第二九章 揺れる心
崩壊した図書館の中で、あたしと好男、それに刈子は怒り狂うヘッドホンの男と対峙していた。
「魅首ちゃん、その怪我――それに顔……」
黒い兜の隙間から好男の眼元が覗き、心配そうな声が聞こえた。いつもより声が上ずって聞こえるのは気のせいだろうか? 乱れた服を手早く着なおすと、頬の血を拭って強がってみせた。
「顔は大した怪我じゃないって。それより足治してくれるか? このままじゃ歩けないからさ」
足首が変な方向に曲がり、付け根には御札が刺さってどくどくと血が流れる足を好男に見せるあたし。無言で頷いて、好男が足を治療してくれた。これでまた闘える。
「俺に逆らう奴は皆、この力でねじ伏せてやる……! 」
血まみれの手で拳を握り、青いヘッドホンを着けた男が叫んだ。崩壊を続ける図書館に、咆哮が響き渡る。まるで男の叫びに同調するように、あちこちに転がるコンクリートの塊が動いた。一際大きな塊が浮かび上がり、あたし達目掛けて降ってくる。
「――! 好男、右からくるぞ」
アズァの声に、好男が右足を引いて身体の向きを変えた。黒髪の剣が解け、網状になって塊を包み込む。衝撃を抑えることはできたみたいだけど、あまりの重さに髪が千切れたみたいだ。鎧の上から好男が頭を押さえて泣き言を漏らしている。
「いててて……。ったく、この歳でこれ以上毛根を酷使するのはご免被りたいよ」
将来が心配だからもっと気遣ってくれ、と好男が顔を顰めてアズァに文句を言っている。確かにここ数日間で、好男の頭は大分涼しくなったような――。最初会った時はワックスで固めて毛先を遊ばせるほどあった髪が、今では殆どスポーツ刈りと言っていい状態だ。そのうち坊主頭になるかもしれない。
好男に懇願されて、アズァも少しうろたえた声を出した。
「それは、その――解っている。しかし、これ以外に闘う方法が無いんだ。我慢してくれ」
小さい子を宥めるようなアズァの言い方に、好男が渋々頷く。その間にも降り注ぐコンクリート片を弾き返す好男達に、あたしはスィフィから聞いた情報をそのまま伝える。
「あの男と契約してるのはレェンって奴みたいだ。土に関する能力を持ってるって、スィフィが言ってた」
「……レェンか。厄介だな」
アズァが呟いて、黒い鎧が二、三歩飛び退った。むき出しのコンクリートから絨毯の上へと移動して、鎧が剣を構えなおす。
それに応えるように、対峙している男のヘッドホンから高圧的な声が聞こえてきた。
「ほら見たことか……。副隊長とそれに宮廷占い師まで来てしまったではないか。我の言うことだけに従っていればよかったものを、どうして御前はすぐ反抗する。結果的に自分で自分の首を絞めていることに、まだ気付かないのか。そもそも最初に契約したときから――。御前は人の話をよく聴きもしないで勝手に突っ走って――」
堰を切ったように、ヘッドホンから説教が垂れ流される。くどくどねちねちと続く説教にぽかんと口を開けるあたし達の前で、男がヘッドホンを抑え鼻に皺を寄せた。うるせぇな、と小声で毒づくのが聞こえる。
怒りに歪んだ男の目元からは、涙がとめどなく流れている。
「何で俺が誰かの言うこと聴かなきゃならねーんだよ。俺は……力を手に入れたんだ。誰にも負けない力を……。世の中、力の強い奴の言い分が通るんだろ? 弱い奴を力でねじ伏せてさ。……例えば、こんなふうに」
ヘッドホンの男が立つ足元に無数のヒビが入り、崩れた図書館全体が音を立てて宙に持ち上がった。揺れる足場にしがみ付いていると、今度は建物全体が床に叩きつけられる。支えを無くした身体が一瞬浮いて、あたしと刈子は膝を擦りむいた。
男の足場だけが宙に浮き、刈子が痛そうに膝を摩る様子を見て嗤っている。
「はははっ。ほんと馬鹿だよなぁー。自ら敵の陣地に踏み込んできちゃってさぁ。あんたらさぁ、自分の立場分かってる? くもの巣に引っ掛かった小バエみたいなもんだよ? ……せいぜい足掻いて俺を楽しませてくれよな」
破れた天井から差し込む光の下で、男が笑いながら流れる涙を拭った。
流れる涙のお陰で能力が強化されるみたいだけど、それって笑い泣きにも適用されるんだろうか? 狂ったように笑いながら涙を流している男を眺め、あたしの頭上に疑問符が飛んだ。
一人で楽しそうに喋ってる男を無視して、アズァと好男がどうやって相手を倒すか相談している。
「ええー……切り殺すって……。あのさアズァ、オレそんなハードなこと出来ないって。もっとなんかこう、平和的に解決する方法無いの? 」
「平和的、か――。難しい質問だな。契約を破棄させることが出来れば不可能ではないが……。基本的に、最初に契約した内容を果たすまでは、どちらかが死ぬまで契約を破棄できないからな」
異世界の者より、故郷の者の方が強い身体を持っているから、『契約者』を狙ったほうが倒しやすいのだ、とアズァが付け加える。
自分の周りにコンクリート片で防御壁を作り出した男を見上げ、好男が苦々しい表情で呟いた。
「……くそ、こんなの放っておけるわけがないよな」
吐き捨てるようにそう言って、柄を握る好男の手に力が入る。太陽が真上に来て、ここから男を見上げるとまるで後光を背負っているようだ。剣を握って構えを取る好男を見下げ、青いヘッドホンの男が傲慢な笑みを浮かべている。涙の筋が、光に照らされて輝いている。
「ククッ……おもしれぇな。正義面しちゃってさ」
正午の光の中で、男がゆっくりと両腕を広げた。その手に刺さっていた御札が抜け落ち、傷が治っていく様子が見える。床が崩れる音に混じって、またあの音が聞こえた。
片目を顰め、嫌悪の情を剥き出しにして、男が口を開く。
「『オレが守らなきゃ、誰が守るんだ』ってか――? ははは! 笑いすぎて涙が出るぜ……。よく考えろよ。俺のやってることとあんたらがしようとしてること、大して違いは無いだろ? どっちの側と契約したか――それだけだ。それ以上でも以下でもない。いや、大義って面では、俺のほうがあんたらよりよっぽど『正義』だと思うよ」
コンクリート片に包まれながら、男が悦に入った様子であたし達を見下して嗤っている。
「『正義』だと? ふざけるな! これだけの破壊行為をして、何も知らない人を傷つけて、それのどこが正義だって言うんだ」
男の挑発は好男にどストライクだったみたいだ。黒髪の鎧の中から、好男の怒鳴る声が聞こえる。何してもへらへら笑って流す好男が本気で怒るなんて……嫌なことでもあったのかな。
思惑通りとでも言いたげに、ヘッドホンの男がにやにや笑って足場の高度を下げた。
「ああ、そうさ。向こうの世界が今どうなってるか、どうせあんたらは教えてもらってないんだろ。俺は、見てきた。この目で、自分の目でな。――そりゃあもう酷い有様だったぜ。なぁ、レェン? 」
男が片手でヘッドホンを押さえ、頭を傾けた。青いヘッドホンから、冷たい声が淡々と語りだす。
「故郷は太陽を含む全ての星が消え、完全な暗闇の世界になってしまった――。野獣の群れが家畜を追い散らし、畑の作物はこれ以上育つ見込みが無い。人々はいつ起こるかわからない地震に怯えながら、蝋燭の微かな光をたよりに生活している。――そんな彼らを放っておけと? 僅かな希望も拭い去って、絶望に追い込むことができるか? 」
惨状を聴かされて、好男は黙ってしまった。向こうの世界が大変なことになってると刈子から聴かされていたけど、ここまで大事になってるとは。いや待て、こいつ嘘ついてるかもしれない。
好男も同じことを思ったのか、勢いの削げた声でアズァに尋ねている。
「……今の、本当なのか」
嘘だと言ってくれ、という気持ちが見え見えだ。ここは例え本当でも、好男のやる気のために否定が来るはず――。そう期待するあたしの耳に入ってきたのは、苦しそうに肯定するアズァの声だった。
「ああ――。崩壊の様子はわたしも見てきた……。最も、ほんの始まりしか見ていないけれど。……やはり、あのまま崩壊は進行していたのか」
そのまま正直に言ってしまうなんて、いったいどういうつもりなんだ? この中でもアズァは結構頭がいい方だと思っていたのに……。アズァの一言で、好男は完全に戦意喪失してしまったみたいだ。
剣を握ったまま戸惑って後退りする好男に、ヘッドホンの男が一歩ずつ近付いていく。
「だからさぁ、無駄な抵抗はやめろって。あんたらが命差し出せば、向こうの世界で何千何万って人が命を救われるんだぜ? ……それとも、開き直って保身のために闘うのか? 」
「それは――」
俯いて視線を逸らす好男が右手で額を押さえた。その手首に、きらりと腕時計の文字盤が光る。なんで好男の奴、右手に腕時計をしてるんだ? いつもは左手首に着けてるのに。不思議に思って眼を凝らすあたしは、次第にあの音が大きくなっていることに気付けなかった。