第十一章 涙の流し方
音の衝撃が閑静な住宅街を貫き、遠くで電線に止まっていた小鳥達が空へ羽ばたいた。揺れる大地に足元を掬われ、あたしと好男がその場で尻餅をつく。あまりに一瞬の出来事に呆然とするあたしの頬に、ぱらぱらとコンクリートの破片が降り注いだ。
静まり返った空間に何処かから、学校の終業を告げるチャイムの音が響く。そろそろ小学生の下校時間だ。
こんな攻撃を真正面から受けて、さっきの変な女の人は大丈夫なんだろうかと心配するあたしの耳に、舌打ちの音が聞こえた。どうやら彼女は無事みたいだ。いくら人殺しをしたと自分から公言してる嫌味な奴でも、目の前で死なれるのは気分が良くないし。
抉れた民家の屋根の頂で、茶髪の女は乱れた髪を手櫛で梳いていた。
「……ふん! 今のは単なる偶然よ。次はもうこんな好運無いからね」
悔しそうに減らず口を叩く女の手が紅蓮の炎に包まれる。対する少年も、意識を取り戻した刈子を放り出して立ち上がり、右足でリズムを取り始めた。あたしの視界に集団下校する小学生達が映る。これ以上被害が拡大する前に、早く二人の争いを止めないと。
「お二人共、争いはお止めください……! 何も生み出さない憎しみよりも、幸せをもたらす愛をもって接しましょう? 」
青い目を潤ませて刈子が説教を垂れている。よしよし、そうやって雑音を立ててくれてる間に透明化してどちらかを押さえつけよう。心地良い十六ビートの曲を聞き流しつつ、あたしは二人に眼を走らせる。この場合、どちらを捕まえることを優先したらいいのだろう?
銀髪の少年は一々回りくどい喋り方をして話が通じないけれど刈子を助けていたし、明確な殺意を持ってここに来た茶髪の女性の方が危険度は高い、かな。スカートのベルトに挟んでおいたファイルを取り出し、スィフィに目配せする。
「もしかして二人を止めるつもりなのねぃ? ……やめておいたらぁー? 触らぬなんとかに祟りなしって、よく言うじゃん」
「……おまえ、どーせ他人事だと思ってんだろ。よく考えてみろよ、どっちが勝っても次に矛先が向くのはあたし達。万一あの炎の女が勝ったらどうする? 下手したらこの広告が燃えてあたしもスィフィも御昇天、ってことになりかねないんだぞ」
乗り気じゃないスィフィを焚き付けるためにちょっと脅してみた。広告の中でピンクと緑の縞髪を揺らしてスィフィが考え込んでいる。こいつ、自分のことになると急に一生懸命になるんだから、今の台詞を聴いて断るはずが無い。思惑通り、スィフィは溜息を吐きつつ頷いた。
「わかったねぃー。面倒臭いけど協力してあげるねぃ」
上から目線でそう言って、スィフィが広告の向こう側から手を翳す。音楽に乗ってるあたしの身体に未知の力が流れ込む。勿論捕まえるのは真赤な女の人のほうだよねぃ、とスィフィが小声で尋ねて、訊かれなくてもそうするつもりだ、とあたしは返した。
身体中を血流が巡ってはち切れそうだ。どうやらあの音楽は本人だけじゃなく近くにいる人間にも影響を与えるらしい。敵味方問わず身体強化するなんて使い勝手の悪い能力だなぁなんて考えながら、電波な言葉を言い続ける刈子の脇を通り屋根によじ登る。
背後からそっと茶髪の女に近付くと、両手の炎が大きくなって大人用浮き輪くらいにまで膨れ上がっていた。キャンプファイヤーに近付きすぎた時みたいに顔が火照る。
「魅首ぅーやっぱりやめようよぉー燃えちゃうよぉー」
「――! 」
しまった、気付かれた。ベルトに挟んだファイルから聞こえたスィフィの情けない声に反応して、茶髪の女が振り向きざまに両手の炎をあたしのほうに投げつけてきた。スタントマンよろしく屋根の上を転がったけれど、避けきれずにスカートが焦げてしまった。この制服って結構高いんだぞ。もうあの学校には行かないつもりだからいいけど……。
「どこにいるのかしら? 」
綺麗に化粧をした額にくっきりと皺を寄せて、茶髪の女があたしを探そうと辺りを見回している。きゃーこわーい、とか戯言をぬかすスィフィをファイルの上から小突いて黙らせ、轢かれたカエルのように屋根にへばりつくあたし。
こいつ、透明化した時に下に置いてくればよかった。
未だ小声で喚いているスィフィの声に、相手の様子を窺うあたしの米神から冷汗が流れる。相手を捕まえるには距離が開きすぎてるし、その距離を詰めるために音を立てたら炎の雨を浴びることになる。
息を潜めて女の動向を窺うあたしの眼に、空を翔る黒い影が一瞬映った。あの少年だ。
「祈れ! 」
太陽を背景に格好つけた台詞を叫び、少年が包帯を巻いた右手を前に出す。いや、それ悪役が言う台詞だろう、と一人心の中で呟いたけどそんなことしてる場合じゃない。
あれは暗黒爆錬武闘を使う構えだ。そして恐らく、その軌道は茶髪の女と、あたしの上を通る。アスファルト同様粉みじんになるのは間違いない。更に、この距離からだともう逃げようがない……。あたしはぎゅっと目を瞑り、物理の実験で音波粉砕機を使った実験を思い出して自分を慰めようとした。――むしろ凹んだ。
真っ暗な世界に暗黒爆錬武闘の爆音が響き、振動で身体が宙に浮く。ああ、さよならあたし。結局あの女の子を救うどころか誰かの役に立つことも無いままこの世を去っていくんだね。
鼓膜も破れる勢いで絶叫するスィフィの声を背後に、次いで訪れる激痛を覚悟して、あたしは空中で拳を握った。
――来ない。
これまでの人生が走馬灯のようにぐるぐる頭の中を巡っているけれど、痛みは一向にやって来ない。もしかして痛みを感じる間もなく死んじゃったのかな、と目を開いた途端、眼前のアスファルトに激突した。視界に星が飛んで一瞬目の前がブラックアウトしかけたけれど、なんとか気合で持ちこたえて何が起こったのかと顔を上げる。
「だから、女の子に乱暴しちゃ駄目だって言っただろう」
鼻につく声、高く掲げられた左手。その手首に着けられた腕時計から伸びる黒い髪が少年を拘束している。びしっとキメ台詞を言った好男を見て、不覚にもちょっとときめいてしまった。キザな笑顔を作る口元から歯の折れた歯茎が見えて血が垂れているのが玉に瑕だけど。
「そなたの能力はまず最初に足で音を出す必要がある……。宙に浮いた今、音を創ることはできまい」
ガラスを針で引掻いたようなアズァの声が冷静にそう述べる。身じろぎしていた少年は悔しそうに下唇を噛むと俯いてしまった。
「――さて、次は貴女の番だな」
無駄に紳士ぶって、好男が茶髪の女にキメ顔を向ける。なんか、心強い味方だって判ってるんだけど……時々無性に腹が立つんだよな、こいつ。
黒髪で出来た剣を構える好男に、茶髪の女は口元を歪めて目の下に皺を作った。
「あーあ、折角盛り上がってたのに白けちゃったじゃない。……責任、取ってもらおうかしら」
一際大きな炎が女の両手を包み、辺りを赤く照らす。足元からも炎が巻き上がり、紅い炎の欠片が近くの民家数軒に飛び火する。
「なっ――何するんだよおまえ! 」
「何って? ここらへん一帯を焼き払っておまえ達の命を頂くのよ」
踊り狂う紅の炎の中で茶髪を靡かせ、女が愉しそうに口端を上げる。ほーら、ここにもそこにも、と茶髪の女は止める間も無く火の粉を街にばら撒き始めた。下校してきた小学生達が、その惨状を見詰めて呆然と立ち尽くしている。炎の海と化していく住宅街を見下ろし、女がけたたましい笑い声を上げた。女の前に立つ刈子が腕を広げ必死に呼びかける声がする。
「やめてください! ここの人達は何も関係ないじゃありませんか」
至極真っ当な刈子の主張を聞き、あたしも痛む身体を立ち上がらせる。瀕死の虫みたいなあたしの無様な動きを見て、茶髪の女は更に悦に入った様子で嘲り笑った。
「関係無い? それはどうかしら。別にあたしの目的は異世界の女王サマのために謀反者の魂を集めることじゃあないの。この命尽きるまで暴虐の限りを尽くす、只それだけ。あんた達の相手をして上げるのもその一環ってことよ。せいぜい醜態を晒してわたしを愉しませて頂戴」
茶髪の女の手に燈った炎が揺らめき、奇妙な陰影を顔に作り出す。彼女の頭に着けられた大きな櫛に、また人影が見えたのは気のせいだろうか。耳障りな高笑いをして女が炎を辺りに撒き散らす。
「ほら、踊れ踊れ! もっともっと燃え上がれ! 」
嗤いながら火柱を上げる女の手から放たれた火球が風に煽られ、少年を捕捉するアズァの黒髪に当たった。
「熱っ……」
頭を抑えて蹲る好男の左手首から伸びていた黒髪が腕時計の中へ吸い込まれ、少年が道端に投げ出される。着地した瞬間、その足で素早く拍子を取ると少年は一気に茶髪の女の懐まで迫った。火傷も恐れず繰り出された拳を軽々と避けて女が笑い声を上げる。
「あんたみたいなガキがさぁ、わたしに勝てるとでも思ってるの? 」
けらけらと嗤い、女が少年の腹へ炎を纏った拳を当てる。黒い血を吐いて吹っ飛ばされた少年に近付き、立ち上がろうとする頭を真赤なピンヒールで踏みつけた。以前英語教師に逆らったときに同じようなピンヒールで足を踏まれたことがあったけど、きっとそれの比じゃない痛さだろう。思わず顔を片手で覆って目を逸らすあたしの耳に、少年の押し殺した声が微かに聞こえる。
「……貴様だけは……絶対に……」
黒い包帯が巻かれた右手が固く握り締められ、拳を作る。包帯に覆われた手首の辺りが僅かに発光しているように見えるけど、単に炎の照り返しかもしれない。相変わらずピンヒールで少年の頭を踏みつけている茶髪の女が、負け犬の遠吠えにも聞こえる少年の言葉を嗤った。
「そんなに家族が死んだのが悲しい? 人間はさ、ううん、生きてるものはいつか必ず死ぬんだよ。死ぬときがちょっと速くなったくらいで何をそんなに怒ってるわけ? 馬鹿なんじゃないの? 命、命ってさぁ。そんなに生きることが大事? どんだけ凄いこと成し遂げたって、死ねば意味無いんだよ。わたしの言ってること何処か間違ってる? 悔しかったら何か言い返してみなよ、ほら」
こつこつとヒールの先で少年の頭を小突き、茶髪の女が応えを促す。銀髪に血が滲み、少年の眼に涙が溜まっている。色が変わるほど唇を噛み締めている少年を見下して女が手の平の炎を揺らす。
「何我慢してるの、泣きたかったら泣けば? そして強くなったら? それしか頼るものが無いってのも、笑っちゃうけどね。ほほほほ! 」
今時珍しく頬に手を当てて高笑いすると、女の表情は一変して激怒に変わった。
「さぁ、無様な泣き顔晒しなさいよ! 涙を流さなくても、わたしの方があんたよりずっと強いって証明してあげる! 」
広がり続ける炎の中心で啖呵を切って、茶髪の女は少年の頭を蹴った。抑えるものの無くなった少年は即座に立ち上がり女を睨めつけたまま右足でリズムを刻み始める。血と煤で汚れたその頬を透明な涙が一筋伝い落ちた。拳を握る両手が震えているのが遠くにいるあたしにも分かる位だ。
「魅首さん、手伝ってください」
後ろから肩を叩かれ、はっと我に返ると刈子が水の流れるホースを何本か抱えている。その傍らには大量のバケツをアズァの黒髪で運ぶ好男の姿が。
「消防に連絡を入れておいたよ。っても、今からじゃとても間に合いそうにないから……気休め程度だけど、俺達に出来ることをしようと」
「そっか……そうだよな……」
目の前で燃えていく民家を振り返り、あたしは眼を伏せた。燃え盛る炎の勢いは衰えるどころかますます激しくなって全てを焼き尽くしてしまいそうだ。屋根の上で死闘を繰り広げる少年と茶髪の女の後ろでは、火事に気付いた住民の悲鳴が上がっている。プラスチックが焼ける独特の臭いを嗅いであたしは思わず鼻に皺を寄せていた。
「ああ、でも魅首ちゃんはスィフィの居る広告が焼けたら危ないから下がっててね」
隣で話しかける好男の声がやけに遠い。わき腹に鈍い痛みを感じて触ってみると、手に真赤な血がべっとりついていた。慌ててベルトに挟んだファイルを取り出すと、広告の端に少し血が染みている。スィフィは―――と探すと、イラストの影に隠れて縮こまって震えていた。
「おい、スィフィ――」
振り返った姿を見てあたしの口が止まる。はぁはぁと苦しそうに肩を上下させるスィフィの腹からも、同じように赤い血が染み出ていた。いつも生意気な表情の顔は蒼白で生気が無い。そういえばこいつ、実際の大きさは分からないけれど幼い顔からしてまだ子どもだろうか。ほぼ成人と同じ体格のあたしと違って、こいつはこれぐらいの出血量でも死ぬのかもしれない。
失血死するにはどれ位の出血が必要だっただろう、と考えるあたしの視界がぐるぐる廻る。耳元で好男が何か言ったような気がしたけれど、よく聞こえない。足から力が抜けて抉れたアスファルトの上に座り込むと、地面が振動した。
あの少年が例の技を使ったんだろう。遥か遠くで悲鳴が聞こえる。さっき近くで怯えていた小学生達は無事にどこかへ逃げれられただろうか? 激しい脱力感に負けてそのまま道路へ倒れこむあたし。額が粗い粒のアスファルトに当たって、自慢の肌がぼろぼろだ。
電池の切れたおもちゃみたいに地面に転がって、次第に暗くなる空を見上げるあたしの視界が滲んだ。やっぱり、何も出来てない――。好男とアズァみたいに強い力があるわけでもなく、刈子とテンキィのように他人を思い遣る余裕も無く、あの少年のように貫き通す激しい意思も無い。ひょっとしたら、あの変な女にさえ行動力で負けてるかもしれない。
セピア色の世界で降り注ぐ火の粉を見詰めるあたしの手に力が入る。あたしの人生、こんなのでいいのか? ただ享楽を求めて都会に来たはいいけれど、それ以上の志は何も無い。自堕落な人生の果てに待つのは、あの女が言ったような虚無の死だけじゃないのか?
閉じていく瞼の裏側に、涙を流す少女の姿が映る。あの時も、ただ何もせずあの子に謝るだけだった。どれだけ後悔した? 暗い視界の中で、あたしは自問自答する。今まで、いったい何回後悔してきた? 氷のように冷たい手を動かし、地面を探る。……そう、もう後悔するのはごめんだ。
誰が何と言おうと構わない。
「スィフィ……」
重い唇を動かして、スィフィに呼びかける。返事は無い。
力が欲しい。二度と後悔しないために、あたしの大切なものを守るために。手に触れたファイルを握り締め、擦れた声で続きを喋る。
「泣けば……強くなれるんだな……? 」
そのためなら何だってする。あの女が言ったみたいに、無様な泣き顔晒してやろうじゃないか。腹の奥から込み上げる熱いものは、感極まったあたしの心だろうか。それとも逆流する血潮?冷え切った顔の目頭だけが熱くなり、閉じた睫を濡らす。そうだ、泣いてやる。泣いて強くなってやる。気のせいだろうか、身体が再び熱を取り戻してきた。スィフィがあたしを呼ぶ声がする。
――もっと力を――。目を閉じたまま上半身を持ち上げたあたしの頬を、暖かい涙が伝った。
閉じた瞼を貫いて、眩しい光があたしを包む。何処かわからない遥か遠くの世界から巨大な力が身体に流れ込み、冷たい身体を熱く滾らせる。指の先まで光に満たされ、身体がはち切れそうだ。再び訪れる色の洪水に、あたしは両足でアスファルトを踏締め立ち向かった。この間とは違う『概念』が脳内を駆け巡る。そうか、これは――。
異世界の光景と現世界の光景が重なった視界に両手を広げ、それに合わせて空間に自らの意識を広げる。身体中の血を沸かせる熱が指先から溢れ、暖色の線を描いた。線が次第に形を変え、見慣れたものを形成していく。
「え――? 」
目の前に現れたそれを見て、あたしは眼を円くした。田舎にいるはずの家族が揃って、あたしに微笑みかけている。よく見ると数年前に二人して他界した祖父ちゃんと祖母ちゃんもいる。驚いて意識の集中が切れた途端、家族の肖像は空中に掻き消えてしまった。
合わない乱視用眼鏡を掛けたようにブレていた視界は元に戻り、破壊された民家が並んでいるだけだ。……いや、何時の間にか炎が消えている。いったい何が起こったのかと首を回すと、屋根の上で茶髪の女が頭を抱えて膝をついている。額から冷や汗が幾つも垂れて、震える唇で何か言っているようだ。何だかよくわからないけど、あいつを捕まえるなら今しかない。
すっかり痛みの消えた身体で屋根によじ登り、女の肩を掴む。
「……なんで……なんで今頃出てくるのよ……! 」
意味分かんないこと言ってるなぁ、と思いつつ、逃げないように茶髪の女の首根を掴むあたしの眼に、女の髪に刺さった櫛の中の人影が見えた。アズァみたいに全身真黒な影だ。逞しいシルエットからして男だろうか? 櫛の中の人影が低い声で呪文のようなものを唱えた。それと同時に、茶髪の女は屋根の上から消えてしまった。
「あっ! 待て! 」
叫びも空しく、掴んでいたうなじの毛一筋さえも残さずに茶髪の女の姿はどこかへ行ってしまった。あの女の子を操っていた奴も、似たような感じで何処かへ移動していたような……。決着をつけられず腑に落ちないあたしの傍を、少年がふらふらと歩いている。そうだ、そういえばこいつも――。はっと見ると、少年はカラーコンタクトが取れるほど大粒の涙を流していた。
とてつもない一撃が来るかもしれないと身構えたけど、茫然自失状態で闘うどころじゃなさそうだ。オッドアイから普通の眼に戻った少年の手を引いて好男達のところへ戻ると、二人の様子もなんだかおかしい。
「……好男? 」
バケツから水を零しっ放しで佇む好男に声を掛けると、急に我に返った様子できょろきょろと辺りを見回した。あたしと眼が合うと気恥ずかしそうに焦げた髪を弄る。
「あ――ごめんごめん。ちょっとぼーっとしちゃって」
慌てて水が半分位に減ったバケツを民家に向け、そこで火が消えたことに初めて気付いたようだ。
「あれ? 何時の間に……」
「好男、もしかして今何か見えた? 例えば……家族とか」
一寸潤んでいる茶色の瞳を覗き込んで尋ねると、好男は恥ずかしそうに頭を掻いてぼそぼそと呟いた。
「うん、まぁ……家族っていうか……前の彼女……」
彼女かよ! と心の中で目の前の女たらしに突っ込むあたし。勿論きみのことも大切に想ってるんだよ魅首ちゃん、とかふざけた弁解を始める好男を適当にあしらうと、今度は刈子の様子を見る。好男同様、水の出るホースを抱きしめたまま、刈子は眼鏡の奥の瞳を潤ませていた。肩を揺すってみると、すぐに気付いて涙を拭う。
「すみません、こんなときに……わたくしったら」
「刈子も何か……? 」
首を傾げる刈子に好男と同じ内容で尋ねてみると、急に家族の姿が目の前に現れたんです、と涙声で答えてくれた。
「もう何年も会ってなくて……懐かしくて、つい……すみません」
「いや、刈子が謝ることじゃないし――」
隣でひっきりなしに嗚咽を上げる少年に注意を削がれつつ、刈子の頭を上げさせるあたし。何が何だか分からない……。握っていたファイルの中のスィフィを覗き込むと、さっきまでの様子は何処へやら、けろっとした様子で寝転がって下手糞な鼻歌を歌っていた。
「……おい、新しい能力が使えたのはいいけど、どーいう能力かさっぱりわからないぞ? 」
蒼褪めた顔を見たせいもあって普段より優しく訊いてみるけど、予想通り答えるつもりは無いらしい。そんなことよりプラナリアの話しようよぉ、と、はぐらかされてしまった。どうしておまえがプラナリアを知っているんだと胸中で突っ込みつつ、途方に暮れるあたしの肩越しに、液体窒素のようなアズァの声が聞こえる。
「皆の言葉から察するに、魅首殿が使った術には、対象者にその者が一番大切に想うものを見せる力があるのだろう。異世界から渡ってきた力を上手く制御出来なかったために敵味方構わず効力が発動したのでは……」
「大切に想うものを見せる……か」
また使い難そうな能力だ。しかも透明化と違ってコントロールする力が必要らしい――。どうやって制御するんだよ、とぼそりと愚痴るあたしを、だから魅首には使いこなせないって言ったんだねぃ、とスィフィが茶化す。……絶対使いこなせるようになってやる。
思案に耽るあたしの横で、急に刈子が手を叩いた。
「そうだ! こんなところで油を売ってる場合じゃありませんわ! 次にいつ刺客が現れても対処できるように、わたくしも好男さんも『泣く』練習をしましょう! 」
「え、俺も? 」
情けない声で自分を指差す好男に近付き、刈子が頷く。
「この中でまだ新しい能力が分かっていないのって、わたくし達だけじゃありませんか。さぁ急ぎましょう、時は金なりです」
「ちょ、ちょっと待って刈子ちゃん――俺は泣くのも泣かせるのも苦手で嫌いなんだってば」
嫌がる好男の腕を掴んで引き摺っていく刈子に、今のは微妙に用法が間違ってるんじゃないかと心の中で呟いて、あたしも泣き続ける少年を引っ張り後に続いた。