳴を上げる刈子を比較的遠い場所に置いて、好男がこっちに走ってきた。輪郭の溶け出てる鎧が剣を構える。


 比率でいったら蟻よりも小さいあたし達を見下ろして、女王は秀麗な眉間に薄らと皺を寄せた。


「……感情か――。わらわの子らを変容させ、自立の心を生み出した忌まわしき異世界の侵略者よ。ゆりかごの中に眠っていた幼き子らを泣き出させ、わらわを苦しめた……この屈辱、忘れはせぬ」


 細い声で空間を震わせると、女王は右手を動かした。それぞれの指先から、水の奔流、灼熱の炎、眩しい光に鋭い鉱物、生まれては枯れていく植物があたしと好男に襲い掛かる。それらはすぐ消えてしまったけれど、あたし達をこれ以上近づけさせないためには抜群の効果があった。


「くそっ、手も足も出ないじゃんかよ――」


「なぁアズァ、あいつについて何でもいいから知ってること教えてくれるか」


 他の世界を食べるにつれて足元から新たな生命を創り出していく女王の様子に、好男が険しい顔をしている。悔しいけど、あんなの倒せるわけがない。訊くだけ無駄だと唇を噛み締めるあたしの耳に、アズァの凛とした声が聞こえる。


「たとえ総てを支配する力があったとしても、死にだけはあらがえない。あのお方は既に自分の寿命を使い切ったはずだ。一見何の綻びも無い身体をしていても、どこかにその証があるはず……」


 綻び? そういえばさっき、でっかい足を殴ったときに白い粉みたいなのが出た。あれって、女王がこの空間に来たとき、降り注いできたものと同じ――?

 何十にも重なった視界の中から、女王の身体が見えるものを選りすぐる。そうか、これだ。重なった視界の一つに、女王の左手から白い粉が剥がれ落ちる様子が映っていた。透き通るような白い肌が、そこだけひび割れて、中心に黒い穴が開いている。


「綻びって、あの左手にあるヒビのことか? 」


「え、どこ……」


 遥か上空を指すあたしに、好男が首を伸ばして指した場所をみようと躍起になっている。腕時計を覗き込むと、目のあったアズァが神妙な顔で頷いた。


「じゃ、あのヒビをぶん殴ればいいわけだな! っしゃ、任せとけ」


「ただ、いかにあのお方に気付かれないようにするか……。それが問題だな」


 拳を握って腕をさするあたしに、アズァが憂いげに呟いた。緊迫した面持ちのアズァに、好男が軽い調子で笑い掛ける。


「そんなの、オレとアズァでなんとか止めればいいって。魅首ちゃんが攻撃する一瞬ぐらい、髪で拘束することはできるよな」


 同意を求めて腕時計を覗き込む好男に、そう簡単に事が運ぶと思えないが……、とアズァが渋っている。迷ってる間にも、女王は空間の亀裂の中から手当たり次第に何かを掴んで吸収している。たまたま伸ばされた手が、図書館の屋根を剥いだ。


「――アズァ、頼む……! 」


 好男の言葉に、遂にアズァが頷いた。わたくしもお力添えさせていただきます、と、刈子がいつのまにかすぐ横に来ている。緊張した汗で滑った眼鏡を指で押し上げる刈子の後方、十四季が無言で音楽を奏で始めた。雄大なオーケストラの曲に、どこからともなく人々の歌声が混じって聞こえる。この声、どこから――?


 耳を疑うあたしの目に、女王の足元で蠢く生まれたての世界が見えた。どこかで見たような顔の人達が、女王の重みに押しつぶされて一つの塊のようになっている。次々と生まれては消えていく人々の叫びが、まるで壮大な混声合唱のようだ。

 痛いのか哀しいのかわからないけれど涙を流している群集を見て、あたしの心は俄然奮い立った。何が生命の輪だ、何が永遠の観点だ。この身勝手な女王は、自分の命が惜しくて他人を踏み台にしてるだけじゃないか。


 握り締めた右の拳に、自分の爪が食い込んでいる。絶対に止めてみせる、そして約束を果たすんだ。――スィフィとの約束を。


 十四季の奏でる音楽のおかげで、身体中を色んなものが巡っている。悠然と『食事』を続ける女王の左手がゆっくりと下ろされた瞬間を狙って、あたしはその手にしがみついた。女王の硝子のような目が丸くなり、もう一方の手から雷の鳴る雲が湧き出てあたしに近付く。振り落とされないように必死にしがみ付きながら、あたしは拳を振り上げた。止めるんだ、この傍若無人な何かを。そう、このイカれた世界の物語を。

 暴風で浮き上がる身体を、黒髪が引き止める。雲に囲まれて機能しなくなった視界の代わりに、刈子が見た未来の映像が目に映る。泣き叫ぶような合唱が大きく転調したそのとき、あたしは拳を振り下ろした。







「――しゅ、魅首」


 名前を呼ばれて、目を覚ました。ぼやけた視界にピンクと緑の何かが映る。……この色彩、間違えようが無いな。


「んだよ、スィフィ――」


 目をこすって起き上がると、あたしがいたのは世界と世界の狭間じゃなかった。かといって、アスファルトとコンクリートのビル街でもない。雑草生え放題の田舎道でもなかった。ただ雪のように真白な、世界。


 驚いて左右を見回すあたしの横で、スィフィが困ったねぃ、と長い髪をいじっている。こいつ、今までずっと吊り広告の中に居たからわからなかったけど、けっこう背高いんだな。頭一つと半分高い身長のスィフィを見上げるあたし。スィフィも同じように、こっちを無言で見詰め返す。……遊んでるわけじゃないんだけど。


 大袈裟に溜息をつくと、スィフィはちょっと肩を竦めた。


「――で? ここはいったい何処どこなんだ? まさか、死後の世界とか言うなよな。この若さで死ぬなんて絶対やだぞ、あたしは」


「んー、おいらにもわかんないねぃ。ただ、すごく懐かしい場所っていうか、暖かい気持ちになれるっていうか……」


 両手を胸の中心に当てて、スィフィが瞼を閉じた。なんだそりゃ。呆れるあたしの耳に、微かな物音が聞こえた。素早く音のした方向を睨むと、白い世界に白い人が倒れている。真綿のようなふわふわの髪の毛、白魚のように透き通った白い肌、贅をつくした白地のドレス……。どっかで見たような気がするな。


 あたしが思い出すよりはやく、スィフィがその人のところへ駆け寄っていった。起き上がるのに手を貸そうとするスィフィを、白い手が叩く。


「――近寄るでない」


 か細いけれど威厳のある声を聞いて、あたしはやっと思い出した。こいつ、さっきまで散々好き勝手やってた異世界の女王じゃないか。あんなに大きかったのに、あたしと同じかそれより小さくなっている。

 差し出す手を拒否されたスィフィは、哀しそうな顔をした。


「でも、おいら……」


「言い訳など聞きとうない。そなたのせいで、わらわが育てた世界は滅んでしまった。破滅の始まりよ、わらわの前から去るがいい」


 真白な世界に場違いなほど色彩豊かなスィフィが、頭を項垂れる。長い髪の毛が揺れて、白い地面にピンクと緑とのマーブル模様をつくった。

 立ち上がって偉そうにしている小さな女王に、あたしがつかつかと歩み寄る。


「なんだよ、わらわが育てただの、わらわの子だの、まるで何でも自分の手柄みたいに――」


 口を挟もうとするあたしを、女王が視線で黙らせた。ガンの張り合いで負けたことないのに、ショックだ。これがカリスマってやつなのかな。とぼけたことを考えるあたしの前で、女王はぴんと背筋を伸ばして姿勢を正した。指の先まで、気が張り詰めているのがわかる。


「――その通りである。あの世界は、草木や羽虫に至るまで、全てわらわから生まれ出でたもの。言葉あるものも、言葉を持たぬものも、有なるものも無なるものも……。わらわから与えられた役割を健気に果たし、それぞれが世界の一端を担っていた。しかし、そこに居るスィフィは違った――。わらわが与えた役目を拒み、自分の頭で物事を考え、周りに影響を与えた。眠る赤子に、糧を求めて泣く方法を教えたのだ。それがどんな結果を生んだか――そなたもその眼で見たであろう」


 問い掛けてくる女王の目は、厳しい光が差していた。名指しされたスィフィは、おどおどと落ち着き無い素振りをしている。それを一瞥して、あたしは溜息をつくとスィフィの肩を叩いた。


「……ほら。ちゃんと向き合って、言うんだろ? 自分の考えを。聞かせてやれよ。この偉そうな女王さまにさ」


「う、うん――」


 謀反者の言葉など聞く必要ない、と主張する女王を宥め、あたしはスィフィに先を促した。両手の指を交互にくるくるまわしていたスィフィが、おちゃらけた動きを止める。

 暫らくの間、真白な世界は無音だった。一生懸命言葉を選んでいたスィフィが、その口を開く。


「その……ごめん、なさい……」


 謝ってどうする! 思わず突っかかりそうになるのを堪えて、スィフィの次の言葉を待つ。これで終わるわけが無い。もっと他に言うことあるだろ。泳いでいたスィフィの視線が、真直ぐ険しい女王の眼へと向かう。


「でも、思うんです。誰かの言いなりになってるだけじゃ、いつまでも何も変わらないって。自分で考えて、試行錯誤して、それで精一杯の結果を得たときの喜びは何にも代えられないって。初めてのことばっかりで、上手くいかないことのほうが多かったけど――。そんな気持ちを、故郷の人達にも知ってほしかったんです」


「思う、考える――変える……か」


 女王の顔に薄らと皺が寄り、忌々しそうにスィフィの言ったことを繰り返した。恐れながらも顔を背けずじっと立つスィフィを、女王が白い眼で睨む。


「全てわらわにとっては邪魔なだけだ。何も変わらない? だからこそ、よいのではないか。母の胎内でまどろむ子どものように、絶対なる支配者わらわの言うことに身を任せる――。何も考えず、何も感じない。苦しみも恐怖もない世界だ。それこそが、受けうる最高の世界だろう。そなたはその世界を、皆の安寧の寝床を台無しにしてしまった」


 強い口調で言い返されて、スィフィはまた黙ってしまった。まったくもう、こんな顔したスィフィは見てられないっつの。またスィフィに向けて批難の言葉をぶつけようとする女王の前へ、あたしが一歩進み出る。


「眠ってりゃいい? 何も考えるな、感じるなだって? そんなの、あたしは嫌だ。痛くっても苦しくても、自分で考えた、自分で選んだ道を進むんだ。じゃなきゃ、何のために生きるってんだよ。ずっと眠ってるってのは、死んでるのと一緒だろ。そのほうがおまえにとって都合がいいから、ただそれだけだろ。考えることができるおまえが、同じことができる奴らに『考えるな』って言うのは、なんか矛盾してるんじゃないか? 」


 勢いだけでぶちまけた言葉は、女王の琴線に触れるところがあったみたいだ。人形みたいに整った顔に困惑の色を浮かべ、女王が言葉に詰まっている。もうあと一押しだ。無意識にそう感じると、あたしはスィフィの手を握っていた。ぎゅっと握ったスィフィの手は骨ばってごつごつしてるけど、暖かかった。その温度に後押しされて、あたしの口から言葉が溢れ出てくる。


「確かに、自分で考えて行動するのは大変だよ。ちゃんと責任とらなきゃいけないし、途中で放り出したくなるときもある。でも、だからって、最初から最後までお膳立てされてたら、全然成長できないじゃんか。面倒みてくれる親がいなくなったら、赤んぼうは生きていけないだろ? おまえだってその、『命の輪』の一端なんだし……。だから……そろそろ手を離してもいいんじゃないかな。おまえの子ってのも、もしかしたらもう――一人で歩けるかも知れないから」


 真白な世界に君臨する真白な女王さまは、自分の左手を見詰めた。そこにはさっきあたしが殴ったのと同じ、小さなひび割れができている。さらさらと音を立てて崩れ始める自分を静かに眺め、女王は溜めていた息をふっと吐いた。


「そなたの言うことにも、一理あるな……。永いながい時を生きて、わらわ自身も命の流れに浮かぶ一つの泡沫うたかただということを、忘れてしまっていたようだ……。この身から生み出した子らと離れることを渋ったからこそ、歪みが生まれたのやも知れぬ。どれだけ命を食べようとも、失ったときは戻らない……」


 じゃあ――、と顔を上げるスィフィを、女王が右手のひらを向けて制した。何かするのかと肩を強張らせるあたしとスィフィに、女王が静かに続ける。


「しかし、スィフィ。……そなたはわらわの全てを託すには、まだ未熟。その激しく波打つ感情を抑える術を、これからじっくりと学ぶがよい」


 白い世界に散りながら、女王はスィフィに向けて微笑んだ。駆け寄ろうとするスィフィに、女王が首を横に振る。たおやかな仕草であたしの後方を指し示し、囁くように最後の言葉を口にした。


「行きなさい。そなたの歩む道は、これからもずっと続いているはずだ。何時いつか世界を変えるのではなく、統べるようになるまで――。その時が来るまでは、アズァに故郷を託すことにしよう。わらわの子、スィフィ。命の流れの中から、そなたの成長を楽しみにしている……」


 白い世界は溶けるように女王を包み、そして消えてしまった。足元に広がる無色透明な見覚えなある光景を茫然と眺めていると、後ろから好男達の声が聞こえてきた。名前を呼ぶ声に振り返ると、最初に出会った姿のままの好男がこっちに走ってくるのが見えた。肌が普通の色に戻ってるし、髪もちょっと長めに戻っている。それに、どうやらあたしの視界も感覚も元に戻ってるみたいだ。もうどうやっても視界を切り替えられないことに気付いて、あたしはちょっと落胆した。あれ、結構便利だったのになぁ。


 がっくりと肩を落とすあたしに、好男が息を切らして話しかけてきた。


「み、魅首ちゃん――よかったぁー無事で……。どこを探しても見つからなかったから、オレもうどうしようかと……」


「ちょ、放せってば。というか好男、おまえこそどうしたんだよ。あれだけ黒くなってたのに、普通に戻ってるし」


 ちゃっかり手を握ってくる好男を振り払って、質問を質問で返すあたし。ああ、そうそう、と好男が左手に着けた腕時計を覗き込んだ。


「アズァ――って、もうこっちには居ないんだっけ。おーい、アズァー! 」


 振り返って名前を呼ぶ好男に釣られて、あたしも好男の背後に視線を向けた。腕時計の中にいたそのままの、でも大きさはあたしと同じくらいになったアズァが、長い髪を重そうに引き摺っている。


「えっ? あ、アズァが腕時計の外にいる――っ? 」


「あははー、魅首、その顔おっかしー」


 頭の上からいつもの聞き飽きた声がして、あたしは嫌な予感を覚えて振り返った。広告から出て完全に人型サイズに戻ったスィフィが、腹を抱えて笑っている。嘘だろ……。さっきのは夢か心象世界だと思ってたのに……。

 色々こっ恥ずかしいこと言っちゃったよ、ああもう――。うずくまって身悶えするあたしを、刈子が覗き込む。


「大丈夫ですか、魅首さん? どこかお怪我でもしてるんじゃ――」


「いや刈子、これは精神的葛藤が身体に現れてるんだよ。だからそっとしておくのが一番」


 気を揉む刈子の横で、これまた実物大に戻ったテンキィが胡散臭い説明をしている。ああでもない、こうでもないと揉める刈子とテンキィに挟まれて、あたしはその場から立ち上がった。


「どうなってんだよっ! 説明しろっスィフィ! 」


 こんなこと言っても答えてはくれないだろうけど、なんて心の隅で思っていると、口笛吹いていたスィフィがきょとんと首を傾げた。ほら、やっぱりはぐらかすつもりなんだな。ささくれた気持ちでむすっとするあたしに、スィフィが何かを取り出してみせる。


「どうって、契約書に書かれた内容を全部果たしたから――。あと、あのお方がかけた呪いと封印も解けたからだねぃ」


 そう言って差し出したそれは、電車の中で見た謎の板だった。あ――! と声を上げて手を伸ばした途端、それはスィフィの手の上で消えてしまった。もう持ってないよん、と肩を竦めるスィフィに詰め寄るあたし。


「ほんとに、ほんとにこれで終わりだろーな! また何か企んでたりしないよな? 」


 念には念を押すあたしに、スィフィは情けない顔で苦笑している。……この笑い、信用できん。

 思ってることが顔に出てたのか、テンキィがスィフィを押し退けてあたしに詳しく説明してくれた。


「世界の総てを統べる女王の力と、世界を変えるスィフィの力が互いに作用して、歪んでいた空間のつなぎ目が正常に戻ったんだ」


「つまり――何もかも元通りになったってことか? 」


 ほっとして尋ねるあたしに、テンキィはちょっと浮かない顔をしている。全部が全部元通りになったわけじゃないんだ、と呟くテンキィの言葉を、アズァが補足した。


「女王に吸収され、生み出されたものは女王が司る世界にしか存在できない――。この闘いで失われたものは、わたし達の故郷に組み込まれてしまった」


 哀しそうに眼を伏せるアズァの横で、じゃあ武宮さんのご家族は……、と刈子が口元を押さえている。そうだ、十四季は。


 刈子の言葉で十四季のことを思い出し、あたしは辺りを見回した。思ったとおり、少し離れたところに十四季は一人で佇んでいる。声を掛けて手招きすると、はっと気が付いてこちらへ歩いていた。


「あれ、十四季おまえカラコン――」


 まだ赤い左目を指して言うあたしに、十四季が包帯を巻いた右手をさする。


「そもそも契約なんてしてなかったからな、俺は……」


 ぼそりと呟く十四季の手には、うっすらと円い目の跡が残っていた。何て声を掛けていいか絶句するあたし達に、十四季が気を取り直して話しかける。


「こんなところで悠長に話し込んでいていいのか。空間の歪みとやらが、塞がってきてるぞ」


 十四季の言葉に、皆の視線が最後に残った二つの亀裂へ注がれた。一方は見慣れたあたし達の世界、もう一方はスィフィやアズァ達の住む世界へと繋がっているみたいだ。それが少しずつ小さくなっている。


「うわ、大変だ! はやくしないとここに取り残されてしまうよ」


 慌てるテンキィに流され、皆それぞれの亀裂の前に移動する。こっち側にはあたしに好男、刈子、それに蟹の少年と光を操ってた女の子。向こう側にはスィフィにアズァ、テンキィに――。


「十四季? おまえこっちじゃないのか? 」


 何の躊躇いもなく向こう側の亀裂に行った十四季が、赤と茶のオッドアイをきゅっと細めた。黒い包帯を巻いた右手首を左手で握り、亀裂の向こう側を眺める十四季。


「俺……ずっと斜に構えて、かっこつけてたんだ。現実を見てなかったのは、俺自身なんだ。だから、家族にさよならも言えなかった……。失われたものがこっちにあるなら、もしまた家族に会えるなら、今度はちゃんと、飾らない自分自身で向かい合いたい」


 ぼそぼそ呟いて、十四季はちょっと顔を赤らめた。茶化すスィフィに強がった台詞を言うと、あたし達に向かってはにかんだ顔を向けて手を振った。

 そっか……。それじゃ仕方ないよな。手を振り返すあたしの頭に、ふっと疑問が浮かぶ。


「――なぁ、また会えるよな? まさかこれで永遠にさよならってわけじゃないよな」


 不安になって尋ねるあたしに、ふざけて手を振っていたスィフィが急に真顔になった。なんだか寂しい気持ちになるあたしに、アズァが静かに語り掛ける。


「この歪みが生まれたのは、運命の悪戯いたずら――。魅首殿、刈子殿、武宮殿、……そして好男のお陰で、その歪みは正された。二つの世界を結ぶ歪みは、これ以上存在しないほうが互いのため――」


 そう言って、アズァは眼を伏せた。本当に、いくら礼を言っても足りない、とかなんとか言ってるけど、これって――もう会えないってことかよ。あっけらかんと手を振る好男の前で、あたしは思わず鼻を赤くしていた。駄目だ、もうちょっとで泣いてしまう。泣き顔を見られたくなくて背を向けたあたしを、誰かの手が抱きとめる。骨ばったあったかい手に、生っ白い肌。へへっ、といたずらっぽい笑い声が耳に入ってくる。


「何々、もしかして魅首泣いちゃいそうなの? らしくないなぁー、どっかーんって怒るかと思ったのに」


 ……うるさいな。そんなんじゃないってば。調子乗ったムカつく声に、何か言い返してやりたかった。でも、肩が震えて、目頭から熱いものが零れて、とてもそんなことできそうにない。頭の上から降り注ぐ茶化す声に、あたしは思い切り腕を払って振り向いた。

 怒ったせいでびっくりしたのか、スィフィが緑色の目を円くして固まっている。その胸に飛び込んで、あたしは泣きながら大声を出した。


「――っるさいってば! 悲しいんだよ! ……おまえのこと、絶対忘れないからな! この、嘘つきで、ホラ吹きで、能天気な――――」


 思いつく限りのこれまでの所業を並べ立てるあたしの頭を、スィフィの手がそっと包む。もうわけがわからなくなってひたすら泣き続けるあたしの顔を両手で包んで、スィフィは大人びた笑顔を見せた。


「……うん、おいらも、魅首のこと忘れない」


 ひょっとしたらあたしは、その一言が欲しかったのかも知れない。涙でぐしゃぐしゃになったあたしの顔をじっと見詰め、鼻水出てるよん、と言ってスィフィが何か差し出した。スィフィが入っていた電車の吊り広告だった。――こんな大事なもので鼻がかめるわけないだろ、馬鹿。

 相変わらずのデリカシーの無さにちょっと冷静になると、あたしはスィフィから離れた。と言っても、まるで電車に乗って離れ離れになる、遠距離の恋人同士みたいにゆっくりとだけど。隣で好男が眼を円くして、え、そうだったの? オレの立場は? とか情けない声出している。そんなんじゃねーよ、友情だよ、と言い訳して、あたしはスィフィを見上げた。


「……それじゃ、またねぃ」


「ああ。またな」


 吊り広告を大事に握るあたしに、スィフィが改めて別れの挨拶をした。向こう側の亀裂の前で、アズァが不思議な呪文を唱えている。あたし達の身体をもやもやしたものが覆って、手を振るスィフィ達の姿が段々薄くなっていく。思わず切なくなって千切れるほど手を振ったそのとき、向こう側の皆に混じって悠が手を振るのが見えた。




 こうして、あたしと好男は花柄の待つボロアパートへ帰宅したのだった。

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