第十五章 蟹パンを齧りながら
丑三つ時の街をコンサートホールに見立て、オーケストラの楽曲が響く。初っ端から激しい曲を奏でる十四季に、あたしも一暴れしてやろうとジャージの袖を捲り上げた。
ひんやりとした空気が腕に触れ、感覚が研ぎ澄まされる。正面から近付いてくるリュックサックを背負ったバンダナの少年が、急に足を止めてその場に仁王立ちした。
何をする気なんだ?
少年の動向を警戒しつつ、音を立てないようにこっそりと近付く。首筋に手刀でも当てて気絶させるかと構えるあたしの視界にバンダナ少年の全貌が映る。
細い身体に不釣合いな巨大なリュックサックを背負い、気弱そうな顔を真直ぐ十四季に向けている。握り締めた両拳は小刻みに震えていて、必死に勇気を振り絞ってるって感じだ。
こんな子どもをいきなり殴るのは気が引けるな……。攻撃を躊躇するあたしの前で、バンダナの少年が胸いっぱいに空気を吸い込んだ。
「ボクの名前は漆林紅太っす! 蟹の殻を操る能力を持ってるっす! 一人前になるための最終試験として貴方達と勝負しに来たっす! 」
少年の宣言に、見えないオーケストラ相手に指揮をしていた十四季の手が止まった。音楽がぷつりと途絶え、バンダナ少年の甲高い声だけが静かな街にこだまする。空中に手を挙げたまま、眉を顰めて十四季がゆっくりと振り返った。
「……蟹? 」
「蟹っす! 」
気だるい声色で尋ねる十四季に、紅太と名乗ったバンダナ少年はリュックサックから蟹の鋏を取り出して差し出した。まるで水戸黄門のドラマで印籠を翳すような感じで。自信満々に。
成程、磯の香りがしたのはこのせいだったのか。好きな食べ物ナンバーワンの蟹の匂いを嗅ぎながら、使えなさそうな能力だな……と少年を残念な気持ちで眺めるあたし。戦闘を前提にあたし達のところに来たこの少年は敵に間違いないけど、見た目的にも能力的にも大したことなさそうだ。
蟹がぎっしり詰まっているらしいリュックサックを置いていくなら見逃してやってもいいかな。とか勝手に決め付けて蟹をカツアゲしようと企むあたしの耳に、少年の衝撃的な台詞が飛び込む。
「こっそり近付こうとしても無駄っす! お姉さんの位置は、胃の中の蟹で感知できるからバレバレっす! 」
「はっ? 」
少年の自信満々な意味不明の言葉に、思わず声を出してしまった。音を立てたら透明化の意味が無い。慌てて、でも足音を忍ばせて移動したあたしを、バンダナ少年が指差す。ど、どうしてこいつはあたしが居る場所が分かるんだ?
もしかしてスィフィが怠けてるのかと、吊り広告を挟んだファイルを覗き込む。黄ばんだ広告紙の中で、あらぬ疑いを掛けられたスィフィがぶんぶん首を振っている。
「ちゃんと協力してるもんねぃ! 疑わないで欲しいねぃ」
「そんな……じゃ、何であいつは……」
出来得る限りの小声で囁き合うあたしとスィフィ。十四季が気を取り直して再び演奏を開始したから、これくらいの声は聞こえないはずだ。そっと移動するあたしを、またまた少年が指差す。
おいおい……どーなってんだよ、全く……!何が起こってるのか解らなくてストレスのあまり頭を掻き毟りそうだ。苛々して歯軋りするあたしに人差し指を向けた少年から、さっきの甲高い声とは違うやけに熱血な声が聞こえてくる。
「あーあー。聞こえているかっ! スィフィ、それにアズァにテンキィにクゥイ! 我輩だっ!熱き血潮滾る教育員スォンだ! 知っての通り、我輩達は女王陛下の為に諸君の魂――ぶっちゃけると命を狩りに来ている! 」
少年の頭辺りから聞こえる暑苦しい声と言い回しに、鼓膜がびりびり震える。こっちに居る奴の名前を全部知ってるってことは、全員と知り合いってことか?
疑問符を浮かべるあたしの横で、ファイルに挟んだ広告から、あの教師故郷から異世界まで追いかけてきてしつこいねぃ……とスィフィが愚痴っている。
こいつも不良学生と呼ばれたクチか……。ぶつぶつと文句を垂れるスィフィにあたしが同属嫌悪の感を抱いている一方で、少年の被るバンダナからは暑苦しい話が続けられている。
「しかぁし! 我輩はこのいたいけな未来ある少年をあまり危険に晒したくないのだ! というわけで、勝負をする前に一寸ハンデキャップをつけさせてもらった! 」
熱い口調で演説するスォンとやらの話に耳を傾けていると、少年がいそいそとリュックサックからチラシを取り出してあたしの方へ向けた。赤と青のカラフルなチラシにあたしの眼が釘付けになる。
「そ、そ、それは……っ」
情熱的なハ短調の旋律を背景に、あたしはピザ屋のチラシに向かって間抜けな声を上げた。チラシのセンターを陣取る蟹チーズピザの写真。その隣にあるのはサイドメニューの蟹クリームコロッケと本物の蟹を練りこんだ惣菜蟹パン。あたしの脳裏に、数時間前に食べたそれらの味が蘇る。
そう、とっても美味しかった。沢山食べた。だって……蟹大好きだから。
「スォン先生に言われた通り、宅配ピザの料理に蟹の殻の粉末を入れておいたっす! これでお姉さんの透明化も恐くないっす! 」
もやしみたいに貧弱な少年が大声で虚勢を張り、リュックサックの重みでよろけた。大好きな蟹を食べたことが裏目に出たショックに悪酔いしつつも、こんな弱そうなガキに負けてたまるかと妙なプライドが頭を擡げてくる。
透明化が意味無いだって? ……だったら、正々堂々腕っ節で勝負してやろうじゃないか。
腕捲りをして拳を握り、スィフィの入ったファイルをジャージの背中側に挟む。こうなったらもう子ども相手でも容赦しない。十四季の奏でる音楽に呼吸を同調させ、あたしはバンダナの少年目掛けて一直線に走り出した。
「ぐっ……! 」
少年に向けて拳を振りかぶった瞬間、腹部に激痛が走った。単なる胃痛じゃない……見えない力で胃と腸が背後から引き止められ、背骨を圧迫している。
「なんだこの力は……っ」
無理矢理動こうとすると内臓が破れそうだ。この感じ、胃が引っ張られてるんじゃない。胃の中身が固定されてるんだ……! 戦慄するあたしの眼に、バンダナの少年がこちらに手を翳す姿が見える。
「だから始めに言ったっす……ボクの能力は、蟹の殻を自由に操ることだって」
右手をあたしに翳したまま、少年が左手でリュックサックのジッパーを開く。その中からは、大量の蟹の殻が。普段は蟹の身を取ったあとのごみ程度にしか思ってなかった蟹の殻が、研ぎ澄まされたアーミーナイフのように見える。なんてこった、まさか蟹が原因で死ぬなんて……。
宙に浮く蟹の鋏を見詰め絶望しかけるあたし。ふと、後ろから聞こえてくる音楽から、それを奏でる十四季のことを思い出した。そうだ、十四季はずっと寝てたから蟹チーズピザも蟹クリームコロッケも蟹パンも食べてない。この場でバンダナ蟹少年に対抗できるのは十四季しかいない。
「十四季! 頼む、暗黒爆錬武闘でなんとかしてくれっ! 蟹を食べたから身動きできないんだ! 」
身体を捻って助けを求め、あたしは全力で叫んだ。馬鹿々々しい台詞に我ながら笑っちゃいそうだ。僅かに動いただけなのに、猛烈な痛みが胃を襲う。あまりの痛みに足の力が抜けそうだけど、今へたり込んだら間違いなく死ぬから気力で頑張るしかない。内側から胃が破れて死ぬなんて冗談は悪い夢の中だけにとどめておきたい。
「あんまり動いちゃだめっす! お腹の中が破れちゃうっすよ! 」
苦痛に顔を顰めるあたしに、バンダナの少年が慌てた様子で声を掛けた。いや、もうこの感じだと破けてるって……。脂汗を流しながら腹部を押さえ、浅い呼吸を繰り返す。昼間の一件からして出血はヤバイっていうのに……。
スィフィは大丈夫かとファイルを取り出すと、案の定苦しそうに広告の中を七転八倒していた。悲鳴を上げれるってことはまだ元気ってことだな。
時間の余裕があると少し安心するも、十四季からの返事が一切無い。流れ続ける壮大な交響曲に、あたしは嫌な予感がして、もう一度アパートを振り返った。二階の人影が何時の間にか消えて、ボロアパートの前には全身全霊を込めて指揮をする十四季しかいない。やっぱり、あいつ……。
「十四季ぃ――――っ! 何してるんだっ!」
あらん限りの声で叫んだあたしの言葉はコントラバスとオーボエのハーモニーで掻き消されてしまった。十四季は演奏に夢中で気付かない。というか、どういう理由で演奏を始めたのかすら忘れているみたいだ。一心不乱に両手で見えない楽団の指揮を執る十四季に、その異常な集中力が姿の見えないもう一人の敵の能力でないことを祈るあたし。
心を鼓舞する旋律のお陰で痛みが少し和らいでいるけど、宙に浮かぶ蟹の鋏を従えた少年がこっちへ近付いてきている事実は変わらない。
蟹鋏に引き裂かれる覚悟を決めたあたしの手から、少年がスィフィの入ったファイルを取り上げた。広告の中を転げまわっていたスィフィから絹を裂くような悲鳴が上がる。超音波みたいな叫び声を出すスィフィをリュックサックの中に大切そうに仕舞い、バンダナの少年は十四季へ向きを変えた。
少年があたしに背を向けたと同時に胃の中に加わっていた力が弱くなった。そのまま腹を押さえて地面に膝をつくと、少年に声を掛ける。
「なんで……直接あたしを殺さないんだ? スィフィを取り上げるだけで……」
息も絶え絶えにそれだけ言うとあたしは咽た。巨大なリュックサックを背負ったバンダナの少年が振り返り、眉を八の字に寄せる。
「……ボク、スォン先生みたいに強くなりたいっす。でも、やっぱり目の前で人が死ぬのは恐いっす。まだまだ修行不足っす」
怪我させてごめんなさいっす、とバンダナの少年は頭を下げ、十四季の方へ走っていく。遠ざかる少年の背中を見詰めるあたしの米神を冷や汗が伝う。悪気が無いほど性質が悪い――。蟹の鋏を従える少年が駆けていくのを無様に寝転がって眺めるしかないあたしは、必死の思いで十四季に逃げろと叫んだ。空間を揺らす重厚な旋律の中、アパートの扉が開く音がした。