Another World the 7th chapter
透明な暗黒の世界を、衝撃波が貫いていく。
殆ど視認できないそれが、素早く逃げた霞恋の脇を掠めていった。
「くっ……、ガキのくせになかなかやるじゃない」
軋むわき腹を押さえ、霞恋が減らず口を叩く。まぁそれもあんたの力じゃ無いんだけどね、と嫌味を付け加えた。
安い挑発をする霞恋に、十四季が鋭い視線を向けている。休み無く律動を刻む右足から、緊迫したスネアドラムとハットシンバルの音が響いている。
――次の一撃は大きいな……。
背後から霞恋と十四季の闘いを見ていたカンツァが、声に出さず呟いた。
周りにそよぐ物が何も無いから、衝撃波の軌道が読みにくい。この空間は霞恋にとって不利だ。既に二発の攻撃が霞恋を掠めている。やはり一人で闘うのは危険だ――。
少しずつ律動を早める十四季を警戒しつつ、カンツァは霞恋に近付いた。
「霞恋、スォンかレェンが来るまで逃げに徹した方がいい。この少年には一度負けてい――」
「うるさいわね! アンタは怪我しないように下がってなさいよ」
忠告しようとするカンツァを、霞恋が烈火の如き態度で一喝した。あまりの剣幕に気圧されて、カンツァはたじたじと後退りする。
「……す、すまない」
「最初から言わなきゃいいのよ! 気が散るから話しかけないで。アンタは黙ってわたしに力を供給してればいいのよ」
毒の篭った言葉をぶつけれられ、カンツァが唇を噛んだ。……一般人に怯えてどうする。これでも一応は騎士団の一員だというのに――。自分を叱咤激励しながら、カンツァは霞恋に言い返せない己を恥じた。どこで間違ったのだろう。こんなはずでは無かったのに……。
独り落ち込むカンツァの前では、両者の攻撃準備が整って一触即発状態になっている。
巨大な炎を揺らす霞恋と、右手を押さえる十四季が互いに睨み合う。
霞恋の足が僅かに動き、十四季が黒く染まった右手を目にも留まらぬ速さで翳した。負けを覚悟して目を瞑るカンツァの鼻を、甲殻類の臭いが擽る。
「――? 」
鼻を押さえて目を開けると、辺りは紅色の煙に包まれていた。――あの少年がこれを撒いたのか……。
ざらざらする蟹の殻粉を指で触るカンツァ。蟹殻の粉でできた霧が少し晴れ、カンツァはその目を瞠った。
今にも互いに攻撃をぶつけようとしている二人、霞恋と十四季が、まるで写真のように先程の姿のまま固まっている。いや、先刻そのままというわけでは無さそうだ。二人の服や肌に付着した紅色の粉に、カンツァが眼を窄めた。
この能力は紅太という少年のものに違いない。だが何故、味方である霞恋まで拘束する必要があるのか。
まさか寝返ったか。そう危ぶむカンツァの前、薄紅色の煙の中から、紅太が姿を現した。その頭には、昨日は着けていなかった血染めのバンダナが。
「ちょっと何してんのよ! わたしは味方でしょう? 早く解放しなさいよ! 」
十四季と霞恋の間に立つ紅太に、甲高い声が命令した。霞恋の身体は、無理な体勢のまま蟹の殻粉に固められている。
綺麗に化粧した顔を醜く歪めて怒鳴っても、紅太は全く動じていないようだ。澄ました顔で霞恋を一瞥すると、何も返さずそのまま十四季へ眼を向ける。
「君に言われたこと、よく考えたっす。どうしてあの時、君を助けたのか――。きっと知りたかったんだ。ボクと君、どっちが『強い』のか。……ボクは、もっと強くなりたい。今度は一人で君を倒してみせる。これがボクの決めた道っす」
真直ぐに十四季の眼を見て、紅太が言い放つ。紅太の言葉に、十四季が一瞬顔を顰めた。その顔は、既に半分以上が黒い血管に覆われている。左目だけでなく、右目までも赤い光が宿り始めていた。
微かに舌打ちする音が聞こえ、十四季が押し殺した声で呟く。
「……運命の足音が近付いている――。残された時間は、もうほんの僅かしか無いのか」
赤い眼光が紅太を見据え、十四季が口を開いた。
「確かに、おまえの信じる道を進めと言った。しかし――俺はおまえの親でもなければ教師でもない。修行紛いの茶番に付き合うつもりなど、無い」
「そうよ! この武宮ってガキはわたしの獲物なの。腰抜けのあんたは、おしゃぶりでも咥えて黙って見てなさい」
二人掛かりで否定された紅太は、顔色一つ変えずに辺りを漂う蟹殻を動かしている。どうも奇妙だ。あの少年は、こんなに打たれ強かっただろうか。
落ち着き払っている紅太に、カンツァが懐疑の眼を向ける。
「……ボクは茶番をする気なんて無いっす。正真正銘、正々堂々、一騎打ちがしたいだけっす」
迷惑な奴だ……、と呟く十四季を無視して、紅太が今度は霞恋に眼を向ける。歯をむき出して怒り心頭の霞恋に、紅太は妙に冷めた眼で遠くを指した。
「あっちで闘ってる人、負けそうっすよ。お姉さんは、ボクなんかよりずっと強いんでしたよね? だったらここで子ども一人を相手するより、あっちの大人を倒した方が、お手柄なんじゃないですか」
進言する紅太に、霞恋は鬼のような形相を和らげた。何を思っているのか、裏のありそうな腹黒い笑みを浮かべている。
「ふん……わかったわよ。わたしがあいつらを倒すまで、アンタはそこのガキと遊んでていいわ。今度は逃がすんじゃないわよ! 」
釘を刺す霞恋の腕から、蟹の殻粉が離れていった。
とりあえずこの場は収まったようだ。ほっと胸を撫で下ろしつつも、カンツァは浮かない気持ちだった。
任務中に仲間割れだなんて、騎士団の面々に合わせる顔が無い。今回の損害のことを、団長にどう申し開きすればいいのか……。
頭を抱えるカンツァを引っ張り、霞恋がレェン達の方へ走っていく。
「何ぼーっとしてるのよ! ちゃんと眼上げなさい! 」
霞恋に怒鳴られ、カンツァは眼を上げた。紅太の言ったとおり、レェンは地面に倒れていた。しかもその上には、異世界の少女が馬乗りになっている。何故副団長でもなくその『契約者』の男でもなく、ただの少女がレェンを組み伏せているのか。
思わず我が眼を疑うカンツァを置いて、霞恋が刈子とスィフィを痛めつけている。
「――ほら。こっちの変な奴は気絶させたから。この子を見張ってなさいよ。丁度いいハンデになるわ」
倒れるスィフィをヒールの先で小突き、霞恋が刈子をカンツァの腕の中に放り込んだ。霞恋如きに殴られて気絶するはずが無いのだが――。血塗れでぐったりと横たわるスィフィを不思議そうに見つめ、カンツァは携帯している刃物を取り出した。
少女の白い首筋に冷たく光る刃先を当てる。小型の刃物から、少女の細かな震えが伝わってきた。
人質を取るようなこと、したくはないのだが……。顔を曇らせるカンツァに、スィフィの頭を踏んで押さえておくように霞恋が命令する。
「彼は既に気絶している。仮に気絶から回復したとしても、起き上がるより早く拘束するぐらいの技術は俺も持っている。そこまでする必要は無いだろう」
「馬鹿、そんなんじゃ甘いのよ! 」
真っ当な事を言ったつもりだったが、何故か霞恋は声を荒げた。無理矢理スィフィを引き摺り、カンツァの足元に投げる。さぁ踏みつけなさい、と命令され、カンツァがうろたえる。
「人質を乱暴に扱ったら、反感を買うだけだ」
「それでいいのよ。悔しそうな顔してるあいつらを蹂躙する、サイコーじゃない。さぁ、言った通りにしとくのよ! 」
言うこと聞かなかったらどうなるか分かるわね……、と、霞恋の細い指がカンツァの顎を掴んだ。狂気すら感じる霞恋の瞳に、カンツァが生唾を飲み込む。仕方なくスィフィの頭に足を乗せると、霞恋が満足そうに笑った。
――また、言われるがままになってしまった……。
暗い眼を伏せるカンツァに背を向け、霞恋は手に炎を創り出している。
身体から力が吸い取られていくのを感じながら、カンツァは覇気を失くした眼で霞恋の背中を見つめた。その心の中に、鬱々とした思いを抱え込んで。