第四四章 未来への行進 後編
黒い空間を白い光が貫く世界の中、ところどころ血に染まった茶髪をなびかせて魅首はその場にくずおれた。
背を向けて剣を構えていた好男が物音に振り返り、慌てて魅首を抱え起こす。
「み、魅首ちゃんっ? 大丈夫か? 」
肩を掴んで揺さぶるが、細い首がわずかに揺れただけで返事は無かった。黒髪の鎧に包まれた手が魅首の脈を計り、腕時計の中からアズァが声を出す。
「脈はある。少し速いのが気になるが――。浅いけれど呼吸もしている、魅首殿は無事だ」
冷徹ながらもしっかりと容態を看るアズァの声に、ほっと安堵の溜息を吐く好男。しかしすぐに眉間に皺を寄せると、腕の中で死んだように眠る魅首の顔を見つめた。まだ少し子どもっぽさの残る顔が、時折苦しそうに痙攣している。
びくびくと瞼の裏で眼球を動かす魅首。その髪色は次第に茶から緑と桃の斑へと変化していく。目の前で変わりゆく魅首の姿に動揺を隠せず、好男はうろたえている。その横を、ひらりと黄ばんだ電車の吊り広告が舞った。だらりと下げられた魅首の近くに落ちたそれは、なんの変哲も無いただの紙切れになっていた。足元に落ちた広告と魅首の顔を交互に眺め、情けない声で好男がアズァに尋ねる。
「なぁアズァ、いったい何が起こったんだ――? 魅首ちゃんはこんな風になっちゃうし、スィフィは広告の中から消えちゃったし……」
黒い髪に覆われた左手首を見つめる好男に、アズァは少し躊躇った後、口を開いた。
「レストランの最上階で、光剣を操る少女と闘ったときのことを覚えているか? 」
「え? うん、まぁ……。初めてのことだったし、結構鮮明に覚えてるよ。なんていうか――群を抜いて凄かったよな。オレがまだ未熟ってのもあったけど、アズァが闘っても全然太刀打ちできなかったし……」
唐突に訊かれた好男が眉を上げてそう答え、アズァが再び躊躇した。鎧を形作る黒髪がざわざわと動き、隙間一つ無かった鎧に粗密をつくっている。
「好男……最初に契約したときに、わたしの力を生かすも殺すも、そなたの心の持ちよう次第だと話したな。故郷を出て異世界で力を使うためには、『契約者』を媒介として使う必要があると――」
ほとんど独り言のように呟くアズァに、好男が鎧の上から頭を掻いて首を傾げている。
「えっと――ああ、そういえばそうだったっけ。能力に対する理解がどうのこうのとか説明してくれてたよな」
「……そう。異世界で使える能力は、『契約者』同士の心が深く作用している。その端的な例が『涙』だ。涙を流すほどの激しい感情が、封印の隙間を伝って流れてくる故郷からの力を一時的に増幅させる――。ただし、それを制御することができなければ、魅首殿やスォンと契約したあの少年のように、能力が暴走してしまう」
ほとんど途切れもせずに言葉を発するアズァに、好男はまた首を傾げて兜の下の眉間に皺をよせた。ってことはつまり――、と口の中で声に出さずぶつぶつ呟いている。
まだ内容を整理しきれていない好男の首筋に、冷たいコンクリートの刃が当てられた。
「つまり、異世界で能力を使うには強力な感情と、能力に対する理解が必要だということだ」
「――! 」
押し殺した低い声に、好男の額を汗が伝う。
コンクリートの剣を握る浅黒い手の向こうから、冷たく光る目が好男を睨んでいた。
皮膚を削る刃に息を呑む好男の背後から、赤いドレスを着た女の甲高い声が聞こえてくる。
「どう? 視界が戻ったでしょう? 感謝しなさいよね」
そう偉そうに言う女の足元には、腕を押さえて蹲る刈子の姿があった。水色の袖口を赤く染めて苦しむ刈子のお下げを引っ張り、女が嗤う。
「ったく、手間掛けさせてくれたわねぇ。さてと……どうやって甚振ってあげようかしら? そのかわいいお顔が苦痛に歪む様を眺めるの、楽しみでしょうがないわ」
かたかたと震える刈子に、女が鼻に皺を寄せて髪を引っ張った。無理矢理顔を上げさせられて、刈子が痛そうに顔を歪めている。その目には僅かに涙が滲み、噛み締めた唇は蒼白になっていた。もうそのぐらいでいいだろう、と刈子の表情を見たカンツァが眉を曇らせ、霞恋に頬を殴られた。
「――っ」
「一々口を挟まないで。アンタ、ちゃんと分かってるの? わたしがいなけりゃ此処で何にもできないくせに。昇進したいんでしょう? 生き残りたいんでしょう? だったら綺麗事なんか言ってないで、素直にわたしに従えばいいのよ! 」
激昂した赤いドレスの女は醜く眉間に皺を寄せてそう叫び、ぐい、と刈子のお下げを力任せに引っ張った。付け根から引っ張られて、刈子が地面に倒れこむ。小さく悲鳴を上げる刈子の髪の一筋が、鈍く金色に光を反射した。
「刈子ちゃんっ! 」
好男が刈子の名を呼び、立ち上がろうとするその腕をコンクリートの剣が切り裂いた。間髪入れずに第二撃が繰り出され、それを変形した黒髪が受け止める。
「御前の相手は我だ。今度こそ決着をつけさせてもらうぞ、副団長」
浅黒い肌の男が冷たい目を光らせ、右手に握った剣を構えなおした。剣の向こうには、人型をしたコンクリートの塊が、ゆらゆらと揺れながら好男達のほうへ近付いている。迫ってくる敵に、好男は魅首を抱きしめたまま後退りした。幾本ものコンクリートの剣が、じりじりと好男を追い詰めていく。
「――くっ……。大ピンチだな、こりゃ――。そうだ、十四季は」
はっと思い出した好男が、剣を警戒しながら辺りを見回す。五、六メートルほど離れた、刈子達の近くに、十四季が地面に手をついて項垂れていた。遠くから見てわかる位に、肩を上下させて息をしている。咳き込んで押さえた口元から、奇妙な色の液体が滴り落ちた。
服の上から見てもわかるほどに変形していく十四季の姿に、好男が目を凝らして戸惑っている。
「お、おい、アズァ。十四季の様子が変だぞ? なんていうか、あれじゃ今にも――」
変貌していく十四季を見つめ、好男が左腕に着けた腕時計に話かける。すぐに返事がくると期待する好男の目に映ったのは、悲しそうに眼を伏せるアズァの顔だった。黒い眉間に皺を寄せるアズァに、好男が不安を露わにして問う。
「アズァ……? 」
「運命を決する時が、近付いているんだ――」
硝子を針金で掻いたような声を絞り出し、アズァが呟く。
「うんめ……い? なんだよ、それ。十四季は、それに魅首ちゃんと刈子ちゃんも、……あとオレも、どうなっちゃうんだよ」
顔を顰めて問い質す好男に、アズァは固く眼を閉じて黙っている。沈黙するアズァに戸惑う好男が、その腕に抱いた魅首の顔に眼を移した。十四季ほどではないが、魅首も髪や肌の色が変化してきている。そして魅首を支える好男の腕も、周囲の闇と同化するほど黒く染まっていた。
もう一度アズァの名を呼ぼうと、好男が口を開いた。声を出そうとしたその一瞬前に、好男の耳に男の鼻で笑う音が聞こえた。
「とうとう襤褸が出てきたようだな。まやかしの言葉で我らを惑わすのも、これが最後だ。”世界”が貴女の望むままになるなんて大間違いだということ、我が証明してみせよう」
無数の切先を好男の左手首に定め、浅黒い肌の男は冷たい笑みを浮かべた。好男を覆っていた黒髪がざわめき、漆黒の鎧が解けていく。
「――アズァ」
「……好男。魅首殿を連れて、武宮殿のところへ。レェンはわたし一人で相手する」
ほぼ同時に互いの名を呼び、躊躇した好男にアズァが指示を出した。え、でも……、と口篭る好男の左手首から腕時計が外れ、文字盤から溢れ出る黒髪が人の形をつくっていく。文字盤目掛けて斬りかかるコンクリートの剣を、主のいない黒髪の鎧が往なす。
「安心しろ、文字盤には破片さえも近付けさせぬ。さぁ行け、はやく! 」
雨のように降り注ぐコンクリートの剣の一つひとつから好男を護りつつ、アズァが鋭く叫んだ。二人がかりの猛攻に少しずつ後退りするアズァと、黒髪がつくった安全な道を交互に眺める好男。数秒の間アズァを見詰め、抱いていた魅首を担ぐ。その様子を一瞥した黒髪の鎧が、短く頷いた。
それきり振り返りもせずに剣を受けるアズァの背中に、遣る瀬無い表情の好男が口を開く。
「アズァ、オレ……。オレは、おまえのこと信じてる」
せわしなく動いていた黒髪の剣が一瞬、動きを止めた。膠着するアズァと浅黒い肌の男に背を向けて、好男が走っていく。遠くなっていく好男を眺めながら、男がコンクリートの双剣を握りなおした。
「ふん、どこまでも愚かなものだ。『仲間』などというしがらみに囚われて、感情論でしか物事を量ることができないとは」
「――――それは、どうかな」
目の前の黒い鎧から発せられた声に、男が片目を顰めて口元を歪める。
中に好男の居ない、ほっそりとしたシルエットの黒い鎧が、剣を構える男を正面から見据えた。その周囲には、黒髪の剣が叩き落したコンクリート片が疎らに散らばっている。
何か含みのありそうなアズァの声に、浅黒い肌の男は心底面白くなさそうな顔をしてみせた。剣を握る手に力が入り、柄と手袋の擦れる音が緊迫した空間に響く。
「色々と足止めを喰らうこともあったが――この任務を受けてよかった。忌々しい妄言を吐く貴女のその口を、この手で封じることができるのだから」
ぞっとするほど冷たい眼をアズァに向け、男は一歩踏み出した。
「あらら? アンタのお仲間、逃げ出しちゃったわよ? 」
魅首を担いで敵に背を向け走る好男を見て、赤いドレスの女が意地の悪い声で刈子に言った。真紅のピンヒールにスカートを踏まれている刈子は、遠くで闘うアズァを心配そうに見詰めている。その眉は八の字に寄って、華奢な手は祈りの形に組まれていた。
眼を閉じて聞き慣れない祈りの詩を唱える刈子を見下ろし、赤いドレスの女が鼻に皺を寄せる。
「……何なの、もしかしてアンタ、神様とか信じちゃってる? 馬鹿な子ね――。アンタなんか、誰も助けてくれるわけないのに」
真赤な口紅を引いた唇を開いて毒を吐く女に、刈子は全く動じない。静かに祈りを続ける年下の少女の存在に、赤いドレスの女は尖った爪を己の拳に食い込ませた。親切に本当のことを教えてあげてるのに、何よ――、と女が左手を空中に伸ばす。手の平の辺りから、紅い炎が生まれていく。
はっと顔を上げる刈子を見下しながら、赤いドレスの女は右手を頬に当ててわざとらしく高笑いした。
「いいわ、分からないっていうなら、力づくで分からせてあげる。アンタ達を助けてくれる神様なんて、存在しないってことをね! 」
邪悪な笑みを浮かべ、女が燃え滾る炎を好男目掛けて振りかぶった。手の平から溢れる炎が投げつけられようとしたその瞬間、女の足に刈子が体をぶつけた。よろめく女の手から投げられた炎の塊は、あらぬ方向へ落ちていった。空間の割れ目近くに落ちた炎が燻って、図書館の橙色の屋根に焦げた色をつける。驚きの声を上げる群集の声が、空間のねじれを越え、奇妙な呻りとなって響いた。
「――っ何するのよ、このガキ! 」
激昂した女が鋭い眼光を刈子に飛ばし、わき腹をヒールで蹴った。地面に手をつく刈子の襟首を掴む女。視線だけで人を殺せそうなほど刈子を睨む女に、傍にいた闇色の肌の男が声をかける。
「霞恋、子ども相手にそこまで怒らなくても――」
「お黙り! 」
叩きつけるように女が言い、文字通り烈火が男を襲う。両腕で顔を覆って炎を避けようとする男に、赤いドレスの女は罵声を浴びせている。罵られる男の、闇のような身体の中に灯る小さな火は、今にも消えてしまいそうだった。
味方に暴言を吐き続ける女に襟首を掴まれたまま、刈子が咳き込んでか細い声を絞り出す。
「わ、わたくしは……皆さんを、世界を助けたいんです……」
刈子の言葉に、女の瞳孔が開いた。わなわなと手を震わせ、女が刈子に視線を戻す。くっきりとアイラインを引いた目の中に憎悪を燃やし、への字に曲がった真紅の唇からうわずった声が発せられた。
「――バカじゃないの? アンタ何様のつもり? 自分が神の使いだなんて本気で信じてるわけ? ……ふふっ。そういえばアンタ、どっかのカルト教団に属してるんだっけ。巫女だとかなんか言われて、随分ちやほやされてたんですってねぇ」
女が一旦言葉を切り、震えている刈子を睨みつけた。燃え盛る炎のような赤みがかった茶色の瞳に見詰められ、刈子が恐る恐る頷いている。それを見たと同時に、女の赤い唇の両端がゆっくりと持ち上がった。
「そう、じゃあ……かわいい巫女さんに教えてあげるわ。アンタは、只の女の子。特別な才能や力なんて、これっぽっちも持ってない。どこにでも居る普通の女の子よ。異世界の奴らと契約しなければ、何の力も使えない――。誰でもよかったのよ。だってそうじゃない? アンタより優秀な子は……この世にいくらでもいるんだから。そんなアンタが世界を救おうだなんて」
「……わかってます」
襟首を掴む女の骨と皮ばかりの手に、そっと刈子の小さな手が触れた。憎しみを湛えた女の瞳を、涙で潤んだ刈子の目が見詰め返している。目にいっぱい涙を湛えた刈子に、赤いドレスの女が一瞬だけ怯んだ。その一瞬を突いて、刈子が口を開く。
「わたくしが――自分が、取るに足らない女の子だってこと、なんの神通力も無い一般人だってこと……そんなこと、とっくに分かってました。知ってました。――でも、わたくしのことを信じてくれる人が居るんです。期待してくれる人が、待ってる人が居るんです。そう思ってくれる人がいるから……わたくしは此処にいるんです。恐くても、辛くても、わたくしは逃げません。期待された務めを、きちんと果たしてみせます! 」
青い目から溢れた涙が目尻を伝い、顎の輪郭をなぞって滴り落ちた。必死に訴え掛ける刈子に、赤いドレスの女が肩を小刻みに震わせている。
「……うざいのよ、そういうの……! 」
紅蓮の炎が女の拳を包み、そして刈子の身体を包み込んだ。
「刈子ちゃん――! 」
やっと近くまで来た好男が擦れ声で叫んだけれど、刈子を包んだ炎はあっという間に燃え尽きて消えてしまった。何も無くなった空間に、好男の声が虚しく吸い込まれる。
まだ燻るスカートの切れ端が宙を舞う様子を眺め、赤いドレスの女がこれ以上無く楽しそうに嗤い声を上げた。
「ほらね! 自分を救うことすら出来ないじゃない! 」
頬に手を当てて高笑いする女の背後で、好男が地面に膝をついた。
「……う、そ……だろ……」
呆然として脱力した好男の肩から、気絶した魅首が地面にどさりと落ちた。びくん、と痙攣した魅首の腕が、すぐ隣に転がる十四季の服に触れる。その動きを追う好男の視線が、足元で倒れている十四季に向けられる。もはや元の顔が分からないほどに変化した十四季が、赤い目を薄らと開いて好男を見ていた。
微かに息をしている十四季に気付き、好男が慌ててその肩を揺する。
「十四季、聞こえるか? 起きれるかっ? 」
好男の問いかけに、十四季が唇を開いた。その端から、濁った液体がぽたりと垂れる。生臭い匂いに思わず鼻を押さえる好男。
「と、十四季……おまえ――」
大丈夫――なわけないよな、と気後れしながらも呟く好男に、十四季が弱々しく手を伸ばした。黒い血管に覆われ、皮がはがれて肉が露出する腕を、好男が凝視する。ぎらぎらと光る赤い目を瞬かせ、十四季が伸べた手を開いた。幽かに青い光を発する手の平を見詰める好男の身体に、一瞬悪寒が走る。
「――っ? 」
「力を……貸してくれるのか……」
背筋を襲った寒気に肩を竦める好男の耳に、十四季の苦しそうな声が聞こえた。今度は顔に冷気を感じたが、そんなことは気に留めず、好男は十四季の手首を掴んだ。蝋のような腕が、好男の触れている部分から血色を取り戻していく。しかしそれと同時に、漆黒に染まった好男の輪郭が、周囲の闇に溶け出た。
赤く光る目がその様子を見詰め、やや元気を取り戻した声で好男に尋ねる。
「……いいのか……虚空に消えることになるぞ」
十四季の問いかけに、好男の表情が曇る。振り返ってアズァへ眼を向けると、空間に新たな亀裂が生じているのが見えた。アズァに当たらなかったコンクリートの破片が空間の向こうに降り注ぎ、断続的な民衆の悲鳴が上がっている。
朱に染まる空間の裂け目を見詰め、好男が膝の上で拳を握った。
「十四季――おまえはさ、聞いてるんだよな。この事態をどうにかする方法を、アズァ達がやろうとしてる事を――」
刻一刻と広がる亀裂を睨むように見詰め、十四季に問い掛ける。肯定する十四季に、険しい表情で亀裂の広がりを見詰めていた好男が独白した。
「恐いんだ、オレ……。オレの知ってる街が、人が、抗いようの無い力に蝕まれて壊れていくのが。これ以上知り合いが傷つくのを見たくないんだ。でも――オレは今、何をすべきなのか全然分かっちゃいない。分かってるのは、十四季、おまえだ。……つまりどういうことか、分かるよな? 」
首を傾げる十四季に、好男は皮肉な笑みを浮かべた。その視線の先には、黒髪の剣を操るアズァの姿が。浅黒い男の操るコンクリートの刃達は、もうほとんどが空間の亀裂に落ちてしまっていた。アズァの鋭い剣裁きが、コンクリートの剣を弾き飛ばす。弧を描いて亀裂に落ちていく剣を、男が悔しそうに見送った。
無言で体勢を直すアズァに、浅黒い肌の男が歯軋りしている。男の手に残った剣は一本で、背後に立つ人型のコンクリートを残して、武器はそれしか無い。激しく息をしながら剣を逆手に持ち直し、男は一気にアズァを斬りつけた。
乾いた音が短く響き、コンクリートの剣がくるくると回って空間の狭間に吸い込まれる。咄嗟に後退しようとする男の左足を黒髪の束が捕らえる。体勢を崩し、男は地面に手をついた。浅黒い肌の上を、大粒の汗が伝い落ちる。
「……」
透明な地面に爪を立てて殺意の視線を飛ばす男の首に、アズァが無言で剣を当てる。勝敗が決したことは、誰の目にも明らかだった。ただ一人、アズァの前で歯軋りする男を除いては。
降伏の言葉を待つアズァに、男がその声に悔しさを滲ませる。
「――我が負けたのは、ここが故郷でなかったからだ。貴女とその一味の言う『仲間』や『相棒』などという感情に基づいた不確実なものに、我が負けるはずが無い……! 」
押し殺した感情を静かに燃やし、男は自分に剣を向けるアズァを睨んだ。好男が入っていたときよりも細身になった黒髪の鎧が、男に一歩近付く。
「そうだな。土のあるところで、誰と契約することもなしに一対一で闘ったなら、わたしはそなたに勝てなかっただろう。……しかし、異世界のものに触れることで、わたしは変容した。わたしとそなたの違いが、勝敗となって現れたのだ。……そうだろう、レェン」
淡々と諭すようにそう言って、アズァは男から視線を動かした。男の背後で揺れているコンクリートの塊には、薄らと松郎らしき顔の形が浮かんでいる。髪の軋む音と共に兜が俯き、アズァの細い溜息が聞こえた。
「……レェン、彼を解放してやれ。戦いは終わった、もう十分だ」
コンクリートの隙間から赤い涙を流している松郎だったものに、男の鋭い視線が注がれる。じっとコンクリートの塊を憂いげに見詰めるアズァを、男がちらりと一瞥した。なめらかだったコンクリートの表面があわ立ち、鱗のように変形していく。
「解放だと? ――馬鹿な事を。まだ任務は終わっていない」
一瞬の隙をついて、男が地面を蹴り後方へ飛んだ。めまぐるしく変形するコンクリートの塊の横に降り立った男が、一際鋭利な突起に右手を伸ばす。
「使えない『契約者』だったが、征服し易いという一点では優れていたな。さぁ、もう一度――っ? 」
傲慢な言葉を吐く男の顔が引き攣り、見開かれた目が、己を右手を見詰めている。刀のような突起から突き出た幾つもの棘が、男の手を串刺しにしていた。何故、と喘ぐ男の腕をコンクリートが蛇のように這い上がり、次々と棘を刺していく。それを男が左手で剥がそうとするけれど、逆に左手まで串刺しにされてしまった。予想外のことだったのか、男は額に油汗を浮かべて必死に逃げようとしている。
「く、くそ、離れろ――放せっ! 理性の欠片も無い下等生物の分際で――」
罵声を上げようとした男の口を、そして鼻を、コンクリートが覆い尽くしていく。地に膝をつく男を、塊だったコンクリートがゆっくりと包んでいった。それと反対に、氷が溶けるように移動するコンクリートの中から、赤く染まった何かが姿を現す。
足元に転がるコンクリートの塊を見下ろすそれを見て、アズァは思わず息を呑んだ。
黒髪の剣が解けていく音に、血まみれのそれは顔を上げた。直視できないほど崩れた目から血を流すそれの頭には、塗装の剥げたヘッドホンが辛うじてぶら下がっていた。
「そなた……まだ意識があったのか……」
驚きを隠せず呟くアズァに、赤く染まった何かは暗い眼を向けている。血の滴る身体が大きく揺らぎ、それはたたらを踏んだ。踏まれた透明な地面に細かい皹が入り、空間の裂け目が生じていく。
広がり始めた空間の亀裂に、アズァが松郎に向かって手を伸ばした。
「危ない、はやくこちらへ! 」
治療すればまた元に戻れる、と説得するアズァ。その様子を眺め、血塗れの何かは口元を歪めた。砂嵐のような音を立てて崩れていく空間のひび割れを踏み、それはゆっくりと後退していく。穴だらけの右手で位置のずれたヘッドホンを直すと、それはアズァを見詰めたまま亀裂の中へ落ちていった。血塗れのその顔に、自嘲しているような表情を浮かべて。
誰も居なくなった空間に手を差し伸べたまま、アズァは暫らく固まっていた。空間を越えて聞こえる群集の悲鳴に混じって、自分を呼ぶ好男の声にアズァが気を取り戻す。すぐに好男達のもとへアズァが駆けつけ、黒髪の鎧を解いて腕時計へと戻った。
「……何かあったか? 」
「アズァ! よかった、怪我は無いみたいだな」
二人同時に口を開き、好男の表情が暗くなる。腕時計の中から辺りを見回すアズァが、刈子殿は……、と訊きかけて口を噤んだ。膝の上で拳を握り、俯いて顔を歪める好男を見て、アズァも眼を伏せる。
沈黙するアズァに、好男がとってつけたような明るい声で尋ねる。
「そ、そうだ。十四季のこと治療したいんだけど、いいよな? 」
空元気にそう言って、好男が腕時計を見詰めた。じっと腕時計を覗き込む好男の輪郭は、ぼやけて空間に滲んでいる。その様子を目に映し、アズァは戸惑ったように顔を伏せる。
「アズァ……? 」
首を傾げて再び尋ねる好男。その身体を、真紅の炎が照らす。
「あら、都合よく一箇所に固まってくれてるじゃない。しかも皆疲労困憊って感じだし、もしかして、お手柄独り占めかしら? ふふふっ」
真赤に塗った唇の端を上げて、赤いドレスの女が意地悪く笑っている。その両手に燃える炎が、ピンヒールが地面を刻む音とともに、じりじりと好男達に近付く。死んだように横たわっていた十四季の目が鋭く光り、一部だけ元に戻った手がぴくりと動いた。
炎のせいで上昇する気温の中、視界の端に映る紅の靄に気付いて好男が辺りに眼を走らせる。魅首に殴られた腹をさすりながら、少年が好男達の方へ走ってきている。
最悪の事態が起こることを察した好男が、息を呑みながら腕時計に眼を落とした。
「な、なぁ、アズァ。治療しても構わないよな? そりゃ、ちょっとオレとアズァの身体が溶けて消えちゃうけどさ――」
迫ってくる二人の敵に眼を走らせる好男。その足元で気絶している魅首の茶色い髪が、少年の能力によってゆらゆらと動いている。頬を伝った冷や汗が左手の甲に滴り落ちて、腕時計の中のアズァが顔を上げた。
「……来る――――! 」
「え、何が」
好男が全てを言う前に、腕時計から出た黒髪が三人を包んでその場から横に飛んだ。そのほんの一瞬後、好男達が居た空間を白い光の刃が貫き、新たな空間の亀裂を生み出した。
砂嵐のように耳障りな音を立てて広がっていく空間の亀裂に、好男が思わず目を見開いて固まっている。
強くなった白光に、相対的に霞んだ炎の揺れる手を眩しそうに翳して、赤いドレスの女が舌打ちした。女が見詰める光源に、バンダナの少年も緊張した面持ちを向けている。
ぽかんと口を開けている好男を黒髪が覆い、漆黒の鎧が黒髪の剣を構えた。
その音が聞こえたのか、光の中の何かが僅かに動く。白い光を発する瞳を好男達に向けたそれは、レストランの最上階で闘った少女と同じ顔をしていた。ただ、全身が眩く輝いている以外は。
剣を構えて警戒しながらも、魅首と十四季を黒髪の中に匿う漆黒の鎧を見て、光の中の少女が唇を動かした。
「アズァ=ルメイデン……。どこまでもしぶとい奴だ」
薄紅色の唇から発せられた声は低く、少女自身の声でないことは明らかだった。冷酷そうな声に少しの苛立ちを滲ませた少女の中の何かが、ゆっくりと眼下に立つ面々を眺める。足元で広がり続ける空間の亀裂に眼を留め、忌々しそうに口元をゆがめた。
「ひどい有様だな――故郷だけでなく、異世界まで崩壊しかねん勢いだ。果たして誰がここまで事態を悪化させたのか……貴様も気になるだろう? 」
白く光る少女の口から出た嫌味な言葉に、好男を包む黒髪の鎧がざわめき軋んだ。少しずつ後退りする鎧に向けて、少女の右手の指先から光の筋が伸びていく。光の太刀が黒髪の鎧を焼き、中にいる好男が思わず生唾を飲み込んだ。しかし鎧自体は微動だにせず、静かに剣を構えたままだ。
頬に冷や汗を伝わせ、好男が左手首の腕時計に視線を向ける。
「お、おい、アズァ……。とても勝てそうにない雰囲気なんだけど……」
左手の指先からもそれぞれ五本の光剣を創り出す少女を、眩しそうに見詰める好男。全身から冷たい白光を発している少女に、腕時計の中のアズァも眉間に皺を寄せた。
「――あの少女の身体、既に限界にまで達している。魅首殿が目覚めるまで時間を稼げれば、あるいは……」
「時間稼ぎ? 逃げ回ればいいってことだな。……それなら一寸気が楽だぜ」
光る涙をとめどなく流す少女を見上げ、好男が無理に笑って握った拳を開いた。少し間を置き、限界ってどういうことだ? と、好男がアズァに尋ねる。
「能力を使ったことによる身体の変容だ。そなたの身体が闇へ還りかけているように、あの少女の身体も光の粒子となって霧散しかけている」
アズァの応えに耳を傾けながら、好男が己の右手を眺める。黒髪の鎧の隙間から、滲んだ輪郭の一部が染み出でて、暗い空間に次々と消えていく。
「……あの子を助ける方法は無いのか? 」
「ウェジュがあの少女に見切りをつけて、新たな『契約者』と契約を結ぶなら、あの少女は解放される。けれど――この空間にそのような者は居ない。彼女を助けることは不可能だ」
問いかけへの答えに、好男が項垂れた。逃げることに専念しなければ生き残れないぞ、とアズァが忠告している。そのすぐ近くで、赤いドレスを着た女が少女を見上げて、耳障りな甲高い声を張り上げていた。
「ちょっと、何でアンタがここに来るのよ? お城に篭って、大切な女王サマとやらを護ってるんじゃなかったの? 」
棘のある女の言い回しに、両指先から光剣を出す少女が首を動かした。少女の中に居る何かが、少女の顔を通して冷たい笑みを浮かべている。
「カンツァの『契約者』か。長い間ご苦労だったな」
「ご苦労――――? なによ、まるで全て終わったみたいな言い方じゃない。アンタの目的は、アンタの故郷を守ることでしょ? 目の前で崩壊が進んでるのに、寝ぼけたこと言ってるんじゃないわよ」
毒を吐く女を、その遥か上空に居る少女が虚ろな眼で眺める。涙の伝う頬が持ち上がり、少女の中から低い忍び笑いが聞こえた。何が起こっているのか解らずに憤然とするドレスの女に向けて、少女の中の何かが口を開く。
「……全て終わった、か……。まさにその通りだ」
円状の後光を背負いながら、少女がゆっくりと両腕を広げた。指先から伸びる光剣が不安定な空間を切り裂き、向こう側にある図書館の屋根を抉る。空間の亀裂から、冷たい白光がアスファルトに爪あとを残す様子が見えた。それを見て憤った好男が抗議の声を出す寸前に、兜の隙間を黒髪が覆った。
遠くからやっと駆けつけてきたスォンが、少女の中に居る存在に対して疑惑の眼を向ける。
「まさか、故郷は消えてしまったのか? 君はそれを黙って見ていたと? 」
長距離を走って息を切らし座り込むスォンを、光の中に浮かぶ少女が見下ろす。細い首が動き、少女は頷いた。
何故――、と、顔を顰めてスォンが呟く。それを見た少女の口から、低い声が諭すように語り掛けた。
「悲しむことは無い。天も地も、そこに住まう民も、全てが始まりの許へと還っただけだ。再び生まれ出づるときは別のものとなろうとも、永遠なる”世界”の中の一要素としてその存在が消えることは無い――」
少女の口から出た言葉に、スォンが目を見開き、後退りした。首を傾げるバンダナの少年の横では、影のような男が同じように虚ろな目を円くしている。ただ赤いドレスの女だけが、鬱陶しそうに真紅の爪を眺めていた。
「はぁ……、だから何? アンタ達の故郷がどうなろうが、わたしの知ったことじゃ無いわよ。わたしはただ、好きなだけ暴れまわれれば」
減らず口を叩く女が、影のような男に横へ押しやられて言葉を切った。むっとした様子で睨む女を無視して、男が眩しい白光を見上げる。光に透ける身体の中には、蝋燭に灯る火よりも小さな火が燻っていた。本当に……? と、男が乾いた唇を開いて白光に尋ねる。
「故郷が、無くなった……? 父上も、母上も……まさか、クレアも――」
うわ言のように呟く男に、白光を背負う少女は静かに頷いた。
その場に膝をつく男の肩を、赤いドレスの女が乱暴に掴む。
「なに絶望しちゃってるの? 死にたくなかったら、わたしが生きて帰れるように力を供給しなさいよ」
痩せた女の手を、男が無言で振り払った。反抗されて醜く顔を歪める赤いドレスの女に、男が持っていた刃物の切先を向ける。震える刃先を一瞥して、ドレスの女がますます顔を歪めた。ただじゃおかないわよ、と無意味な脅しをかける女に、男は死んだ魚のような目を向けている。
「――もう、たくさんだ。故郷も消えて、家族も居なくなって、それでどうして生きる必要がある? ……無い。無いんだよ、生きる意味が。異世界でおまえなんかと一緒に生きるより、死んだほうがずっとマシだ」
「何を言ってるの――っ」
女が口を開いた瞬間、男の握る刃がきらりと光り、己の胸を貫いた。
血のように赤い炎を胸から吹き出して倒れる男の前で、赤いドレスの女も胸を押さえて膝をつく。痛みに痙攣する女の指の間から、妙に白っぽい血が溢れていた。馬鹿な、と呪詛を吐く赤いドレスの女と倒れて動かなくなった男を、少女は無言で見下ろしている。
凄惨な光景を目の当たりにして、鎧に包まれた好男が思わず一歩後退りした。魅首達を包む黒髪の塊から、十四季の声が聞こえる。
「……あの女、死んだのか」
「え? い、いや――まだ生きてる――」
うろたえる好男の視界には、食い縛った歯の間から血を流しながらも立ち上がる女の姿が映っていた。暫しの沈黙の後、十四季が再び好男に話しかける。
「ここから出してくれ。決着をつけたいんだ」
繭状の黒髪の中から聞こえた言葉に、好男は振り返って十四季を見た。隙間から覗く、爛々と光る赤い瞳に見詰められ、好男は溜息をつくと腕時計に目配せした。文字盤に映るアズァが頷き、十四季を包んでいた黒髪が腕時計の中へ戻っていく。
濁った雫を滴らせて、よろめきながら歩こうとする十四季の腕を、漆黒の鎧が掴んだ。
「――? 」
眉を顰めて振り返る十四季の額に、もう指の輪郭もわからなくなった好男の手が翳される。
「持ってけよ、オレの命。半分だけだけどな」
笑って肩を竦める漆黒の鎧から、黒い筋が幾つも出て、空間に消えていった。その様子を生真面目な顔で見ていた十四季の手が、固く拳に結ばれる。ありがとう、と小さく呟いて、十四季は漆黒の鎧に背を向けた。
さっきよりは確かな足取りでドレスの女のところへ向かう十四季を見送り、好男が鎧の中で首を回す。
「さぁーて、命がけの鬼ごっこを始めるか」
「――いいのか」
おどけた感じで笑い混じりに戯言をぬかす好男に、アズァが覇気の無い声で尋ねた。文字盤の中で申し訳無さそうに顔を俯けるアズァに向けて、好男がとびきりの笑顔で軽く頷く。
「大丈夫だいじょうぶ。これまでだって、なんだかんだ言って修羅場を潜り抜けてきただろ? オレとアズァなら、魅首ちゃんが目覚めるまで逃げ回るくらい余裕だって」
へらへらと笑ってみせる好男。そういう意味では無く……、と呟きかけるアズァを、急に真面目になった好男の声が遮った。
「死ぬのは怖いさ。でも、オレの大切な人達が傷つくのは、もっと怖い。あの光を操る奴がオレ達の街を、世界を、自棄になって壊そうとしてるなら……オレは命がけで阻止するぜ。誰かを守るってのは、そういうこと――だろ? 」
無限に広がる白い光の中心に浮かぶ少女が、話を聞いていたように身動ぎした。その指先から伸びる光の剣が、空間の壁を、そしてその向こうに広がる世界を破壊していく。空間の亀裂の向こうに見える世界は、最早、魅首達が居た世界だけではなかった。見たこともない不可思議な生物が営む憩いの場、息を呑むほど美しい景色、それらを冷たい光の剣が乱暴に引っ掻き回す。
眼下で壊れていく世界など気にも留めず、残酷な光が空間を切り裂いていく。剣をふるうごとに、後光を背負う少女の向こうから、真っ暗な空間の亀裂が近付いてきた。不気味な虚空に、好男が目を凝らす。
「なんだ――? アズァ、もしかしてあの暗い『向こう側』が、アズァ達の故郷なのか? 」
目の前を横切る光剣に触れないよう急停止する好男に、腕時計の中から声が聞こえる。
「――ああ、その通りだ。全てが滅びた虚無の世界……。”世界”と”世界”の間にあるこの僅かな隙間が無くなってしまえば、あの虚無が他の”世界”さえも蝕み始めるだろうな」
「全てが滅びた……? でも今、あの中に白いものがちらっと見えたんだけど――うわっ」
好男が首を傾げた刹那、暴れ狂う白光の剣が黒髪の鎧の切り裂いた。切り離された右肩と、抱えていた魅首が真っ暗な亀裂に吸い込まれるように落下していく。闇色の輪郭が溶け出す右肩を一瞬押さえ、好男があわてて左手を伸ばした。その指先から黒髪が綱のように伸びていくが、魅首の落ちる速さの方がすこし勝っていた。
桃色と緑色に変色した魅首の髪が虚無の世界に吸い込まれようとしたまさにそのとき、何も無い空間から人影が現れて魅首を受け止めた。
驚いて目を円くする好男の前で、魅首を抱える人影が顔を上げる。二つ結びの長い黒髪が揺れ、清楚そうな純白のスカートの下で、魅首の体重を支える足が細かく震えている。その上気した頬を汗と涙が伝い、鼻の上で丸い眼鏡が白い光を反射する。
「か、刈子……ちゃん……? 」
ぽかんと口を開けて放たれた好男の問いに、青い目の少女は満面の笑みを浮かべてみせた。
息を弾ませ魅首を抱えなおす刈子の前で、好男が左手で頭を抱えて裏返った声を出して疑問を連発している。
「え、何で――というかその服――さっきまで着てたのと全然違う……? 髪も伸びてるし――ブーツじゃなくてサンダルみたいなもの履いてる――? ていうより身長伸びてない? え? どういうこと? 本当に刈子ちゃんなのか? 」
「はい、刈子です。今日よりずっと後の、未来から引っ張ってきた、香椎 刈子です」
混乱している好男に、すっかり成長した刈子がくすくす笑って答えた。それを聞いてもまだ理解できない好男が呆然とその場に突っ立っている。腕時計の中から、半信半疑なアズァの声が聞こえた。
「時間を越えて能力が発動したのか……。いや、でもそんなこと可能なのか……」
「うーん、僕も何が起こったかよくわからなかったんだけど――」
腕時計の中で不可思議な現象に頭を悩ませているアズァに、眼鏡の中からテンキィが口を挟む。身振り手振りを交え、テンキィが己の身に起こったことを説明し始めた。魅首と一緒に捕まえた右手を刈子から受け取り、切れた肩を直しながら説明を流し聞きする好男。隙間の間から、また少し輪郭が溶け出て消えた。
「――で、僕が思うにこれは、刈子の時間が吹き飛んだんじゃないかと。回避不可能な危機的状況にあった「さっき」から、刈子が危機を回避して安全に暮らしている「未来」までの全ての時間が無かったことになって、足りなくなった分の刈子の存在が未来から引っ張られてきた、って感じかなぁ……」
段々と自信を失くして小声になっていくテンキィに、いくら変容が進んだとしてもそんなこと起こり得るはずが――と、アズァが困惑している。そっかそれで着てる服が違うんだ、と勝手に納得する好男の腕を刈子が引っ張った。
首を傾げる好男に、刈子が心配そうな顔で魅首を見遣る。
「好男さん、魅首さんの様子が――」
言われて好男も魅首を見ると、まつげに縁取られた瞼が薄らと開いていた。乱闘で欠けた爪が地面を掻き、魅首の上半身が起き上がる。
ドレスの女と闘っている十四季が奏でる勇壮な行進曲に合わせるように、立ち上がった魅首の両足が透明な地面を踏締めた。滅茶苦茶に振り回される光剣が魅首に迫り、弾かれる。まるで見えない壁が魅首を覆っているようだった。
「魅首ちゃん――――」
恐る恐る発せられた好男の声に反応して、魅首の頭が持ち上がる。桃色と緑色の前髪の下に見えた茶色の瞳から、無色透明の涙が一筋、流れた。