Another World the 3rd chapter
頼りない光を投げかける蛍光灯の下、刈子と呼ばれた少女は紅太の力から解放されてアスファルトの上に膝をついた。
故郷から強大な力が流れ込んでくることから、紅太がまだ涙を流していることが解る。けれどその力を使おうとする意思が感じられない……。押さえ込むなら今しかない。
血に染まったバンダナの中で、スォンは重ねた両手を前に突き出し幾つかの言葉を唱えた。紅太の身体から溢れていた力がスォンの周りに収束し、故郷へ続く道を創り出す。目の前ではお下げ髪の少女が身を起こし、息を整え始めている。彼らに反撃されないうちに、紅太を安全な場所へ連れていかなくては。
濃紺の空間に灰白色の歪みが生まれ、紅太とスォンを包み込んだ。身体全体が歪みに沈み、空間が開いた傷口を元に戻そうと塞がり始める。完全に空間が閉じようとするその一瞬間に、膝をついていたお下げ髪の少女がよろめきながらも立ち上がり、こちらに手を伸ばす様子が見えた。
星明りすら無い真暗闇の中、獣の遠吠えが聞こえる町外れに灰白色の歪みが現れて二つの生き物を放り出した。頭を下に落ちていたスォンが空中で重心を取り直し、放心状態の紅太を抱えて着地する。目は開いているけれど何も見ていない紅太の頬をスォンが叩く。
「紅太、しっかりするんだ! 」
遠くで逃げ出した家畜の鳴き声がするだけで、紅太は沈黙している。心を閉ざして涙を流すだけの紅太を見て、スォンは悔しそうに唇を噛んだ。暫らく休むしかないな……、と呟き、真暗闇の中を迷いもせず紅太を抱えて進んでいく。一度も躓くことなく歩みを進め、スォンは一軒の民家に入っていった。
重苦しい暗黒を、部屋の中央に灯る蝋燭の炎が押し退けている。ちらちらと揺れる蝋燭の灯りに照らされていた赤いドレスの女が、民家に戻ってきたスォンと紅太に冷たい視線を投げ掛けた。
「……なんだ、戻ってきたの」
ぐったりとした様子でスォンに抱えられている紅太を一瞥し、女は残念そうに顔を歪めた。隣に佇む黒い人影に指を鳴らして合図をして、受け取った薄桃色のグラス入りの玉虫色の酒を呷る。一息に酒を飲み干した女の口紅を塗った唇から色の付いた吐息が漏れ、空中に複雑な幾何学模様を創り出した。背後に立つ人影にもう一杯酒を要求し、女が机の上で足を組み直した。その刺々しい視線が、紅太を寝具に寝かしつけるスォンに向く。
「あんたもさぁ、そんな使えないガキとの契約なんかさっさと破棄しちゃって、もっと意志の強い奴と組んだら? 一人も反逆者を狩れてないのって、あんた達だけだよ? 弱っちいガキを一人前に育てるなんて寝惚けた飯事いつまで続けるつもり? ウェジュの野郎の逆鱗に触れて殺されるかも知れないってのに」
背後の人影の差し出す酒を呷り、女がスォンに息を吹き掛ける。甘やかな匂いを発する鎌の形をした吐息がスォンの首に掛かり、掻き消えた。赤いドレスの裾を揺らして足を組みかえる女に、スォンは質問で返す。
「そういえば、ウェジュ団長はまだ城に篭ったままなのか? 」
「あれからずっと女王陛下の傍に居られるようだ。陛下自らのご要望らしい」
赤いドレスの女の後ろに立っていた人影が口を開いた。揺らめく炎に照らされたその姿は漆黒に染まり、身体の奥から薄らと見える赤い光が無ければ周囲の闇と見分けが付かない。赤い光を内包する人影の言葉に、茶髪の女が舌打ちをして窓の外を見た。三角の窓枠に切り取られた景色は黒一色のようだが、よくよく見ると地平線辺りが白んでいる。
「ほんと、良いご身分よね……。どうしてあたし達は城に入れないのよ。ウェジュの野郎、あの中で贅沢三昧してるんでしょーね。こっちは灯りも満足に無いあばら家で安酒飲んで過ごしてるってのに……ムカつくったらありゃしない」
「よせ、霞恋。団長も気苦労が多いんだ、これ以上負担を掛ける様なことは――」
背後から窘めの言葉を掛ける人影に、霞恋と呼ばれた茶髪の女が素早く振り返って鋭い眼光を飛ばした。真赤な付け爪を付けた手が人影の襟首を掴む。
「何よ、カンツァ。あんたもウェジュを庇うわけ? ……ふん、やっぱりわたしなんて異世界で使う都合のいい器でしかないのね。よーく分かったわ」
「そ、そんなつもりでは……」
カンツァと呼ばれた人影を突き飛ばし、霞恋は机から降りた。うろたえるカンツァに空になったグラスを投げつけ霞恋が声を荒げる。
「あームカつく! ムカつくわっ! 何が『光の騎士』よ、何が『女王を護る騎士団』よ! 皆自分の損得しか考えてないじゃない。それなのに偉そうにしやがって、ウェジュの奴……! 『あの少年達はレェンに任せることにする』? ふざけるんじゃないわよ! 」
静まり返った暗闇に猛る声を上げ、霞恋の着る真紅のドレスが蝋燭の灯に揺れる。折れそうなピンヒールで床を刻むように進み、扉の前で振り返る。ガラスの破片で切った額を押さえるカンツァに鋭い視線が向けられ、甲高い声が黒い影の名前を呼んだ。
「カンツァ! 早く外套を持ってきて。異世界に出掛けるわよ」
傲慢に言い放って腕を組んだまま仁王立ちする霞恋に、額から蒼い血を流すカンツァが怯えた眼を向ける。反抗もせず、黙って赤い外套を腕に掛けると黒い影は赤い女の傍に寄り添った。胸の内側に燃える炎の勢いが強くなり、黒い身体から透けて見える。広げられた外套に乱暴に腕を通すと、霞恋は民家の扉を蹴り開けた。
「レェンなんて奴に手柄を横取りさせるもんですか……。あの武宮ってガキと魅首って雌豚は、わたしの獲物なんだから」
暴言と共に扉が閉まり、二人の足跡は遠のいていった。静かになった民家の中、紅太を介抱していたスォンが一人溜息を吐く。虚ろな眼で天井を見詰める紅太のバンダナを外して薬草を貼ると、その頭を撫でた。血で固まった猫毛の髪が、指の間できしきしと引っ掛かる。
この世界はこれからどうなってしまうのだろうな――。冷たいベッドに横たわる傷だらけの紅太にそう呟いて、同じ傷を負っているスォンが暗闇の空を仰いだ。