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第五章 住処を確保せよ

「スィフィは黙ってろよ。これはあたしと大家の問題だ」


 と、不機嫌絶頂で言ったあたしは、無言で背後に居る好男にハンドタオルを要求した。別に再びぐしょ濡れになった身体を拭こうってんじゃない。あたしも好男も、手を拭かないとスィフィが中に入ってる紙に触れないからだ。その意図を察した好男が、バツが悪そうに後頭部を掻きつつタオルを取りに行く。


「なになに? つまりなんか問題があったってこと? 教えて魅首っ」


 それが自分にも関係があるなど露ほども思わず、スィフィが紙の中で飛び跳ねて好奇心剥き出しの声で言った。おまえに言っても何の解決にもならねーよ、と一人口の中で声を出さずに毒づくと、機嫌を取るためか好男がへこへこした姿勢でハンドタオルとバスタオルを各二枚ずつ持ってきた。

 両手に恭しく掲げて運んでいる様子は、まるで何処ぞの宗教団体の儀式みたいだ。そのあまりの仰々しさにあたしは怒りというか呆れの気持ちが胸に湧いた。


「いやぁ、ほんっとゴメン! いつもはあんなんじゃなくてさ、極々フツーの部屋なんだよ。今日はたま

たま雨が強かったからこの間直した屋根の穴から雨漏りしてたけど、夕立くらいなら平気なんだって」


 白々しく弁解を述べつつタオルを手渡す好男の軽そうな茶色い目を効果音が出るほど睨み付け、糊の効いたおろしたての純白タオルをひったくるあたし。

 そーかい屋根の穴は修理しといたのね。でもそれ以前に穴が開きすぎってことには気付かなかったのかね? 大工の親方を呼んで修理してもらおうとは思わなかったのかね? いやいやそれより外側から見て「ああ基礎が傾いてるなぁ・・こりゃ匠にリフォームしてもらわないと★」とか思って●フォーア●ターに応募の電話をかけなかったのかね?

  テメェの部屋を完璧なる男のサンクチュアリにするより、電話を一本掛けるほうがよっぽど労力使わないと思いますけど。


 ピカピカに磨き上げられた硝子ケースの中にお行儀良く陳列されている、アンティークの嗅ぎタバコ入れを恨めしそうに見ながら、あたしはびしょびしょになって冷たくかじかんだ両手を拭いた。水気をしっかり拭き取ると、触りたくないけどしょうがなくスィフィを持ち上げる。


 流石のザ・空気読めない野郎スィフィも、さっきから垂れ流しになっている好男の言い訳を聞いて事態を察してきたようだ。能天気そうな顔に不安の色が過ぎり、恐る恐る上目遣いであたしを見上げている。


「つ……つまり、今二階は雨漏りジャングルってこと? 」


 どういうセンスを持ってたらそういう比喩が飛び出すのかはわからないが、とりあえずコイツにつっこむのは無意味だから止めておき、頷いた。すると今まで重そうな雰囲気を背負っていたスィフィがいきなり、ハジケた様子でぷんすか怒り出した。


「ひどいよっヨッシィ! 連絡くれた時は『極上のスウィートルームさ……ロスの高級ホテルにも引けをとらないよ』って言ってたじゃんかぁー」


 しゃがんで靴の泥を落としていた好男が、サギ被害にあった老婆のような声で糾弾するスィフィから顔を逸らして遠くを見詰める。なるほどこの男、仲間まで騙してたってことか。初対面から最低ランクだった好男の高感度が、今ゼロのラインを遥かに超えてマイナスの域へ突入していく。三次関数で言うなら「xが全ての値において単調に減少」って感じだなこりゃ。


 スィフィがロサンゼルスを知っていることは軽くスルーして、脳内で三次関数のグラフの描き方を思い出す。ワックスをかけたばかりのフローリングを見詰めるあたしの顔に、いいことを思いついたと微笑が広がる。


「……最高級とまではいかないけど、ちゃんと用意してくれてるよな」


「へ? 」


「え? 」


「……」


 スィフィと好男が間抜けな声を出してそれぞれ左と右に首を傾げる。アズァが黒い時計の中で何かを悟ったらしく、無言で漆黒の双眸を細くする。不良債権者から借金を取り立てに来た慇懃無礼な回収人が浮かべるような笑顔で好男を一瞥すると、あたしはスィフィをつまみ上げて部屋の中を一望させた。ふ、と時計の中からアズァの笑う声が聞こえ、好男は阿呆みたいにぽかんと口を開けている。


 腰に手を当てできる限りふんぞり返ると、あたしは滑舌絶好調高らかに宣言した。


「上の部屋が住める状態になるまで、ここがあたしの寝るところだ! 雨漏り直して畳張り替えてついでに壁紙新しくするまでは、梃子てこでも動かねー!覚悟しとけっ」


 鼻息荒く漢気溢れる宣言をしたあたしに向かって、スィフィがおおー、ぱちぱちと賞賛を送る。どうやら今日初めてまともに意見があったみたいだ。


 今の宣言にさぞかし驚き狼狽するだろうと期待して、あたしは玄関で靴を磨いていた好男に眼を向ける。が、残念ながら好男にはさっきの脅しは全然効いていないみたいだ。――いや――むしろこれは――。


「じゃ、これからは魅首ちゃんのモーニングコールを聞いて一日が始まるのか……うん、悪くないな。いや良い。むしろ凄く良い」


 靴墨を乗せた豚毛のブラシ片手に好男は鼻の下を伸ばしている。喜んでる。コイツ変な想像して喜んでるよ絶対。

 ふふふ、という好男の気味の悪い笑いに、体のあちこちで鳥肌が出現した。駄目だ、この変態ナルシストにはあたしの脅しが通じない。このままでは壁紙を張り替えるのはおろか屋根の穴をガムテープで塞ぐことさえも行われないだろう。というか、自分の身が危ない。


 本能的に迫り来る危機を察知したあたしは、じりじりと後ずさりしながら後方を確認して、“寝室”と書かれた鍵付きの部屋に一目散に走り、その中に引き篭もって鍵をかけた。


「あ、魅首ちゃん! 」


 少々焦りを帯びた好男の声が聞こえ、次いでぱたぱたとスリッパを履いて走る音が近付いてきた。軽く、けれども拳で扉を叩く音がする。


「困るって! それじゃオレが寝るとこ無くなるじゃないか」


「知るか。ソファにでも寝とけ」


「この家はスタイリッシュをコンセプトにコーディネートしているからソファを置いてないんだって」


「じゃあそこらへんのタオルを掻き集めてそれにくるまってろ。タオルなら沢山あるんだから」


「そんな! いくら今が夏でも寝冷えしちゃうじゃないか。肺炎にでもなったらどうする? 」


 泣き落としを使う好男に釣れない態度で答えていると、閉めたはずの鍵が半分ほどまで開いていた。好男が意味不明な病名を並べ立てて同情を煽ってる間にも、サムターンがあたしの目の前でゆっくりと回っていく。数秒凝視した後、我に返るとあたしは鍵をまたしっかりと閉めた。外で好男の小さい舌打ちが聞こえる。


「あと少しだったのに……」


「マイナスドライバーでこじ開けようとしてるなっ? ハッ、無駄無駄! ここでずっと押さえてるからな」


 策を見破り勝ち誇って言うあたしの耳に、好男の挑戦的な言葉が厚めのドアを通して入ってくる。


「果たして、一晩中起きていられるかな? 今日は半日ずっと電車に乗って長旅だったし、雨に打たれて体力も消耗してる。……百歩譲って、若さの力で徹夜できたとしても、それを毎日続けられるかな? こっちは隙さえあれば昼だろうと夜だろうとその鍵をこじ開けることができるんだよ」


「く……! 」


 姑息な、と心の中で呟いて手の中で滑って回りそうになる鍵を必死に押さえつけるあたしの横で、何もわかってないスィフィが暢気に、降参すれば? などとほざいている。向こう側の好男が遂に本腰で鍵を開けようと力を入れ、あと三十度ほどで鍵が開きそうになったその時。いてて・・・と好男の半泣きの声が聞こえた。


「? 」


 不審に思って扉に右耳を当て、しかし両手は鍵をしっかり固定したまま、耳を澄ますと背筋も凍るような冷たい細い声があたしに話しかけた。


「好男はわたしが見張っておこう。怪しい素振りを見せたらこうして手首を絞めて懲らしめておく故、魅首殿は御ゆるりと休みたまえ」


「アズァっ! オレの味方じゃないのかよ? 」


 ドアの向こうで好男の涙声が聞こえ、一瞬で全身凍結しそうな声が冷然と答える。


「か弱い娘に実力行使とは不埒千万。元を辿ればこの事態はそなたの管理不行き届きが引き起こしたもの、そなたが責任を負うのは至極当然であろう。それに魅首殿が病に罹ったら如何する? そなたと違い、魅首殿は完全に人の世から隔絶されているというのに」


「アズァ……ありがとう。怖い奴だと思ってたけど、見直したよ」


 つまんなーい、とエンドレスで言い続けるスィフィの声と痛みに呻く好男の声をBGMに、あたしはドア越しからアズァに礼を言った。こんなイカレた家の中で唯一良識のあるアズァは礼には及ばない、と静かに、けれど硝子を注射針で引っかいたような声で応える。


「じゃ、そういうことだ。いい夜を、大家さん」


「……ったく……で……じゃないんだから……」


 あたしの皮肉に、好男は良く聞き取れなかったが悪態らしきものを吐いて、ドアの前から去っていった。危機が去ったことで安堵したあたしはスィフィの置いてあるナイトテーブルを通り過ぎ、ふかふか過ぎる好男のベッドに倒れこんだ。勿論服も髪もさっきの雨漏りでぐしょ濡れだから、ウォームグレーのシーツに大きな染みが沢山ついた。それを見ていい気味だ、もっと付けてしまえ、とごろごろ転がるあたしにスィフィが声を掛ける。


「魅首ぅ、流石にその服で寝るのはマズイんじゃない? たしか交差点でこけたり、ごみ収集所に直に座ったりした汚い服だもんね」


 そういえば、雨と土埃に紛れて微かに生ゴミの匂いがしなくも無い。スカートの端を摘んで謎の茶色い染みが出来ているのを見つけたあたしは、仕方ないかとベッドから起き上がる。灰色と黒の市松模様に塗られた好男の箪笥を引っ掻き回し、夏用の寝巻き一式を取り出すとあたしはセーラー服を脱いだ。

……いや、正確には、脱ごうとした。




「う、ぎぃぁぁぁあああああ――――っ! 」


 好男が観念して淹れたてのハーブティで心を静めようとしていたとき、厚めのドアを通しても明瞭に聞き取れる音量の悲鳴が家中に響いた。普通ならばアパートにも、敷地ぎりぎりまで家を建てたお隣さんにも聞こえていることだろう。しかしその声が一家で楽しく団欒しているお隣さんに聞こえることはなかった。彼女、魅首の声は好男とアズァにしか聞こえないのだ。


 突然の異様な奇声に驚き、好男は優雅に飲んでいたハーブティを無様にも口から吹き溢した。厚めのドアの向こうからは、声にならない呻きが続いている。次いで何か硬いもの、恐らくは好男の自慢の特注箪笥であろう――を拳で思い切り殴る音が聞こえた。手の痛みで何かを紛らわそうとしているのだろう。

 好男は平常心を取り戻し、懐から四つ角が全て九十度にプレスされたハンカチを取り出すと口元を拭った。


「今の悲鳴は……」


 何も映っていなかった黒い文字盤の中にアズァが現れ、黒い無感情な眼で寝室を一瞥する。好男は白い台拭きで机を拭きつつ答えた。


「ああ。きっと物凄く痛かっただろうね。完全に皮膚と融合した服を無理矢理剥がそうとするなんて、生皮を剥ぐのに等しい」


「……」


 文字盤の中、無言で顔を少し俯けるアズァに、好男がおどけた調子で尋ねる。


「なぁ、何でさっきオレ達が魅首ちゃんのアレを治してあげられること、言わなかったんだ? あの子のことずっと庇ってたけど、それはまた別問題ってか? 」


 眼を合わせて会話するため時計に顔を近づける好男の前で、アズァが感情を出して嫌そうに顔を顰めた。


 にやにや笑う好男を一瞥すると、アズァは苦虫を噛み潰したような顔で永久凍土を思わせる声を発する。


「何故って……魅首殿を治すためには患部に触れなくてはならないから……」


 うんうん、と好男が頷いた。眼を輝かせている好男を見たアズァは物憂げな溜息を一つ吐き、続けた。


「そんなことになったら、そなたが魅首殿に何をするか分からないだろう」


 アズァが尤もな事を言い、好男は残念そうにちぇ、と呟いた。




「ぐぉぁあーっ……好男……あの大家……! いつか絶対ぶちのめしてやるっ……! 」


 腕と胸の痛みにのた打ち回りながらも呪詛の言葉を吐きまくるあたしに、スィフィはまるで他人事のように爽やか、且つ楽しそうな声で遅すぎる忠告を垂れていた。


「あー、言うの忘れてたけどぉ、それ治してもらうまでは着替えられないんだよねぃー。それに今のは、魅首が勝手にやったことだしぃヨッシィは関係ないよねぃ」


「違うっ! おまえが『その服で寝るのはマズイんじゃない? 』なんて言ったからだ! ……ていうよりも、スィフィ! おまえ、こうなる事を知ってて着替えろって言ったんだな? どうなるかちゃんと知ってるじゃねーか! 」


「えーうーんまぁ人間ど忘れって大切だよねぃ」


「貴様の何処が人間なんだ! 文句あったら反論してみろ二次元の奇妙な生命体っ! 」


 負け犬の遠吠えを精いっぱい上げるが、スィフィはハイになって広告の中を笑い転げて聞く耳持たない。戦っても無駄だ、と感じたあたしは血が滲むセーラー服をきちんと着直すとベッドに横になった。


「くそぅ……好男め……す。絶対伸す」


 やり場の無い怒りをとりあえず今一番、いやスィフィを除いて一番、大嫌いな奴に向けた呪詛に乗せると、あたしは疲れと痛みで情報の許容量を超えた脳みそで安らかな眠りへと落ちていった。


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