第四章 最悪の管理人現る
少々雨足が強くなってきた街の中を、あたしは感熱紙に印刷された地図を頼りに雨水を滴らせ歩いていた。全身濡れていくらか胸に広がる気持ちの悪い感触は緩和されたけれど、ふと目線を胸に落とせば、そこにはホラー映画の如き溶けたあたしの身体が存在している。
肘も、胸と同様滲んでいるけれどそれほど不快な感じではなかった。違いがあるとすれば、半袖のため肘は肌丸出しで輪郭がぼやけていることだろうか。服と肌が混ざって溶けている胸は見た目におぞましい。
「おーい、まだなのぉ? おいらもう眠くなってきちゃったぁ」
一々癪に障るスィフィの偉そうな声が聞こえ、続いてふわぁぁあ、と身体中から気の抜けるような大きな欠伸が聞こえた。滲んだ広告の中で緑とピンクの髪を弄びながら偉そうに寝そべっているスィフィの姿があたしの頭に浮かび、思わずむかっときたあたしは腹いせに道路に唾を吐いた。
「うっせーよ! 」
「言葉遣いが荒いねぃー。うら若き乙女がそんなことでいいのか、いやはや世も末よのぅ……」
急に爺さんじみた口調になりぶちぶちと説教を始めたスィフィを出来るだけ無視して、あたしは茶色く変色し始めている感熱紙の線を指で辿り目的のボロアパートまであとどれ位か確かめた。うかうかしているといくら感熱紙といえども雨に濡れて使い物にならなくなってしまう。それに肩掛け学生鞄の防水がどこまで持つかもわからないし。
降り注ぐ雨の音にも負けず耳に届くスィフィに適当に相槌を打ちつつ、街灯も疎らになってきた裏街のアパートの前で、あたしは足を止めた。
「……すっげぇボロい」
一応二階建てのボロアパートを見上げ、あたしは感じたことを素直に言葉で表現した。
目の前の建物は雨に打たれ今にもあたし目掛けて倒れこんできそうだった。基礎がイカレてるのはまず間違いなく、道路のほうに全体が前傾している。間取り図と築年数しか見ていなかったあたしは、まさかここまでボロいとは、と間抜けにも口を開けて化粧版の剥がれ掛けたアパートを見上げた。
久留米里町でもこんなショボイ建物見たことがない。それは古い時代に立てられたというよりはむしろ、戦後物不足の真っ只中闇の商売が横行していた頃に、どさくさに紛れて建てたものだった。
鞄が揺れなくなったことに気付いたスィフィが興味津々な声で唖然と立ち尽くすあたしに話しかける。
「もぅ着いたんだねぃ? ねぇねぇ、どんなカンジ? 」
肩掛け学生鞄の中から聞こえる子どものような声に、あたしは口の中に雨が振り込むのも構わず馬鹿面下げて呟いた。
「……寝てる間に死ぬかも。家が倒れて」
「えっ、そうなのぉ? そんなにボロっちぃの? 」
何故こいつが驚くか不明だが、スィフィは素っ頓狂な声を上げて暫し静かになった。
双方が沈黙して、雨粒が地面を叩く音だけが灰色の空間に響く。郵送してもらった鍵を手に持ち、入るか入るまいか悩むあたしの肩を、雨粒ではない誰かの手が叩いた。
「う、うわっ! 」
驚いて振り向きざまに肘鉄を繰り出してしまったあたしに、背の高い男が微笑み掛けていた。鳩尾を摩りつつ、引き攣った笑顔を浮かべてそいつがあたしに話しかける。
「丙盟 魅首さん、だよね? 」
初対面でいきなり背後から肩を叩き、鳩尾に肘鉄されたのに微笑みを取り繕い続ける怪しい男に厳戒態勢を取るあたしは、顎を引いて男を睨みつけた。
「――だったら何だってんだよ」
男はまだ痛む鳩尾を骨ばった手で摩りながら苦笑し、あたしの背後のボロアパートを指差した。振り返ってアパートを見るあたしの肩を気持ち悪い程優しく掴んで自分のほうに顔を向けさせると、自分でこれが一番カッコいいと思ってるらしき笑顔でそいつは自己紹介した。
「初めまして。オレはここの管理人、三高 好男。これからよろしくな」
そう言ってにっこりと笑うそいつの口元は雨の日なのに僅かな光に反射してキラリと白く輝いた。高級そうな香水の匂い漂うそいつは驚くあたしに写真のように動かない笑顔を向けている。少しだけ脱色された髪をワックスで流行りの髪形に固め上げているそいつに、あたしは訝しげに訊いてみた。
「お、おまえ……あたしのことが見えるのか? 」
「うん? 見えるよ、そりゃ。何言ってるのかな」
絶妙に焼けた小麦の肌に笑った皺を寄せ、そいつはあたしの質問を笑い飛ばした。さっきスィフィが言ったことと矛盾する展開に頭を悩ませるあたしの横、肩掛け学生鞄の中からスィフィの明るい声が聞こえてきた。
「その声はヨッシィだねぃー。ってことは、アズァちゃんも一緒かなぁ? 」
学生鞄に視線を移すそいつからスィフィを隠そうと、あたしは慌てて鞄を身体の後ろに回した。空々しい声で弁解するあたしに構わず、そいつはあたしの後ろに首を回して鞄に、いや鞄の中に居るスィフィに親しげに話しかけた。
「きみがスィフィだね。いやぁー、よかったよかった。ずっと待ってたんだよ」
と、百点満点の笑顔で言うと、そいつはあたしに向かって礼を言った。
「スィフィを無事連れて来てくれて、ありがとう。よかったよ、きみとスィフィの相性が良くって」
喋る鞄を目前にしても動じるどころか余裕綽々のそいつの言うことにあたしは首を傾げたが、その意味を理解して愕然とした。
「おまえ……あたしがスィフィと会うこと知ってたのか? 」
「んー、まぁそういう込み入った話はこんな雨の下じゃなくて、暖かい部屋でしようよ」
質問に答えずあたしの肩に手を回して部屋に連れ込もうとするそいつの手を振り払い、あたしは口を尖らせる。びしょ濡れになった髪が反動で揺れ、大粒の雫が散った。
「ちゃんと答えろ! 」
土砂降りに近くなってきた雨の中あたしは目の前の怪しい管理人に叫び、そいつは少し驚いた顔をすると笑顔から一転険しい顔であたしの滲んだ手を掴むと無理矢理軒下に連れ込んだ。
「何するんだよっ」
さっきよりも数倍も強く握られた手から滲んだ手を抜こうとあたしがもがくと、そいつは真剣な表情であたしを見下ろした。その怒ったような眼差しにあたしは気まずい思いで静かにする。
「兎に角濡れた身体を乾かすんだ。いいね? 」
有無を言わせない強い口調でそいつは言い、一階の右端の玄関扉を開けると中に入るように促した。これ以上逆らったら本当に怒られかねないと感じたあたしは、大人しく家の中に入った。
「なぁ、何て呼べばいいんだ? 」
予め客が来ると想定されて暖められたリビングの中、椅子に腰掛バスタオルで濡れた頭を拭きながらあたしは好男に尋ねた。スィフィはヨッシィと呼んでいたけれど、そんな言うのを憚るような恥ずかしいあだ名で呼ぶつもりなんてさらさら無かったからだ。
「……好男。単に好男でいいよ」
あたしが歩いて付けた水の足跡をハンドタオルで拭いつつ好男は答えた。本人が敬称無しでいいと言ったんだから、あたしはそうさせてもらうことにした。
糊の効いた白いテーブルクロスの上では、まるで金箔のように大事そうにスィフィの入った吊り広告が広げられている。その横に置かれた高そうなハーブティーの匂いを幸せそうに嗅ぐスィフィがあたしに甘えた声で言った。
「魅首ぅ、そこのお茶取ってちょっとだけここに垂らしてくれよぉ。そしたらおいらもお茶が飲めるからさぁー」
それくらい我慢しろ、と言葉が喉まで出かけたが、今までの経験上逆らったら何されるか判らないので黙って言われたとおり雨で湿気っている吊り広告の白い場所に一滴だけハーブティーを垂らした。
紙の中のスィフィは緑とピンクの髪を揺らして嬉しそうにお茶の染みに近付き、どっから出したのか透明な薄桃色の耐熱ガラスコップでそこを二、三度、まるで桶の水をコップで汲むような動作をした。見る間にスィフィの持つカップに湯気の立つハーブティーが溢れ、スィフィはこの上なく優雅にお茶を啜った。
またまた超非現実的な光景を目の当たりにしてしまったあたしの頭に、白い乾いたバスタオルが濡れたバスタオルの上から被せられる。
「もうそれは洗うから。こっち使って」
「ん……わかった」
濡れたバスタオルを好男に渡し、あたしは首筋を伝い落ちる冷たい雫を拭き取った。両手に濡れたタオルを持った好男が洗濯機に向かうのを、あたしは呼び止める。
「で? さっきの話は何時再開するんだよ? 」
モノクロタイルの脱衣所でタオルを洗濯機に放り込む好男が振り返り、あぁ思い出したと呟いた。値の張りそうな車の模型が飾られたショーケースの横を通り過ぎ、好男は白いクロスの掛かったテーブルを挟んであたしの向かいに座る。イラついて机を指で叩くあたしに微笑みかけると、自分専用のモノクロカップからお茶を啜った。
「えっと、きみとスィフィが会うことをどうして知っているかって話だったかな」
ワックスで立てた髪の先を弄り、好男は顔を傾けてあたしに笑い掛ける。あたしはぶすっとした顔で頷くと、正面から好男を睨み付けて無言で先を急かした。
洒落たバーの照明のようなライトの下、好男は勿体付けてキザっぽく笑い、雨で濡れて着替えた下ろしたてのシャツの襟を直した。それから色素の薄い茶色の目でこっちを見ると、薄く整った唇から白い歯を覗かせて話し始めた。
「要するに、知ってたっていうか……仕組んでたんだよ、オレが。親に内緒できみが一人で街にやってくるって聞いて、スィフィに連絡したのさ」
好男がタイトなジーンズからケータイを取り出し、それを振ってみせた。傍らで優雅にお茶していたスィフィも目を上げて、あたしにむかってにんまりと歯を剥き出している。
好男の言葉にあたしは今世紀最深な皺を眉間に寄せて、片や文明最先端の利器、片や非現実の最骨頂なる紙切れに住む二次元人間を交互に見た。このイカレヤローがこの世で最も合理的かつ利便性に優れる携帯電話を使いこなすことなど出来うるだろうか? 断言しよう。無い。絶対ない。有り得ない。
信じる気の無い視線を感じたのか、好男はまた白い歯を覗かせて決まり悪そうに微笑すると冗談だよ、とケータイを仕舞った。それから深く背凭れに身体を預けると大分崩れた調子でジーンズの両ポケットに手を突っ込み本当のところを話し始めた。
「流石にケータイは使わなかったけど――もっと特別な方法で連絡を取ったのさ。だってオレもきみと同じだから」
「は? 」
いきなり目の前の軽そうな男と同等扱いされたことに対して、あたしは思い切り迷惑そうな顔をしてしまった。我に返って眼を泳がせるあたしに構わず、好男はまたモノクロカップから一口お茶を飲むと高級そうな時計を着けた左手をあたしのほうへ差し出した。……さっきまで時計なんかしていなかったのに。
それは不思議な時計だった。いや、今まであたしが安っぽいありきたりのデザインの時計しか見たことが無いからかもしれないけど――兎に角、時計の中心が大分左上に寄った変な造りの時計だった。普通だったらその開いている箇所に温度計やら世界の都市に合わせた時計やら付いているのに、その時計には他に何も機能がついていない。西暦や曜日を表す小窓さえも。
奇妙な時計をしげしげと覗き込むあたしの眼に、時計のぽっかり空いた場所が映りこむ。
一瞬、その鏡のような黒い板の上を不審な陰が過ぎった。
「……? 」
朝からイカレたことばかりに遭遇していたあたしは、何となく嫌な予感を感じながらも疲れているんだ、と自分に言い聞かせ目頭をぐっと押さえ、再び文字盤の空いた箇所を見た。
今度は間違いなく、文字盤に何か映っていた。長い髪のシルエットだ。初めはあたし自身の影が映りこんでいるのかと思ったが、あたしの髪は肩に掛かるくらいだし、こんなにうねっていない。
「な、なんだよ? この黒いの」
不気味な影を指してあたしが言うと、好男は時計の中の影を指して言った。
「これがオレの相棒。アズァっていうんだ」
それから手首を少し上げて時計の中の影に好男が話し掛ける。
「ほら、ちゃんと正面向いて挨拶しろよ」
「……もう向いている」
「あ、ゴメン」
背筋がぞっとするほど冷たい声が時計の中から聞こえ、影が僅かに動いた。じっと見詰めていたあたしに好男が肩を竦めて笑い、軽く溜息をつく。
「アズァは全身が黒いから、どっち向いてるのか判り辛いんだ。よく見ればわかるんだけど」
そう言ってあたしと一緒に時計を覗き込む。近寄ってくる頭が接触しないように少し身を引くと、あたしは全身黒尽くめの陰気な影を警戒しつつも眺めた。――暫らく眺めていると目が慣れて、只の影じゃなくて、ちゃんとした顔があることが判明した。だけど髪も服も肌も、――黒目どころか白目さえも真黒だなんて、一瞬で表裏を見分けるほうが無理だろう。
生物の実験で顕微鏡を使って微生物を見るよりも真剣に観察していたかもしれない。やがて影が動いて、少々怒り気味の声であたしに言った。
「何時まで眺めている気だ。無礼だぞ」
開いた口から覗く歯まで黒かった。
「……悪かったよ」
高圧的ながらも気高さを感じる物言いに、あたしは素直に謝った。同じ理解不能な生命体でも、どうやらスィフィとは違って物静かな奴らしい。声は冷たいけど、正直契約するならこっちのほうがよかったなと思うあたしの耳に、氷に塩をかけたような冷たい声が聞こえた。
「わたしの名はアズァ=ルメイデン。そなたの名は? 」
「丙盟 魅首。んでもってこっちは―――」
スィフィを見せようと卓上に干してある紙にあたしは眼を移す。二次元に生きるスィフィが、必死に三次元の世界にある時計を覗き込もうと、ノミかカエルのようにびょんびょん跳ねまくっていた。
「アズァちゃーん! スィフィだよぉー! 」
知人に会って狂喜乱舞しているスィフィの声を聞いて、影が少し動いた。顔を俯けたように見える。スィフィは始めの挨拶を軽く黙殺されたのにも関わらず、マシンガンのように黄色い声を張り上げて自分の存在を精一杯アピールしている。
「久しぶりだねぃーこないだ会ったときからどれくらい経ったかな? あ、そうそうリーリがよろしくって言ってたよ勿論おいらがこの檻の中に入れられる前の話だけどぉー」
「……ああ、久しぶりだな」
影が動いて喋り続けるスィフィに返事をした。さっきよりも数倍冷たさが増してると感じたのは、あたしだけだろうか?
イロハのイの字も知らない新米セールスマンの如く脈絡の無い言葉を捲くし立てるスィフィにうんざりしながら、親切なあたしはまだ湿気る紙の両端を持つ。感動のご対面に一役買って、吊り広告と時計が向き合うようにした。
ここで初めてあたしは広告の裏側を見たけど、スィフィって「こっち」には居ないらしい。ひょっとしたら、無防備な後ろ姿が見えるんじゃないかと期待してたってのに。
アズァと向き合ったスィフィはぴたりと喋るのを止め、静かになった。思うに、黒い影から発せられる、冷めた雰囲気を感じ取ったからだろう。コイツでも空気を読むことはできるみたいだ。
「え、えーとぉ……元気にしてたぁ? 」
痛い沈黙に耐えかねてスィフィが苦笑いしつつ、アズァに声を掛ける。顔を合わせるまではいかにも親友のような態度をとってたのに、こうも下手に出るとは他人ながらに情けない。まぁ、あたしでもこんな陰気そうな奴と面と向かって話すことになったら、似たような状況になるだろうけど。
スィフィのピンクと緑の頭を掻くその手をアズァがちらりと見た。……多分。何しろ紙が影になって時計に覆いかぶさってるせいで、何処が眼か余計に判り辛くなってるし。雨で滲んだその手を見ると、アズァはスィフィに全身鳥肌の立つような声で話しかけた。
「……まさか紙に棲むとは――そなた……阿呆だな」
冷たく、しかも呆れきった声でそう言われてスィフィが頬を膨らませる。
「おいらだって好き好んで紙なんかに棲まないもんねぃ! これは色々あって……」
「――成程。棲家の選択権すら与えられなかったわけか。よほど嫌われているんだな、あのお方に」
言い訳より先に事情を悟ったアズァが静かに腕を組み、黒い瞼を閉じた。最初スィフィに会ったときも『あるお方に閉じ込められて』って言ってたけど、その「お方」っていったい誰だ? 疑問符を頭上に浮かべつつあたしは二人の話に耳を傾ける。
図星を突かれたスィフィは、ほんのり紅色の頬をぷくっと膨らませてみせた。
「紙は紙なりで良い事だってあるもんねぃ。時計の中のアズァちゃんと違って紅茶も飲めるしクッキーだって食べられるんだからぁ」
そう言って、偉そうに胸を反らせて鼻で指を擦るスィフィ。紙に吸い込まれた紅茶だけじゃなくて、接触しているクッキーも食べられるのか――。これからは迂闊にこの紙を触らないようにしよう。紙の中の人間に指を齧られるなんてナンセンスすぎる。
紙のお家を自慢するスィフィを冷めた眼で見ると、アズァは呆れるというよりは、むしろ怒ったような口調で呟いた。
「己の……一時的な享楽のために魅首殿を危険に晒そうというのか」
黒い眉間に一瞬皺が寄ったように見えたけれど、単に照明が揺れて影が動いただけかもしれない。一言も聞き漏らすまいと耳を澄ましていたあたしが首を傾げると、好男が説明してくれた。
「ほら、さっきの雨でスィフィが滲んだ所と同じ場所が、魅首ちゃんも滲んでるだろ? 紙の中のスィフィに起こったことが全て所有者である魅首ちゃんにも起こるってことさ。……って契約のときにスィフィから言われなかった? 」
雨に濡れて身体が滲んだときから薄々感付いてはいたけれど、そんなこと契約のときには一言も聞かなかった。所有すると一般人に姿が見えなくなるにしろ、二人で同じ運命にあることにしろ、こいつは隠してることが多すぎる。
怒りに燃えた眼でスィフィを睨むと、慌てて広告の絵の後ろに隠れてしまった。時計の中のアズァが厳しい顔つきで、さらに詳しく教えてくれる。
「もし棲家であるその紙が焼かれたりでもすれば、スィフィだけでなく、そなたも死んでしまう。そなたとスィフィは契約が果たされるまでは二心一対だから……」
衝撃の説明に、あたしは忌まわしい電車の吊り広告を見詰めた。こんな薄っぺらい紙に自分の生死が掛かってるだなんて、考えるだけでも悪寒がする。腕に立った鳥肌を摩るあたしに、好男はここぞとばかりに優しい声でフォローを入れた。黒い時計をさして明るい笑顔を見せる。
「オレだって、この時計の文字盤が割れたらお終いさ。気にすることないよ、殆どの人には魅首ちゃんが見えないんだし――」
「好男みたいにあたしが見える奴もいるんだろ」
ぶすっとした顔で言うと、好男は苦笑いして眼を逸らした。否定できないってことは実際そういう奴が他にもいるってことか。せめてそいつが契約の内容を知らないといいな、とあたしは一縷の希望に縋ることにした。
思わず溜息を漏らすあたしの心を少しでも晴らそうと、好男は椅子から腰を浮かせてあたしの顔を心配そうに覗き込む。下心見えみえで白けるけど、一応聴いておいてやるか。
「何か欲しいものあったらいつでもいってくれよな。昼間だったら普通の人間でいられるから、オレ」
「は? 」
しまった。いつもの癖で思い切りガンつけて聞き返すなんて。流石の好男も笑みが一瞬凍って、無理矢理笑ってる感じだ。……無理もないか……。もともとは何かにつけて濡れ衣を着せようとしてくる担任に抗議するための手段として開発した技だもんな、これ。もう二度と人前でこんな顔しない、と品行方正なあたしは一人心に誓うと、咳払いをして好男を真正面から見据えた。
「……昼間は普通の人間ってどーいうことだよ。きちんと説明しろっ」
むむ、こんな口調じゃちっとも反省した意味が無い。
「あ、ああ…。アズァの能力の一つなんだ。昼はオレの姿を、夜はアズァの棲んでる腕時計を、自由に人目に映したり消したり出来るってこと」
気を取り直して得意そうに好男が腕時計の中のアズァにウィンクすると、腕時計は跡形も無く消えた。驚くあたしの目の前で、腕時計がまた好男の手首に現れる。
「特殊能力……ってやつか」
有能なアズァに感心するあたしの脳裏を、ふとある思いが過ぎる。さっと横に置いてあった吊り広告に眼を向けると、スィフィがこそこそと広告の絵の陰からこちらの様子を覗き見していた。あたしは広告を素早く掴むと、驚いて出てきたスィフィが絵の後ろに隠れられないように紙を折り曲げて凄んだ。
「アズァにあるってことは、勿論おまえにも何かあるんだろ! 隠してないで教えろっ」
「うきゃー怖いよぅー助けてヨッシィー」
「はぐらかすなっ! 」
人目を憚らずに怒鳴りつけるあたしに、好男もアズァも助けてくれないと悟ったスィフィが恨めしそうな顔で右頬を膨らませた。身体の後ろで手を組むと、拗ねた様子で後ろを向く。
「魅首に教えても使いこなせないもんねぃ。それに、必要なものはこっちに来るときにあのお方から取り上げられちゃったし」
「そんな言い訳……! 」
満足出来ずに食い下がろうとするあたしを遮り、アズァがスィフィに話しかける。
「―――其れは真か? 」
「うん」
さっきまで後ろを向いていたのに振り返り、アズァには素直に答えるスィフィ。あたしのときと全然態度が違うじゃないか、と思わず血圧が上がってしまう。鋭い目付きで睨むあたしの眼とスィフィの不機嫌そうな眼と合い、互いに眼を逸らした。刺々しくなってきた雰囲気におろおろしていた好男がわざとらしく腕時計をしているのに壁掛け時計を見て言う。
「もうこんな時間だし、今日は寝たらどうかな」
はぐらかされてばかりで納得のいかないあたしは固く腕を組んで拒否の姿勢を示したが、スィフィはもろ手を挙げて賛成した。
「そぉしよ、そぉしよっ! 早く自分の家が見たいしぃー」
「家賃払うのはあたしだっつの」
ぶすっとした顔で呟くあたしの言葉は、能天気なスィフィの奴には聞こえなかったらしい。今月の付録やら何やらに囲まれたご機嫌な広告の中をはしゃぎまわっている。好男はあたしの顔色を窺って立ち上がると、自ら率先して玄関に出た。改装されて綺麗な大理石張りになっている広い玄関までスィフィを持って行くと、好男はおもむろに紳士用傘をあたしに差し出した。
「……? 廊下には雨除けもあったよな? 何で傘がいるんだよ」
「念のためさ。一応スィフィもここに置いていったほうがいい。――念のためにね」
腑に落ちない説明に首を傾げながらも言われた通りに嫌がるスィフィを靴箱の上に置くと、好男は玄関を開けて二階へ続く階段を昇り始めた。雨足は弱まることを知らず、好男の家で休んでいた間にさらに勢いを増したようだ。「バケツをひっくり返したような」ってのはこういうことを言うんだろう。きっと明日は記録的豪雨としてニュースに流れるに違いない。
そんなことを考えながら足を踏み外さないように濡れた階段を昇ると、めでたく二階に着いた。管理人である好男が住む一階は一戸しかないのに、二階は二戸に区切られている。
微妙に差別を感じつつ、好男が合鍵であたしの部屋を開けるのをぼんやりと眺めていると、ふと隣の部屋に視線が向いた。別に物音がしたからとか、痛いほどの視線を感じたからとかじゃない。ただ急に、隣は誰か住んでるのかと気になっただけだ。
視線の先に、「誰か」が居た。
朽ちかけた木製の扉の前で。
雨にぐっしょり濡れて。
「……! 」
気配も無くそこに現れた「誰か」に、あたしは驚いて息が止まった。長い長い髪だ。しかし手入れどころか梳ることすらしていない様子で、ぼさぼさだから男だか女だか判らない。見えるのは長い髪に覆われた顔と、髪の間から覗く痩せ細った手足だけだ。
恐らくほんの一瞬の出来事だったのだろう。けれど「誰か」は永遠をかけるほどゆっくりと顔を上げ、髪の奥からあたしを見た。
「魅首ちゃん、開いたよ」
がちゃんと扉の開く音と好男の声であたしは止まっていた呼吸を取り戻し、好男を見た。電気が付いていない暗い玄関の中で好男が手招きしている。玄関の前で固まったまま、あたしは震える声で好男を呼んだ。
「よ、好男……今、そこに……」
「ん? 何? 誰か居た? 」
怪訝な顔で好男は玄関から顔を出して左右を見回した。生唾を飲み込むあたしの背後にも真剣な眼を向ける。が、拍子抜けした感じで玄関の中に首を引込めた。
「誰もいないじゃないか」
「え―――」
振り返ると、隣の玄関の前には本当に誰もいなかった。吹き付ける強い風に煽られた大粒の雨が、腐って変色した木の廊下に降り注ぎ、大きな水溜りを作っているだけだ。
「……疲れてるのかな……」
今日一日、あまりにも非日常に接しすぎたせいかも、と自分に言い聞かせる。ぶんぶんと頭を振って恐怖を振り払うと、あたしは好男が待っている玄関に入った。
敷居を跨いで部屋を見たあたしの顎が外れそうに開く。
「な? やっぱり傘が必要だっただろ」
へらへら笑ってそうぬかす好男の手には、しっかりと広げられた傘が握られていた。外と変わらない、いやもう外より大粒の雨が降っていた。家の中、なのに。
使い古して表面の爛れきった畳の上に、数え切れないほどの空き缶が並べられている。それが天井から染み出してくる水滴を食い止めようとしているが、完全に焼け石に水状態だ。缶からは溜まった水が溢れ出ている。あまりに激しい雨に、床に小川が出来ていた。ここでメダカが数匹楽しそうに泳いでいても誰も文句が言えないだろう。
「うわー、今日は特に酷いな……。おっと、危ないあぶない、踏み抜くところだった」
玄関から靴を脱がずにそのまま土足で畳を歩き、もはや何色だったのかすら判らない天井の壁紙を見上げる好男。挙句の果てにはそこらへんに落ちていた多分どこかの窓枠だった木片を拾い上げると、雨の重さで垂れ下がってきた天井を突いている。
呆然として口を開けたままのあたしにふと気付くと、好男は不思議そうに首を傾げた。
「入ってこないの? 」
「ふ……」
「ふ? 」
好男が木片を捨ててあたしのほうへ歩いてくる。その裾の濡れたズボンが歩く度に、ばしゃばしゃと水を跳ね返す音がする。雨漏りの水でいっぱいになった缶に降り注ぐ雨のどぼどぼいう音が。傾斜しているために部屋から玄関、玄関から廊下へと流れる水のちょろちょろいう音が、音が、音が………ァぁぁああぁぁああぁあああああ――!
「こんな場所に住めるわけねーだろこのタコがぁッッッ! 」
あたしは紳士用傘を好男に向かって思い切り投げ付けた。
「……あれ。もう帰ってきたの? はやいねぃー」
靴箱の上に置き去りにされて暇そうにしていたスィフィが広告の中で跳ね起き、遥か上方にあるあたしと好男の顔を交互に見て言った。背後で平謝りを続ける好男を完全無視、スィフィも無視して居間に上がりこむと、腹の虫が治まらないあたしは大きな音を立てて椅子に座った。
二次元から外を見上げていたスィフィは訳が判らないといった顔で好男に説明を求めるけれど、好男は眼を泳がせるだけだ。好男の手に着けられた腕時計からは、あれじゃ怒って当然だ、と冷め切ったアズァの声が幽かに聞こえた。