第三三章 束の間の休息
何事も無かったように建つ図書館の中で、あたしと刈子は倒れている十四季に駆け寄った。
「おい十四季、しっかりしろっ」
「十四季さん! 」
名前を呼んで肩を揺すると、十四季が薄ら目を開けた。その左の瞳は、完全に赤く変色している。昨日のあれは、見間違いじゃなかったのか。眉間に皺を寄せて赤い目を見つめるあたしと、十四季の眼が合う。
十四季の血色悪い唇が開いて、擦れた声が聞こえた。
「……皆、無事なのか……? 」
問い掛ける十四季に、あたしと刈子が大きくうなづいてみせた。力なく放り出されている手を握り、刈子が十四季に安心するよう言い聞かせている。
十四季が身を起こし、あたしと刈子、それに好男の姿を見て、ほっと安堵の溜息を吐いた。それから急に慌てた様子で、十四季が刈子の手を振り払う。
「か、勝手に触るな」
「すみません――心配で、つい……」
素直に謝る刈子に背を向けて、十四季が顔を赤くしている。なんだ、結構元気じゃないか。蟹の少年が必死に運んできたから、この気の抜け様は肩透かしを食らった気分だ。
刈子に触られて顔が赤くなるなんて、十四季も大分俗っぽくなったな。意味不明な言い回しして格好つけてるよりは、こっちの方が幾分マシだけど。
背を向けたまま沈黙する十四季に、刈子も無言だ。妙にぎこちない雰囲気の二人に挟まれてると、何故かこっちまで緊張してくる。
背中がむず痒いような感情に戸惑っていると、好男がこっちに近付いてきた。ぽん、と肩に置かれた手は、あの闇と同じ暖かさだった。
「海原さんと花柄を家に送ってくつもりなんだけど、どうする? 皆一緒に車乗ってく? 」
「スォンと契約したあの少年が、まだ近くにいるはずだ。この状況では、固まって動いたほうが安全だろう」
好男の質問に被せて、アズァが冷静にそう言った。これじゃ訊くまでも無いだろ……。なんて思いつつ、じゃあそうする、と答えるあたし。十四季が立ち上がるのに手を貸して、あたし達は好男の車へ向かった。
図書館を出るあたしの後ろでは、好男が海原と花柄に優しい声でなぐさめの言葉を掛けている。
「……あれ、好男さん――? ぐすっ。いつからそこに――」
「もう大丈夫だから。……でも、暫らくは図書館に近付かないほうがいい。安全な家まで送ってくよ」
好男の言葉に、鼻をすする海原が涙目でうなづいた。その背中を摩っていた花柄にも声を掛けて、好男は二人を車へ移動させた。後部座席にみっちり詰まったあたし達を見て、花柄が海原に助手席を譲っている。
「えっ、でも……先輩……いいんですか? 」
「いいのいいの。――ちょっと奥へ詰めてくれるかしら。うん、ありがとう」
あたしが左側に詰めて、花柄が後部座席に座った。三人掛けのシートに大人二人子ども二人ってのは、かなりキツイものがある。左窓側に座る十四季が、刈子と密着しないよう姿勢を変えて悪戦苦闘してるのが見えた。ごめんなさいと謝る刈子に、謝る必要は無いとか言っている。じゃあ動かなくてもいいじゃんかよ――。
後ろで狭そうに座る花柄に、海原が不思議そうな顔をしている。ぎゅうぎゅう詰めの車は、すぐに海原の家に着いた。案外近くに住んでるんだな。振り返ると、まだ図書館上空にできた穴が見えるくらいの距離だ。これじゃ絶対安全とは言いきれないんじゃ……。
好男も同じことを思ったのか、市外に知り合いが居るなら泊めてもらえ、と海原に忠告している。
「は、はい――。わかりました……」
懇々と語る好男に、海原は怪訝そうな表情だ。そりゃそうだよな。海原からしたら、何が起こってるのかすら分からない状況だし。花柄が助手席に移って、すし詰め状態から脱した車内から、あたしは海原の様子を窺った。釈然としない様子だけど、好男の言葉を信じて親戚に連絡するみたいだ。
それを聞いて好男も安心したのか、最後にもう一度励ましの声を掛けて、運転席に戻ってきた。
整備された広い道路を、好男が無言で車を走らせている。助手席に座る花柄も、後部座席に座るあたし達も無言だ。なんだか気まずい雰囲気が漂ってるな……。
重い空気に身を捩らせるあたしに、刈子が小声で耳打ちしてくる。
「えっと――あの方は、わたくし達のことが見えてるんですよね? 」
「ああ、そうみたいだな……」
刈子の質問に答えるあたしと花柄の眼が、ミラー越しにぶつかった。あたふたするあたしに、花柄が首を小さく縦に振った。
「ええ、見えているわ。声も聞こえてるわよ」
今のが聞こえていたのかと、あたしと刈子が冷や汗を垂らす。この女の人、言動の一つひとつが何か恐いんだよな。花柄の声に、ハンドルを握る好男の手がびくつくのが見えた。愛想笑いを浮かべながら、好男が灰皿を弄っている。
「あ、次の信号左折だっけ。そろそろ着くんじゃないかな」
「……」
軽そうな声で誤魔化そうとする好男に、花柄はシートベルトをぎゅっと握った。薄い色のルージュをひいた唇が開く。
「わたし……帰りたくない。好男くんと一緒に居たい。……駄目? 」
左折車線に入ろうとウィンカーを出していた好男が、驚いて花柄を見た。余所見した車が、白線を跨いだまま走る。クラクションを鳴らされて、ようやく好男が前を見た。ったく、事故るとこだったじゃないか。危ないな。
命の危険が過ぎて、あたしは花柄の言葉をもう一度よく噛み砕いた。
……つまり、花柄もあたし達と一緒に、好男の家へ行くってことか?
昨日の騒動を思い出し、あたしの背中を汗が伝う。十四季が御札で破壊しまくったあの家に、この女の人が来たら――。何が起こるか分からないな。かと言って、ここであたしが好男に何か言ったら、またややこしいことになりそうだし……。好男がどうするか様子を見るか。
見守ることに決めたあたしの前で、好男は意外にも花柄の望みを快諾した。
「――わかった。後ろの子達も一緒なんだけど、それでもいい? 」
尋ねられて、花柄がうなづく。それを確認した好男が車線変更をして、車は好男の家へ向かった。窓から見える景色が見覚えのあるものに変化していき、あたしの心に焦燥感がつのる。どうやって言い訳をしようかと考えているうちに、車がボロアパートの前で停まった。
相変わらず倒壊しそうなアパートを前に、いつもと変わらないね、と花柄がちょっと笑いながら言っている。あと十年は持つって業者が言ってたから大丈夫、とか好男が返してるし――。この二人、結構神経図太いな……。
はらはらしてるあたしの前で、好男が家の扉を開けた。中も変わらないね、と花柄が呟いて入っていった。驚いて家に上がると、あのボロボロだった居間がすっかり元通りになっている。
「あ、あれ――? 」
拍子抜けして目を瞬いているあたしに、好男が思い出した、と声を掛けてきた。
「もしてかして居間のこと心配してた? ほら、今朝着替え取ってきただろ、その時に直しておいたんだ」
もう眠いし背中痛いし大変だった、と好男が軽い調子で愚痴っている。……とっくに知られてたのか。もう隠し通せなくなったと悟ったあたしは、床にぶつけるくらい勢いよく頭を下げた。
「――ごめん! 」
「え? なんで魅首ちゃんが謝るの? 居間で暴れたのは十四季なんだろ? 」
疑問符を飛ばして首を傾げる好男の前で、あたしは頭を上げた。……十四季のせいだってことも、もう知ってるのか?
思ったことが顔に出てたみたいで、好男が苦笑しながら説明した。どうやら今朝、十四季が自分から、好男の家を破壊したことを白状したらしい。怒ってないのか……? と尋ねると、好男が笑って首を横に振った。
「そりゃ最初は頭に来たけど――。食事時にあんな泣き顔見せられて、その後素直に謝ってきたから、怒れなくってさ」
刈子ちゃんと一緒に居間直すの手伝ってくれたし、と好男が付け足した。玄関で靴を脱いでいる十四季を、信じられないといった気持ちであたしが見つめる。あんなに仲悪そうだったのに、自分から謝りに行くなんて。本当に人が変わったみたいだな。
視線に気付いた十四季が振り向いて、不思議そうにこっちを見ている。
「……何か用か 」
「いやー、おまえ急に性格丸くなったなぁと思って」
あたしがそう言うと、十四季は顔を顰めて目を逸らした。別にそんなんじゃない、とか言ってるし、素直じゃないなぁ。バレバレの照れ隠しに呆れるあたしの後ろで、刈子がくすくす笑っている。
奥へ向かった花柄が気になるのか、好男は何度も部屋のほうに視線を向けている。その左手首から、アズァの冷たい声が聞こえた。
「少し確認したいことがある。済まないが、故郷の者だけにしてくれないか」
唐突なアズァの提案に、好男が戸惑いながらも腕時計を外した。いったい、アズァは何を考えているんだろう? 好奇心が湧くけれど、聞くなと言われたから首を突っ込むわけにもいかない。刈子も残念そうな顔で眼鏡を外し、腕時計の隣に置いた。その横にスィフィの入った広告が舞い降りる。
「……俺はどうすればいい」
食卓の上に並んだ物達を眺めて、十四季が腕組みしながら尋ねた。少しの沈黙の後、アズァが口を開く。
「武宮殿は――ここに残ってもらおう。クゥイの代理人として」
十四季がうなづき、細身の椅子を引いてそれに座った。お話が終わるまで本を読んでいますね、と刈子が寝室へ去っていく。好男も、花柄が待つ奥の部屋へ行ってしまった。一人どうしようかと佇むあたしの眼に、据置型ゲーム機が映る。たしか寝室にもテレビがあったし、これで時間を潰すか。
のほほんと抜けたこと考えながら寝室に向かうあたしは、居間に漂う緊迫した空気に全然気付いていなかった。