第二八章 砂嵐 後編
何もかもがスローに見えた。
軽く百キロ超えてるんじゃないかと思うほど巨大なコンクリート片が、あたし目掛けて降り注いでいる。こんなのに潰され死ぬなんて嫌だ――! 圧死した自分の悲惨な様子を想像して、あたしはぎゅっと目を閉じた。視界の端に、スィフィの操るリボンが見えた。
身体が幅の広い布に包まれ、ふわりと宙に浮くのを感じる。怯えていた衝撃はあたしを掠め、地面にめりこんだみたいだ。おそるおそる目を開くあたしの視界に、悔しそうに見上げる男が映る。
「魅首、だいじょぶ? 」
「あ、ありがと――」
あたしの身体に巻きついていたリボンが離れ、背後に浮いていた電車の吊り広告からスィフィの声が聞こえた。礼を言いながらまだ倒れていない書棚の後ろに回りこみ、あたしはヘッドホンの男から身を隠す。まさか、こいつが自分からあたしを助けてくれるなんて――。
未だに何が起こったのかよくわからないけれど、少し嬉しかった。
辺りを見回してうろつく男に見つからないよう、あたしもスィフィも息を潜める。
男のヘッドホンから漏れる変な歌声に呼応するように、図書館の床が、壁が、もの凄い音を立てて崩れていった。鉄筋が丸出しになった床を、男が身軽な様子で渡り歩いている。
「……スィフィ、あいつも知り合いか? どんな能力を持ってるんだ? 」
なるべく押し殺した声で尋ねるあたしに、顔のすぐ横で浮いている広告からスィフィが囁き答える。
「あの慈悲の欠片も無い声は、間違いなくレェンだねぃ。ホント、仕事一途で困った奴ねぃ……。えと、能力だっけ? ……多分、土に関係する能力だねぃ」
仕事一途とか、そーいう余計な情報はいらないっての。この期に及んで、まだ余裕をかましているスィフィに呆れていると、ヘッドホンから声が聞こえた。
「松郎、二時の方向から声がした。すぐに向かえ」
「……はいはい」
男が面倒臭そうに返事をして、鼻に皺を寄せた。二時の方向ってどっちだ? 初めて聴く表現に頭を悩ますあたしに、男はどんどん近付いてくる。まずい、このままじゃ見つかる。でも後ろは壁で、さらに両横は書棚が倒れてて逃げ出そうにも丸見えだ。
どうしようかと焦るあたしに、スィフィが正面突破を勧めてきた。
「透明化してあるから、レェン達には見えないねぃ。一旦退いてアズァちゃん達と合流しよう」
なるほど、それなら大丈夫そうだ。こんな滅茶苦茶な奴にたった一人で挑んでも勝ち目はないし、さっさと退却させてもらおう。宙に浮かぶスィフィに頷き、あたしはそろそろと書棚の影から出た。
ヘッドホンの男に背を向けたあたしの耳に、女の悲鳴が聞こえた。どこかで聴いたことのある声だ――。振り向くあたしの瞳が大きく広がった。
昨日、好男と楽しそうにコーヒーを飲んでいた子だ。確か、海原っていったっけ。
「魅首、はやくはやく! 」
「待って。まだ逃げ遅れた奴が――」
足を止めるあたしの前で、ヘッドホンの男が鬱陶しそうな顔で海原を見た。崩れていく床から滑り落ちないように、海原は泣きそうな顔でカウンターにしがみ付いている。
「きぃきぃうるせーな……」
ぞっとするほど憎悪を滲ませた声色で、男が指輪だらけの手を上げた。コンクリートの塊が音を立てて持ち上がり、ゆっくりと海原の方へ移動していく。こいつ……無防備な一般人を攻撃しようとしてるのか?
男のしようとしていることを理解した瞬間、あたしの身体は反射的に動いていた。
「やめろっ! 」
声を出したら隠れている意味が無くなるのに、あたしの口から言葉が飛び出る。いや、言葉だけじゃない。無意識の内に、あたしは男の腕を後ろから押さえ込んでいた。もう完全に透明化した意味が無い。出入り口近くから、スィフィがあたしを呼ぶ声がする。
ヘッドホンの男も、あたしの行動に驚いたみたいだ。意識の集中が途切れたのか、コンクリートの塊は海原の数メートル前に落ちた。
不意を突いた今なら、こいつを倒せるかも知れない――。
あたしがそう思っていると、男の口元がにやりと上がった。
「なーんだ、自分から近付いてきてくれたのか」
戸惑う暇も無く、ヘッドホンの男はあたしの手を捻り挙げた。あたしの腕に鋭い痛みが走る。……そういえば、骨に入ったヒビを好男に直してもらうこと、すっかり忘れていた――。
痛みのせいで大した抵抗も出来ないあたしの身体を、男の手が一通り撫でていく。気持ち悪くて身震いするあたしの耳に、ヘッドホンからイラついた声が聞こえた。
「……何をしている、松郎。遊びじゃないんだ、早く殺せ」
命令口調の声に、あたしを捕まえたまま、男が鬱陶しそうに目を上げた。
「べつに遊んでるわけじゃないって。姿が見えない能力持ってるってことは、こいつだろ? スィフィとやらと契約してる魅首って女は。で、俺達の任務はこいつから珠を取り戻すこと――」
気だるそうな男の声に、ヘッドホンからそれを肯定する声が聞こえた。男の虚ろな目があたしがいるらしきところを眺め、その顔にいやらしい笑みが浮かぶ。
「だったらさー、確かめるべきだろ。こいつがそれを持ってるかどうか」
思い切り床に押し倒され、あたしは腕の痛みに声を上げた。暴れるあたしに馬乗りになり、男が死んだ魚みたいな目を細めている。骨ばった手が手探りにあたしの太ももに触り、頭に血が上って顔が熱くなるのを感じた。こんな奴に組み敷かれていいようにされるなんて、絶対嫌だ! あたしの抵抗する様を嘲笑う男の首に、色とりどりのリボンが巻きつく。
「――スィフィ……! 」
「だから早く逃げようって言ったのにぃー。これ以上面倒見切れないよ――うわっ! 」
転がっていた鋭いコンクリート片がリボンを裂き、宙に浮かぶ吊り広告目掛けて襲い掛かった。急いで羽ばたく広告の角を欠片が掠め、紙が破れる音が聞こえる。
流石のスィフィも驚いたのか、宙を舞う吊り広告の動きが一瞬止まった。そのほんの一瞬の隙を突いて、男が動かすコンクリートの塊が広告を床に叩き落す。
驚いて息を呑むあたしの前で、コンクリートの重しをされた吊り広告は動かなくなってしまった。あたし自身の身体も、何か重いものを乗せられているように自由が利かない。スィフィは大丈夫なんだろうかと心配するあたしの上に、男の身体が覆いかぶさった。
「おおー、見えるようになった。ってことは、あいつは気絶したのか。もう誰も助けてくれないな、ご愁傷サマ」
「――――っるさい! 放せ! 」
顔面目掛けて振り上げたあたしの拳をいとも簡単に受け止め、暴れるあたしを男がせせら笑った。
「はは、粋がっちゃって。女が男に勝てるわけないだろ? ……それに、どーせすぐ死ぬんだ。大人しくしてたら少しは寿命を伸ばしてやるよ。気持ち良くしてやるついでにな」
そうムカつく言葉を吐いて、男の手があたしの制服の横にあるジッパーを下げていく。――なにふざけたことぬかしてんだよ。このまま殺されてたまるか! 目の前にある男の額に頭突きをかましたあたしは、思い切り拳で頬を殴られた。
「――つっ……」
口の中に広がる血の味に顔を歪め、くらくらする頭を振るあたし。絶対こんな奴の前で泣き言なんか漏らすもんか――。血の垂れる唇を真一文字に結んで男を睨むと、向こうも虚ろな目に怒りの炎を燃やしてこっちを睨んでいた。
「んだよ、大人しくしてろっつっただろ……。あーうぜー、これだから嫌なんだよ女って奴は」
「遊んでいる暇など無いと言っただろう。先に命を絶っておけばこんなことにはならなかったものを」
ヘッドホンから聞こえる言葉に、腫れてきた額を摩る男が冷酷な笑みを浮かべた。床に散らばるコンクリート片がカタカタと動き、次第に浮き上がっていく。その中から一番尖った破片を握り、男がそれをあたしの喉元に突きつけた。
こいつ、本気であたしを殺すつもりだ――。それも、楽しんで。
喉に当てられたコンクリート片の先が、あたしが呼吸するたびに少しずつ皮膚を削っていく。恐怖で奥歯が鳴ってるのが自分でもわかるくらいだ。いいね、もっと怖がってる顔しなよ、と男が欠片を握る手に力を入れた。
喉に走る痛みにあたしが死を覚悟した瞬間、男の背中に何かが当たった。軽い音を立てて床に落ちたのはボールペンだった。息を止めているあたしの喉からコンクリート片の刃先が引き、男が鬱陶しそうに振り返る。
「や、やめなさい――」
震える声でたったそれだけ言った女を見て、あたしは目を円くした。昨日好男と話していた人物の一人、花柄だ。そうか、こいつもこの図書館に勤めていたんだ。
驚いているあたしから立ち上がり、男がヘッドホンに手を当てて首を傾げている。
「おい……レェン、あいつも『契約者』なのか? 」
「いや……。特別な力は何も感じない。只の人間のはずだが……」
どうして我々が見えるのだろうか、とヘッドホンから声が聞こえる。男の視線は花柄に向いたままだ。このままだと、今度は花柄が狙われてしまう。
重い身体を動かし、あたしは男の足に思い切り噛み付いた。男が呻き声を上げ、あたしの顔面に靴跡がつくくらい強い蹴りが入る。仰け反って転がるあたしに、男が醜く歪んだ顔を向けた。
「――このアマっ……! 」
少し足を引き摺りながら、男が悪態吐きつつこっちに近寄ってきた。その後ろでは男に向かって本を投げようとする花柄を海原が押さえていた。
「先輩、しっかりしてください! それ以上進んだら落ちちゃいますよ! 」
「だって、そこに、人が――」
鼻から出る血を手で拭って立ち上がると、あたしは花柄に大丈夫だ、とサインを送った。身体中がひどく重い。立っているだけで精一杯って感じだ。それでも目の前から近付いてくる男にガンを飛ばしていると、足先から奇妙な感覚が徐々に膝まで上がってきた。違和感を覚えて身体を見下ろすあたしの眼に、衝撃的な光景が映る。
変形したコンクリートが、あたしの足を膝まですっぽりと包み込んでいた。固体のはずなのに、まるで液体みたいに柔らかく変形して、コンクリートは更に上へ上へとあたしの足を包んでいく。引き抜こうとしても、コンクリートに覆われた足はびくともしなかった。
絶句して固まるあたしの前で、男がにやにやと笑っている。その目は暗い悪意に満ちていた。
「――怖いか? 怖いよな。そのままコンクリート詰めにしてやろうか? ……なんてな」
あたしの目の前で立ち止まり、男がククッと忍び笑いした。ヘッドホンからは相変わらず変な歌声が漏れていて、早く殺せ、という声も混じっている。何時の間にか背後のコンクリートも同じように変形していたみたいで、あたしの身体は完全に固定されてしまった。
後ろ半分がコンクリートに覆われて身動きできないあたしに、ヘッドホンの男が足元のガラス片を拾ってそれを見せた。
「うぜーんだよ……俺に盾突くもの……全部……」
男の持つガラス片が、あたしの頬に触れた。氷が触れたような感覚が頬に走り、次いで燃えるような痛み。ぎゅっと目を瞑るあたしの耳元で、男が嫌味たらしく囁く。
「すぐに殺すなんてことしない……身体中痛めつけて嬲り殺してやるよ」
全身に悪寒が走り、あたしの腕に鳥肌が立った。こいつ、今まで出合った人間の中で一番気持ち悪い。ていうか、同じ人間とは思えない思考回路してる。恐怖を超えて嫌悪感が出てきたあたしを見て、男は顔を顰めて右手で拳を握った。それに呼応するように、コンクリートがあたしの右足を締め付ける。足首が変な方向に曲がって、ぽきぽきと音がした。
「うぐっ――」
痛みに呻くあたしを眺め、ヘッドホンの男が気味の悪い笑みを浮かべた。これ以上この気持ち悪い奴を喜ばしてたまるか――。必死に奥歯を食い縛って睨みつけるあたしに、男がゆっくり手を伸ばす。スカートの下から男の手の感触がして、あたしの身体がびくんと震えた。――駄目だ、泣くな泣くな! 泣き顔見せたら負けだ!
吐きそうな気分をぐっと我慢するあたしの耳に、かさかさと紙の擦れる微かな音が聞こえた。
――紙? あたしの脳内に、十四季から渡された御札の記憶が蘇る。そうだ、着替えてスカートのポケットに入れておいたんだ。
固定された首を僅かながらに動かして、あたしはヘッドホンの男の様子を探った。どうやらあたしを苛めるのに夢中で、御札が擦れる音には気付いていないみたいだ。骨ばった手は太ももの真ん中辺りを触っている。背中がぞくぞくするのをじっと耐えて、あたしは男の手がスカートのポケットの真下に来るのを待った。もう少し上、もう少し……今だ。
「――――、――」
あたしの口から、何語ともつかない妙な言葉が紡ぎだされた。ポケットに入っていた皺くちゃの御札が一気に広がり、蒼い光を帯びて刃物のように鋭利になる。
数枚あたしの太ももに刺さったけど、残りは全部男の手に突き刺さったみたいだ。ヘッドホンの男が驚いて飛び退く。あたしを拘束していたコンクリートが形を崩して、あたしは床にへたり込んだ。
「……く、そ……ふざけやがって……! 」
御札の刺さった手を押さえ、男が歯軋りしている。――勝手に人の身体に触るからだよ、ざまーみろ。痣の出来た足首を押さえながら、あたしは男に思い切り舌を出してみせた。一杯喰わせてやったとほくそ笑むあたしの眼が、男の顔に注がれる。
「……だから嫌いなんだよ……思い通りにいかない……全部、ぜんぶ……」
歯軋りしていた男の顔が俯き、息も絶え絶えにそう呟いた。御札が刺さって血まみれになった手が、ヘッドホンを押さえる。青いヘッドホンから流れていた変な歌が止み、空間に妙な静寂が訪れる。……いや、完全な静寂じゃない。この音は……。
どこからとも無く聞こえてくる微かな雑音に、あたしは耳を澄ませた。これって、テレビの画像が砂嵐になった時の音じゃないか? 気味の悪い現象に警戒心を強めるあたし。
出入り口の自動ドアのガラスが割れる音が聞こえ、黒い影があたしのすぐ横に降り立った。
「遅れて済まない、魅首殿」
「魅首さんっ! 」
黒髪の鎧に包まれた好男の腕から刈子が飛び降りて、あたしの元へ駆け寄ってきた。好男が前に進み出て、髪で出来た黒い剣を構えている。
「――こいつが、図書館をこんなにした元凶ってわけか……」
「……っとうしい、鬱陶しいんだよ」
ヘッドホンを押さえ、男が肩を震わせながら憎しみの篭った声で呟く。俯いていた顔がゆっくりと起き上がり、憎悪に歪んだ口が開いた。
「……俺に逆らうものは全部、力でねじ伏せてやる! 」
大声で叫ぶ男の禍々しい目から、じわりと涙が湧いた。