第二四章 決意と覚悟
蒸すような熱気の外とはうってかわって、ひんやりと涼しい十四季の家の中であたし達は寛いでいた。
声を掛けても返事をしない十四季のポケットから刈子が鍵を取り出して、勝手に家に上がってしまったのだ。これって不法侵入って言うんじゃないだろうか、と微妙な気持ちを抱きつつ、かといってこの炎天下の中ずっと十四季を背負ってるのも辛いから、あたしも靴を脱いで家に上がった。
誰も居ない部屋は当たり前だけど灯りが点いてなくて、夏用のカーテンから差し込む光が物悲しい。
大型テレビの前に置かれた大きなソファの上に十四季を寝かせ、あたしは居間を見回した。取り込んで畳みかけの洋服、広げられた新聞、散らかったヒーローもののソフビ人形……。まるでほんの数分前まで家族の団欒があったような光景に、少し複雑な気分になる。
微妙に浮かない気持ちで立っていると、刈子が冷蔵庫を開けて中を覗いているのが見えた。冷気が漂う冷蔵庫から顔を出して、刈子は残念そうにしている。
「賞味期限が切れているものばかりですわね……。買出しに行きましょうか」
その言葉を聞いて、あたしの心にぴりっと痛みが走った。やっぱり十四季の家族はもう、この世に居ないんだ。
じゃあオレと刈子ちゃんで行こうか、と好男が刈子を誘う声が聞こえる。魅首さんはどうしますか、と刈子が小首を傾げてあたしに尋ねている。連日の騒動と今日の労働で疲労困憊のあたしは、疲れたからここで待ってる、と答えた。刈子が頷き、好男と買出しに出かけていく。数分後に両手いっぱいに袋を抱え、好男達が帰ってきた。麻のカーペットにスーパーのビニール袋が次々に置かれ、刈子が台所で腕捲りしている。
「よーし、頑張っちゃいますよっ」
「あのさ……あんまり散らかすようなことは止めとけよ」
片手鍋を探してシンク下の扉を開けている刈子に近付き、あたしは頭を掻いた。まるでこの家全体が、居なくなった家族の墓標のような気がしてならなかったからだ。静まり返った十四季の家に、賑やかなあたし達の存在はどこまでも場違いに思えた。なんとなく感傷的な気分になっているあたしの背中を、好男が軽く叩く。
「ねぇねぇ魅首ちゃんも料理しないの? オレ、魅首ちゃんの手料理食べてみたいんだよね」
「は? ……今、そーいう気分じゃないんだよ」
「そんなこと言わずにさぁー。頼むよ、一生のお願い! 」
静かな雰囲気をまるっきり無視して、軽い口調で好男が手を合わせている。そうかそうか、そんなに死にたいか。家庭科の時間に味見した奴ら全員を病院送りにした地獄の料理、とくと味わうがいい。
もうどうでも良くなってきたあたしが腹黒い笑みを浮かべて包丁を握ると、刈子がエプロンを差し出してきた。
「お手伝いしてくださるならエプロンしてください」
「これ、ここにあったやつだろ? 嫌だよ何か気味悪いし」
着用を断るあたしに、刈子は頑として譲らない。三角巾も着けろだの、意外とうるさい奴だな。渋々言われた通りにエプロンを着け、調理に取り掛かろうとするあたしの手を刈子が掴む。
「魅首さん、それ重曹です。塩はこっち」
「あ、うん――」
「じゅーそーって何ねぃ? 食べ物なの? 」
おまえは燃えるかもしれないから向こうへ行ってろ、とコンロの周りを飛び回るスィフィを居間にぶん投げるあたし。しかしそのすぐ後には、あたし自身が刈子によって台所から追い出されていた。
「大変言い難いんですけど、魅首さんが居るとまともに料理が出来ないんです。もう手伝わなくていいから居間で寛いでいてください」
有無を言わさずあたしを押し出した刈子が、お米を洗剤で洗うなんて……、とぶつぶつ言っている。だってその方が綺麗になると思ったんだよ。水で洗うだけじゃ何時まで経ってもとぎ汁が少し濁るからさ。往生際悪く言い訳しても、刈子は聞く耳持たずに料理を続けている。何を言っても聴いてもらえないか――。そう悟ったあたしは大人しく居間に行くことにした。
好男と一緒に大画面のテレビを見ていると、いい匂いが台所から漂ってきた。あとどれくらいかな、と腹を摩って舌なめずりするあたし。出来ましたよー、と刈子の食卓へ誘う声が響いた。死んでるように寝ていた十四季の頭が持ち上がり、目元を擦りながら漂う匂いに鼻をひくつかせている。
「……ここは……? 」
「刈子がおまえん家知ってるって言うから、連れてきてもらった。腹減ってるんだろ? 刈子が飯作ってくれてるぞ」
さっさと一人で移動しようとする好男の向こうを指し、説明するあたし。呆けた顔で聴いていた十四季がふらふらと立ち上がり、おぼつかない足取りで食卓へ歩いていく。倒れやしないか心配しながら後を付いていき、全員が椅子に座った。
「いただきますっ! 」
整然と並べられた御飯の前で刈子が勢い良く手を合わせる。美味しそうな匂いにつられて箸を動かすあたしの横では、十四季が茶碗に山盛りの御飯をじっと凝視していた。
「……嫌いなものでもありましたか? 」
気を遣って刈子が尋ねるけれど、返事は無い。なんだよ、腹減った……とか言ってたくせに。食べないならあたしが貰うぞ、と口を開きかけた途端、十四季の頬を涙が伝った。
驚く一同を前に、十四季の眼からぽろぽろ涙が零れる。流れる涙を、箸を握る手の甲で拭いながら、十四季は目の前の飯を掻っ込み始めた。その様子を呆れ顔で見ていた好男が我に返り、軽い冗談を言って刈子を笑わせる。
時々咽る十四季の声を背景に、夕食と言うにはまだ早い食事の時間がゆっくりと流れていった。
橙色の陽光が差し込む居間で、あたしと十四季は何をするでもなく黙って座っていた。
台所の方からは、好男と刈子が談笑しながら皿を洗っている音が聞こえてくる。向こうが楽しそうだからこそ、余計にこの沈黙が居心地悪い。かといって、十四季と話すような話題も無いし……。
廃人みたいな顔してソファに座っている十四季を横目で一瞥し、この持て余した時間をどうしようかと悩む。真黒なテレビ画面を眺めていると、十四季があたしに向けて覇気の無い声を出した。
「あの札……使わなかったんだな……」
「へっ? あ、ああ。だってやっぱり悠は良い奴だったし。これ、返すよ」
ジャージのポケットからはみ出ていた御札を掴み、それを差し出すあたし。十四季は小さく首を横に振ると、面白くなさそうに鼻に皺を寄せた。
「まだその時で無かっただけだ。……必ずその札が助けになる。取っておけ」
「そこまで言うなら持っておくけど――」
こんな御札がいったい何の役に立つっていうんだ? 精々剃刀の代用品としてムダ毛処理に使う位じゃないだろうか。黄ばんだ御札を見詰めて眉根を寄せていると、十四季がソファから立ち上がった。何処へ行くのか尋ねると、暫らく一人にしてくれ、と答えて階段を上がって行ってしまった。
家に連れ帰ったのは逆効果だったんじゃないかとあたしが思い悩んでいると、皿を洗い終わった好男がテレビの電源を入れた。沈んだ気持ちを吹き飛ばすほど軽快な音楽と共に、眉唾ものの怪しい映像が流れている。久留米里町でも観てたバラエティ番組だ。
何処で手に入れたか分からないネッシーの映像とか口裂け女のインタビュー映像を流しては、生放送で出演者がコメントをつけるんだよな。番組時間内の殆どがVTRなのになぜ生放送にしているのだろうと長年疑問に思っていたんだった。
今回も遂に発見! 吸血鬼と人間のハーフとか、高層ビルに現れた怪力男とか、実に馬鹿々々しい内容だ。でも気晴らしには丁度いいな。硬い床の上で体育座りをしてテレビを眺めるあたし。メイン司会者が嘘っぽい笑顔で今回のゲストを紹介している。刈子がハンドタオルで手を拭きつつやって来て、不思議そうにテレビを見た。
「最近はこういうものが流行っているのですか? 」
「いや、この番組はどっちかって言うと流行の間逆をいってる気が――」
きょとんとしている刈子に番組の趣旨を説明していると、ソファに腰掛けていた好男が短く声を上げた。何が起こったかと振り向くあたしに、好男は引き攣った笑顔で何でもない、と両手を振っている。それのどこが何でもないって顔なんだよ……。心の中で突込みを入れ、でもまぁ好男のことだし別にいいや、とテレビに視線を戻す。大画面に映し出された映像に、思わずあたしも声を上げた。
『先日店舗が崩壊した、あの人気ナンバーワンのレストラン。警察の発表では厨房の施設に問題があったとのことでしたが、我々は独自のルートにより真相を確かめることに成功しました』
胡散臭いナレーションと共に、監視カメラの映像らしきものが映されている。真白なテーブルに二人分の食事を並べて、一人で食事している男の姿が映っていた。そう、好男だ。開いた口が塞がらずに阿呆面晒しているあたしの前で、テレビの中の好男が人間とは思えない動きで縦横無尽にビルのフロアを駆け巡っている。
『――ご覧いただけたでしょうか。先ほどまで普通に食事をしていた男性が、まるで怪奇映画のモンスターのようにビルを破壊しています。我々は彼を『突然変異者』と呼ぶことにして、今後も彼について調査を進めていきます。請うご期待』
安っぽい効果音が鳴り、VTRが終わった。今のって好男さんですよね? と刈子が無邪気な瞳で好男に尋ねている。ソファに座っている好男の顔は血の気が引いて真青だ。細かく震えている左手に着けられた腕時計から、アズァの申し訳無さそうな声がしている。
「あまりに突然のことだったから、姿を隠すのを忘れていた――。すまない、好男」
「すまないって、謝って済むレベルじゃないだろコレ……。思いっきり顔映ってたし、あぁもう……」
好男が頭を抱え一人で悶絶している。テレビでは司会者がマイクを持って、ゲストの芸能人達一人ひとりからコメントを貰っていた。
『いやー凄いですねー。みゅー……なんでしたっけ、ああミュータントさんね。これきっとあれでしょ、新しいアメコミのヒーローか何かですよ。うん』
『これは歴史を塗り替える映像ですね! CG技術もここまで――あ、今のNGですか。すみません』
ふざけてるのか本気なのかよく分からないコメントがだらだらと続く中で、最後の一人にマイクが向けられた。明るい髪色のちょっと子どもっぽい顔立ちの女性芸能人だ。ドラマの通行人役でこいつの顔見たことあるな――。そう思っていると、その女がとんでもないことを口走った。
『わたし、この人知ってます』
『え、そうなんですか。もしよかったら詳しく――』
いきなり、女が司会者からマイクをもぎ取った。驚いている他の芸能人を置いて、女がカメラにつかつかと歩み寄っていく。その顔には、狂気染みた不敵な笑みが。
『観てる? 好男! あんたのことよ! ゴールデンタイムの全国放送であんたの素顔晒してやったからね! このあたし相手に二股かけた罰よ! 観てるんだったら今すぐ電話しなさい! さもないと、あんたの家まで押しかけて追加取材してやるんだから! 』
髪を振り乱してカメラにしがみ付き、女があることないこと暴露している。顎が外れるほど口を開けたまま振り返って好男を見ると、好男も同じような表情でフリーズしていた。おろおろと胸の前で手を組んで心配している刈子に声を掛けられ、好男が弾かれたように立ち上がる。
「ごめん、ちょっと電話してくる」
頼むから日没までに話が纏まってくれ、と呟きながら好男は玄関を出て行った。スタッフにカメラから引き剥がされながらも未だ叫び続けている女の姿が消えて、コマーシャルが映し出される。変な空気の中で呆然としていると、刈子が話しかけてきた。
「好男さん、大変そうですね」
「そ、そうだな……」
そしてまた沈黙。妙な雰囲気が渦巻く居間で、心ばかりが焦ってしまう。どうしたものかと目を泳がせるあたしに、刈子がいつもと違うトーンの声で尋ねてくる。
「あの、魅首さんに訊きたいことがあるんです」
改まった調子でいったい何を訊くつもりなんだろう? 答えられることならなんでもどうぞ、と促すと、刈子が思いつめた表情で口を開いた。
「魅首さんは、知らない人に襲われて、闘う事――怖くないんですか? もし怖くないのなら、どうして恐怖を克服できたのか、教えてほしいんです」
いきなりこんなシリアスなことを尋ねられるとは思っていなかった。深刻そうな顔でじっと答えを待つ刈子を見て、あたしは言葉を詰まらせる。
「え、っと――。あ、あたしだって怖いよ。うん。滅茶苦茶怖い。最初に襲われたとき――ほら、さっきテレビに映ってたアレ。あの時なんか怖くて腰が抜けちゃったんだよ。……情けないよな、あはは」
気の抜けた笑い声を上げ、あたしは一度言葉を切った。あんまり力になれなくてごめんな、と呟くあたしに、刈子は真剣な眼差しを向けている。
「では、どうして怖いのに闘えるのですか? 」
「それは――」
更に踏み込んだ質問に、あたしは自分自身について考えを巡らせた。正直、あんまり自分のことについて考えるのは得意じゃ無い。周りで起こる事にああだこうだ、と文句を言うのは得意だけれど、そう言う自分はどうなのかなんて耳が痛い言葉は聞かない振りしてきたし。
刈子に尋ねられて初めて、あたしは何故自分が命を危険に晒してまで、よくわからん連中と闘っているのか考えた。
「……なんつーかさ。成り行きなんだよ。家出しようとしたら電車の中でスィフィと出会って、勝手に契約したことになって。契約を果たさなきゃずっとこのままだって言われて。家出先のアパートの管理人が好男で。そんで、美味しい御飯食べてたら急に命を狙われてさ。その時――」
あたしの視界に、操られていた女の子の姿が浮かんだ。そう、あの子を助けたいと思ったんだ。あの子を操っていた嫌な奴を伸してやる、とも思ったっけ。そう伝えると、刈子が長い髪を揺らし微笑んだ。
「魅首さんは、お優しいのですね」
「はぁ? ち、違うし。全部自分のためなんだってば。あたしが納得するためなの」
優しいだなんて言われてむずがるあたしの前で、そんな謙遜なさらなくっても、と刈子がくすくす笑っている。……どーも、馬鹿にされているようにしか感じないんだけど。こんなこと思うあたしは擦れてるのかな、と思いつつ、刈子に同じ質問をしてみる。
「じゃあ、刈子は? おまえは闘うの怖くないわけ? 」
笑っていた刈子が黙り、暫らく置いて独白を始めた。
「わたくし……怖いんです。天啓に従っていれば、幸福な未来を手に入れられると信じていました。……いえ、今も信じてはいるんです。でも、絶対的な信仰じゃない――。図書館で視た未来の像の余りの禍々しさに、どうしても怖気づいてしまうんです。こんな状態では巫女なんて務まらないのに――」
「……そっか」
胸の前で手を合わせて俯く刈子。その華奢で儚い姿は、今にもプレッシャーで押しつぶされそうに見えた。元気そうに振舞っていたけれど、こいつもこいつで色々悩んでたんだな。微妙に電波な部分は聞かなかったことにして相槌を打つあたしに、刈子は話を続けている。
「それでも、闘うのを止めるわけにはいかないんです。だってわたくし、わたくしは……。この『世界』を守りたいんです。皆さんのことも」
祈りの形に組んだ刈子の手を眺め、あたしは複雑な心境だった。刈子が闘いから逃げられない理由、それは刈子が自分を巫女だと思い込んでるからじゃないか? もし刈子が自分は普通の女の子だと理解したら、今の決意は脆くも崩れ去ってしまうんじゃないか。そうなったとき、無防備になったこいつを誰が守ってやるっていうんだ? 心の中を様々な疑問が渦巻き、あたしは刈子を見詰めた。
誰も守ってやれないなら、あたしが守ってやろうじゃないか。幻術しか使えないくせに、何時の間にかあたしはそう決意していた。刈子だけじゃない、十四季も、好男も、そしてあの柚風って女の子も、あたしが出来得る全てを以ってこのイカれた状況から守るんだ。どうせスィフィと結んだ契約の内容が分からなくって一生一般人に姿が見えない身体なんだし。
ふっきれた思いで、あたしは刈子に微笑み掛けた。
太陽が沈み、空が暗くなっていく。