第十九章 不協和音
気持ちよく眠っていたあたしは、誰かに肩を揺さぶられて目を覚ました。
せっかくイルカと一緒に海を泳ぐっていういかにも夏らしい良い夢を見ていたっていうのに……。叩き起こされて不機嫌絶頂なあたしは半開きの眼で辺りを見回した。くだらないことで起こしたんだったら、責任取らせてやるからな。
視界の中の居間は窓から太陽の光が差しこんでいて明るい。ここから時計は見えないけど、とっくに夜は明けているみたいだ。何時の間にか蹴り飛ばしたタオルの上で、刈子が眉を八の字にして縋るような目であたしを見ていた。まさか、また敵が襲ってきたのか? そう思った途端、朦朧としていた意識が急に覚醒する。寝そべっていた状態から跳ね起きたあたしの耳に、刈子の困り果てた声が聞こえた。
「寝ているところを起こしてごめんなさい。わたくしだけではどうしていいか分からなくて……」
「何だ? 敵なのか? 」
険しい顔して尋ねるあたしに、刈子は首を横に振る。その背後、食卓の向こう側に半透明になっている悠と何時の間にか元気になった十四季の姿が見えた。とても言えた状態じゃなかった十四季の左目が、ちゃんと元に戻っている。
文句も言わずに治療しといてくれたんだ、好男――。思わず感激しているあたしの前では、刈子がおろおろした様子で十四季を盗み見ている。敵襲じゃないなら何なんだよ、と言いかけるあたしを、十四季が左手の平で制止した。
「下がっていろ……。この邪悪なる穢れた魂は俺が浄化する……」
穢れた魂……? もしかして悠のことか。そう言えば昨日の夜、十四季があたしに向かって同じ言葉をぶつけていたような……。あたしとそこのぼさぼさ髪の幽霊は同列ってことかよ。ったく、本当にどこまでも失礼な子どもだな。イラつくあたしに、刈子が心配そうな声を掛ける。
「――武宮さんの様子がさっきからおかしいんです。穢れた魂とかよく分からないことを言ってますし、誰も居ない方向に一人で話し掛けたりしてますし……。もしかして目以外に見えない所も怪我をしたんじゃないでしょうか。例えば脳とか……」
そう心配する刈子に、危ないから下がっていろ、と十四季が命令している。うーん、この状況……十四季には悠が見えてるけど、刈子には見えてないってことでいいのかな。
それにしても、普段は巫女の務めとか何とか言って博愛そうにしてる刈子の言葉、さり気無く酷かったな――。あたしが物思いに耽っている間に、十四季が上着の内ポケットから黄ばんだ紙を取り出した。
朱色の文字が書いてあるってことは、御札か。それっぽいアイテムまで常備しているとは――さすが十四季、考えることが違うな。放っておいても大丈夫だろうと、あたしは再び特大タオルに包まった。そのまま二度寝しようとするあたしの鼻先を黄色い何かが掠めた。硬い音がして床に亀裂が入る。
「――! 」
跳ね起きて何が床に刺さったのかと見詰めると、さっき十四季が取り出した御札だった。ぺらぺらの紙が、鋭利な剃刀みたいになってぴかぴかの床に刺さっている。この床って張り替えるのにいくら掛かったっけ……。あたしの脳裏にホームセンターのリフォーム値段表が浮かんで消えた。ま、いいか。ここは好男の家なんだし。
それよりも、紙切れが金属みたいになってることの方が重大な事件だ。怯える刈子をあたしの背後に押しやり、おそらくこの事象を起こしている張本人であろう十四季を見る。当の本人は床を傷めたことなど気にもせず、片手に大量の御札を持って悠と対峙していた。
よく見ると、あたしのすぐ横の床だけじゃなく、壁にも家具にも御札が刺さっている。なんかとんでもないことになってるな……。呆然としていると、十四季が忌々しそうに舌打ちする音が聞こえた。悪態を吐いてるみたいだけど、小声過ぎてよく聞こえない。好男の財布のためにも、これ以上十四季に破壊行為をさせるわけにはいかないな。タオルを置いて立ち上がったあたしは、十四季の肩に手を置いた。
「おい、何してんだよ」
「……彷徨える穢れた魂を浄化してる」
また勿体つけた言い方を……。呆れ気味に片眉を上げながら、あたしは目の前に居る悠を指した。
「おまえの言ってる穢れた魂とやらって、もしかしてこいつのことか? 」
十四季が頷き、そいつ以外に誰が居ると言うんだ、とか言っている。ああ、やっぱり。軽く溜息を吐きながら、あたしは十四季に悠のことを紹介した。
「こいつは幽霊だけど、好男に恩返しするためだけに存在してるから悪い奴じゃないよ。ていうか、さっきはあたしのこと助けてくれたし、むしろ良い奴――」
「危ない! 」
折角説明してやってたあたしを、十四季が横に突き飛ばした。何するんだこの糞ガキ――! と思わず頭に血が上って叫びそうになったけど、そんなこと言ったらこいつの意外に繊細な心がまた傷ついちゃうかもしれない。しょうがないから、今の無礼は菩薩のように広い心で許してやろう。
壁に打ち付けた頭を摩りつつ十四季を睨むと、こっちの怪我など気にも留めず悠に向けて謎の御札を次々に投げつけていた。硬質化した御札がガラスケースを突き破り、好男ご自慢のコレクションがばらばらと床に落ちて壊れていく。やばい、はやく十四季を止めないと。でも言っても聴かないだろうし、これはもう実力行使で行くしかないな。
そう思ったあたしは、手裏剣みたいに御札を投げる十四季を後ろから羽交い絞めにした。
「――離せ! 悪しき霊を駆逐するのが武宮の務めなんだ! 」
「だから、あいつは敵じゃないって言ってるだろ! 少しは人の話を聴け! 」
「――――うるさいうるさいうるさいっ! 何も知らない癖に偉そうに指図するな! 」
お互い平行線状態の会話を、刈子と半透明になっている悠が戸惑った表情で聴いている。何も知らない? それはおまえが何も言わないからだろ――。本当に面倒臭い奴だな、と辟易するあたしの気も知らず十四季が手を振り切った。
「あ、おいっ」
「破ァ! 」
十四季の右手の平から暗黒爆錬武闘とは違う、何か青い光みたいなものが出て悠に当たった。うっ、と悠が苦しそうに顔を歪めて身悶えしている。何だ今の――新しい能力か? 唖然としているあたしの元を離れた十四季が一直線に半透明の幽霊に駆け寄り、青く輝く右手を翳した。既に半透明だった悠の身体が更に透けていく。
十四季の奴、本当に除霊できるのかよ。驚いている間にもどんどん悠の存在は薄くなっている。いくら幽霊だからって志半ばで強制的に抹消されるのは可哀想じゃないか。何時の間にか勝手に身体が動き、あたしは十四季から悠を庇っていた。青い光を遮るあたしに十四季が眉根を寄せて拳を握る。
「どうして……其れはこの世から除去すべき者なのに……」
半泣きの潤んだ目で睨まれ、あたしは十四季を睨み返した。背後では悠が弱々しい声で礼を言っている。十四季の拳がさらにきつく握り締められて、その口が悔しそうに真一文字を結んだ。どうして……、と十四季がもう一度同じ言葉を繰り返し呟く。
今にも涙が零れそうな十四季を警戒していると、急に踵を反して廊下を走っていってしまった。扉の閉まる音から察するに、どうやらトイレに閉じこもったみたいだ。何か後味悪いけど、これで一件落着かな。ふぅ、と安堵の溜息を吐いていると、刈子と眼が合った。眼鏡の位置を直して刈子が心配そうな声を出す。
「えっと……今のは何だったんでしょうか……? 武宮さん、やっぱりどこか具合が悪いんじゃ……」
トイレから聞こえてくる泣きじゃくる声を気にしながら、おろおろと居間を見回す刈子。見えない何かに怯えているのか、視線が泳いでいる。まぁ、肝心の悠には全然眼が行かないんだけど。あれだけ好き勝手に暴れられるなら元気だろ、と刈子に返して、何も見えなかったのか? と逆に訊き返す。
「見えるも何も、わたくしと魅首さん以外居間にいる人は居ないですよ」
少々むっとした様子で刈子が唇を尖らせた。ってことは、刈子にはあたしと十四季が急に仲間割れしたみたいに映ってたってことか。また面倒なことになったな……。どうやって刈子に悠の説明をしようかと悩んでいると、刈子がすっと立ち上がった。
「わたくし、武宮さんのところへ行って来ますね。原因は分かりませんが深い哀しみを抱えているようなので……業の枷を共に背負うのも巫女の務めですから」
「いや、今は構わないほうがいいと思うけど――」
あたしの制止も聞かず、刈子は嗚咽の聞こえるトイレへ駆け足で向かって行ってしまった。初めて十四季と会ったときのことと言い、刈子と十四季はあんまり相性が良くないんじゃないかと思うんだけど……。
まぁ、そもそも十四季と相性良い奴なんてそう居ないだろう。……ていうか、今仲間になってる奴って、あたしも含めて付き合い難い奴ばっかりなんじゃないか?
気付いちゃいけないことに気付いて自己嫌悪に陥ってるあたしの背後から、神経逆撫でするような笑い声が聞こえてくる。
「うっひゃー、ちょっと見ない間にスタイリッシュなリビングが超前衛的になってるねぃー! こりゃヨッシィが見たら驚くぞぉー」
悪い意味でな……、と心の中で付け加え、あたしは振り向いた。どうか寝る前に見た青年のスィフィは只の悪い夢でありますように――と薄目で空中に浮かぶ広告を見る。そこにはやっぱり、すっかり成長して更に生意気そうになったスィフィの姿があった。脱力して溜息を吐くあたしの顔の周りを蛾みたいに広告が飛び回る。
「ん? どうしたの魅首ぅー。腕痛いの? ヨッシィがもうすぐ仕事から帰ってくるから、治してもらうといいねぃ」
さっきから好男は何処にいるんだと思ってたけど、仕事に行ってたのか。この非常事態にも関わらず律儀な奴だな。まぁ昼間は一般人にも見える身体に戻れるんなら、普段通りの生活をするのかな……って、そうじゃなくて。
「おいスィフィ、何でおまえ急に成長して大人になってんだよ。それに広告飛ばしたり、広告の中から変なリボン出したり……もしかして今まで能力使うの面倒臭がってたのか? 」
問い質すあたしに、吊り広告が空中でぴたりと止まった。中ではしゃいでいたスィフィがこっちを向いて首を横に振っている。
「違うねぃー。ほら、最初に会った時と、アズァちゃんと話してる時に言ったじゃん? 『あるお方』に呪われて、能力を使うのに必要なものを取り上げられちゃったって。あ、でもでもぉー、魅首はそんな昔のこと覚えてられないかなぁー」
「……そーいえばそんなこともあったっけな」
一々癪に障る言い方をするスィフィに、あたしは渋い顔で返事をした。悔しいけど、確かに忘れてた。でもそれとこれと何が関係してるってんだ? 納得いかないあたしに、スィフィが輝くほど満面の笑みで続ける。
「なんと! その取り上げられたものが、あのリュックサックの中に入ってたのねぃー! いやー本当に持ってたのがスォン先生でよかったねぃ、これがウェジュとかレェンだったら絶対取り返せなかったしぃー」
今頃スォン先生大慌てしてるだろうねぃ、いい気味だねぃー、とスィフィは腹を抱えて笑っている。なんて都合の良い話だ……と呆れるあたしに、スィフィが急に真顔で人差し指を突きつけた。
「これでおいらの力は元に戻ったねぃ。まだ『あのお方』の呪いが掛かってるから完全復活とまではいかないけど――。今までよりずっとずっと強くなったことだけは保障するねぃー。だから魅首、ちゃんと契約書に書かれてる責任を果たしてもらうよぉ」
契約書、責任。スィフィの発した言葉に、あたしの中で半ば封印していた記憶が蘇った。そうだ、電車の中で契約した内容をきちんと果たさない限り、あたしはずっと日常に戻れないんだ。何としてでもこいつから解放されたいけど、具体的に何をすればいいのかは未だに分かってない。尋ねてみても、天邪鬼なスィフィのことだから絶対教えてくれないだろう。眉間に指を当てて考え込むあたしの周りを再び吊り広告が飛び回り始める。
「ほらほら返事はぁー? 黙ってたらだめだぞぉー」
「……ったく……はいはい。わかりましたっつーの。それより強くなったって、どーいうことだよ? 好男とアズァみたいに連携して戦えるようになったってこと? それとも十四季みたいに身体強化できたり一発凄いのぶちかませるようになったってことか? ……まさか、刈子とテンキィみたいに未来が見えるようになったってのじゃないよな」
これ以上幻術みたいな使いづらい能力を身に着けても、あたしじゃ使いこなせないし……。今までに使えるようになった能力が透明化とかだっただけに、不安は一層大きい。新たな能力の詳細を危惧するあたしに、目の前を漂う吊り広告の中からスィフィの暢気な声が聞こえる。
「さぁ? 異世界で使えるようになる能力はおいらと魅首、両方の影響を受けてるみたいだしぃ。どんな能力が芽生えるかは魅首次第ってことだねぃ。ま、頑張ってぇー」
「なっ――なんだよその投げ遣りな態度はっ! 一応契約してるんだから、もっと親身になれよっ」
至極当然な理由で憤慨するあたしに、広告の中の定規に寄り掛かっていたスィフィが頭を上げる。
「やだなぁ、これ以上どう親身になれっていうのねぃー。おいらはとってもフレンドリーにしてるのねぃ」
嘘つけ、好男やアズァと喋ってるときのほうがよっぽど打ち解けてたくせに。宙に漂う吊り広告の中で悠々自適に過ごしているスィフィに無言の抗議をしていると、玄関の鍵が開く音がした。好男が帰ってきたらしい。時計を見るとまだ一時四十分だけど、土曜でもないのにこんな昼間に帰ってこれるなんて、いったいどんな仕事をしているんだ。
好男の職種に疑問を抱きつつ、あたしは居間を見回した。さっき十四季が悠を除霊しようとしたせいで家の中はぼろぼろだ。これを好男が見たら……。まずい、実にまずい。
玄関の扉が開く音がして、ただいまー、と好男が何も知らずに言っている。この惨状をなんとかするべきだけど、どうすればいいかさっぱりわからない。考えすぎて思考が混乱してきたあたしの前を刈子が走って通り過ぎた。
「おかえりなさい、好男さん」
「お、刈子ちゃんがお出迎え? 嬉しいなー」
「はい、疲れた人を癒すのが巫女の務めなのです。鞄、お持ちしますね」
なんかまた電波な事言ってるな、刈子……。そもそも巫女って神社で神事を行う人のことを指すんじゃないのか? とかぐるぐる思考を巡らせているあたしに、刈子が素早く目配せしてウィンクした。
「あぁいいよいいよ、この鞄重いから。刈子ちゃんがそう言ってくれるだけで心がいっぱいだよ」
好男がやんわりと申し出を断るが、刈子は一歩も引こうとしない。そこでようやく、あたしは刈子が考えていることを理解した。なるほど、この状況を誤魔化すには好男を家に入れなければいいんだ。良い考えだ、と刈子に共感するものの、自称巫女がこれでいいんだろうか……。
もやっとした気持ちで悩むあたし。玄関では、好男が鞄を足元に置いて刈子と楽しそうに世間話をしている。二人とも笑顔だけど何だか怖い――。それに、何時までも立ち話作戦が通じるわけでもない。はやく好男を家から追い出す口実を見つけなくては。
普段使ってないところの脳までフル活用して、あたしはついに思いついた。そういえば昨日、刈子が図書館に行こうと言っていたじゃないか。これなら今好男を誘っても唐突さをカモフラージュできるだろう。即座に立ち上がると、あたしは玄関で談話している好男と刈子に提案した。
「なぁ、もう仕事終わったんなら図書館行かないか? いつ襲われてもおかしくない状況だし、『涙を流す』ってことについて詳しく調べておいたほうがいいと思う」
「魅首さんの言う通りですわ。お疲れのところ申し訳ないですけど、一緒に図書館に行ってもらえますか、好男さん? 」
さっきと真逆のことを言う刈子に、好男は二つ返事で快く引き受けている。
「刈子ちゃんと魅首ちゃんが言うなら、そうしようか」
「おし。じゃー二人は先に行っててくれ。あたしは十四季を引っ張り出してくるから」
好男にばれないように刈子に合図を送ると、刈子も頷いて好男を外に押し出した。
「見てください好男さん、今日は空がとっても青いですよ。こんなに綺麗な空を見ていると創造主の偉大さがよくわかりますね」
「青……といえば、刈子ちゃんが着てるスカートも青だね。よく似合ってて可愛いよ、もうちょっと裾上げてみたらもっと可愛くなると思うんだけど」
「まぁ好男さんったら、鋭い洞察力ですね。まるで第二の使いみたいですわ」
聞いてるだけで頭が痛くなる会話を繰り広げながら、好男と刈子が遠ざかっていく。ちゃっかり悠も付いて行ってるし。好男が振り返らないことを確認して、あたしは十四季が閉じ篭っているトイレに向かった。まだ扉越しから嗚咽が聞こえている。よく見ると、鍵が閉まってない。感情が先走って閉めるのを忘れたのか? それとも、あの僅かな時間に刈子が十四季の心を開かせたのか。
折角閉じ篭ってるのに鍵が開いてるんじゃ意味無いじゃないか、と思いつつ一応ノックをする。
「今から図書館行くから。早く出て来いよな」
どうせ返事も無いだろうと諦め気味に声を掛けると、意外にもすぐ扉が開いた。泣き腫らした赤い目を擦りながら、十四季が中から出てくる。確かに無言で返事が無かったけれど、これは予想外の反応だ。驚いているあたしの前で、十四季はすたすたと玄関へ歩み去っていった。何も言わないのがちょっとムカつくけど、何時までもトイレに立て篭もられるよりはマシか。
傍らに浮かんで軽口を叩いていたスィフィ入りの吊り広告を掴んでファイルに入れなおすと、あたしは好男達の後を追って図書館へ向かった。