第一章 家出決行
見上げると転落してきそうに大きな積乱雲が真青な空を我が物顔で占拠してる。
「夏休みの友」とかぬかしてちっとも友達なんかじゃない冊子の課題をこなすために、遅れたファシズム体制にかぶれたイガグリ頭の少年達が「命は大切にしましょう」なんて何処へやら、凶悪な殺虫兵器なる一本五百円の網を振り回して夏を必死に生きる蝉を追って土手を駆けていった。あの小学校の先生たちは教育方針を変えたほうがいいと思う。
そんな日記にすら書けないお馬鹿なことを考えつつどろどろに溶けたアイスという名の氷菓子を舌の先っぽで舐めるあたし、花の女子高生っす。
生きるのが大変なほど上昇し続ける気温の中、こんな寂れた片田舎に何か良いことあるもんでしょーか? 断言しましょう。あたしが満足するようなことは絶対ゼッタイ起こらない。
ろくに食べられずに液体になってしまったアイスの棒を駄菓子屋のゴミ箱にやる気なく投げると、あたしはこれまたファシズムを感じさせる全校生徒強制所持の学校指定鞄を担いだ。
「田舎に住みたい」
なんて言う都会人がいるらしいが、あたしに言わせりゃその人は狂ってる。頭のネジが一本どころか十数本ぶっ飛んでるね、こりゃ。なるほど確かに田舎に住む人々は純朴かも知れない。そこには沢山の美しい自然と心を慰める小動物が存在するだろう。
けどね、そんな半端じゃない田舎なんていまじゃテレビで見る天然記念物っすよ。殆どの田舎は最早不自由な生活を捨て、遅ればせながら文明開化の波に乗り始めたのです。
あたしが住むここ、久留米里町だって、ここ数年やれ新リゾートだのアウトレットパークだのと機材を乗せたダンプカーがひっきりなしに農道駆け巡って臭い排ガスをいたいけな小学生達にぶちまけてるんだ。不便なだけの空気の汚い片田舎って虚しい。
そこであたしは決心した。どうせ空気の汚い場所に住むんなら、あたしの大嫌いな毛虫がうようよいるこんな山奥の盆地より、もっと便利で一晩中カラオケルームやゲーセンが開いてるところへ行こう、と。
うだるような暑さの中ダンプカーが作った轍にコケそうになりながら歩くあたしの向かい側から、能天気に笑って手を振るクラスメイトが近寄ってくる。
どこの世界を見回しても、日本の女子高生くらい常時ハイテンションな奴らは居ないだろう。本人達は「これでも結構悩みがあるんだよぉー」なんて主張するが、薬もやってないのに(いや、やってるかもな。あの様子では)あそこまで一日中笑い転げることが出来る彼女達は一緒に居ると背筋に悪寒すら感じる。
からまれたくない唯それだけのために、あたしは手を振るクラスメイトを完全無視して歩き続けた。笑っていたクラスメイトは手の平を返したように怒り出し、通り過ぎざまにご親切にもよく聞こえるように悪態をついた。あっという間に後ろに過ぎ去っていくクラスメイトを背後に、あたしは二年目突入して大分くたびれた鞄から高校入学時から買い換えていない携帯電話を取り出し時間を確認した。
この携帯電話というのもまた非常にけち臭い謂れがあるもので、高校入学と共に念願のケータイを買ってもらったはいいものの、その後は宥めても賺しても自分の小遣いで買うと言ったにも関わらず、家から車で片道2時間かかる家電量販店に行くのを面倒臭がる親のせいで塗装が剥げても使い続けているという代物だ。
毎日充電を繰り返すために電池の寿命は最早風前の灯で、最大まで充電しても半日と持たない。仕方ないから授業中に教師の眼を盗んで学校から盗電しているのだが、こんな不良娘になった原因は一途に両親の怠慢にあるのだ。
そんな既に電池残量一になっているケータイを仕舞うと、あたしは少し早足になる。銀行と郵便貯金からありったけのキャッシュを引き下ろしいつもより大切に思える肩掛け学生鞄を担ぎなおし、太もも丸見えのスカート揺らして目指す先は町の中心にあるローカル線の駅。
つまりはこういうことだ。あたしは学校でケータイいじっているところをクラスメイトに告げ口され、学校から両親の呼び出しをくらい、担任に口頭注意され、不機嫌絶頂の両親の前でだから新しいケータイを買えと言ったのにと生意気を言い更にまたまたケータイをねだったのだ。
前々からあたしのことをとんでもない不良学生だと目の敵にしてきた担任は両親と共にあたしをこってこてに叱り、いや怒り、激昂した父親は「おまえなんか勘当だっ! 」と汚い唾撒き散らして全校生徒をギャラリーに宣言した。何もそこまで怒られる筋合いは無いと、あたしは教科書を教室の床にぶちまけて扉を蹴破り学校から走り出た。
親から勘当だと言われたから、もう家に帰る理由なんか無い。唯一あたしをこの腐った片田舎に縛り付けていた鎖が切れて、あたしは下校し一直線に町で一つしかないATMに走り、貯金を全額引き出した。家出決行。あたしが理想とする生き方を貫くのだ。
こんなこともあろうかと何ヶ月もかけて探し出しておいた、正規の手続きなんか踏まなくても即日入居できるボロアパートには既に半年分の家賃を払っておいたから、住む場所なんかには困らない。
父親に隠れてバイトした給料は半年の家賃を払っても余裕綽々で、街に着いて仕事を探す間まで楽に食い繋げるだろう。そんじょそこらのプチ家出なんかと違ってあたしの家出計画は準備にぬかり無い。去年二ヶ月だけ祖母の介護のために家族揃って久留米里町に住んでいた都会育ちの元クラスメイトの怪しい伝手を辿って保険証まで偽造したけど、多分使うことはないだろうな。
三時間に一本しか電車の来ない駅に辿り着くと、まだ時間があると思ってコンビニで充電池を買おうとガラスの自動扉を通過した。体感温度が五度くらい一気に下がり、最も近代化の進む駅のコンビニに入るレジ手前に目的物がある。早速買おうと手を伸ばしたあたしの動きが止まった。
何も電池の値段が高かったからじゃない。今の手持ち金ならこんな額痛くも痒くもないけれど、まてよ、とあたしは考えた。こんな身元が割れてるケータイを持ってたら、一瞬にして居場所がばれてしまう。それなら電池が切れるまで十二分に有効活用させてもらって、あとは高架の上から投げ捨ててしまえばいいじゃないか。パケット代は親に請求されるんだし。
手を伸ばしたまま固まるあたしを見て万引きでもするのかと思った店員がわざとらしい咳払いをした。あたしは振り返って思い切りそいつを睨みつけると大股でコンビニを出た。
ケータイがいらないんだったらこんな町もう用がない。あたしは一台しかない券売機の前でもたもたと切符代を計算している爺さんを押し退けると迷うことなく都心行きの切符を買った。
券売機はつり銭を出すだけなのに大袈裟にがとごと音を立て、なかなか小銭を吐かない。古くて整備もされていない赤字ローカル線の券売機なんてこんなものだろうか。ついに券売機の赤いランプが点灯し、お釣りが足りません、係員を御呼びくださいと金切り声を上げた。五千円札なんか突っ込んだのが間違いだったんだろうか。そうこうしているうちに列車が来てしまった。
小銭のために乗り損ねて三時間も待たされるのは御免だ。あたしはおろおろする爺さんと叫び続ける券売機に背を向けると慌てて改札を通り抜けてホームに足を着けた。
寂れたホームには人っ子一人居なかった。人口五千人以下の過疎地、しかも平日の真昼間なんだから当然といえば当然かもしれない。
風速三メートルくらいの生暖かい風が、がらんどうのプラットホームを通り、明治始めに建てられたのかと見紛うほど腐敗した雨除けを鳴らしながら去っていく。券売機の音が心成しか遠ざかっていき、まるでそこは切り離された宇宙空間だった。ロケットに見立てられた銀色の車両の扉がぷしゅーと音を立てて開く。
都心へ向かうローカル線車両は見ていて哀しいくらいに誰も乗っていない。まぁ平日昼間っから三時間に一本しかやってこない電車を待ってまで都会へ行きたがる人間がいるほうが珍しいもんだ。あたしは踵を踏み潰したローファーを車両入り口に掛けた。車両先頭から誰もいないと決め付けている車掌が出発を合図するけたたましい鐘を鳴らした。
追い討ちを掛けるように扉が閉まりかけ、あたしは挟まれたくない一心でもう一歩を踏み出した。ついにあたしはこの町から開放されたのだ。動き出した汚いだけの街路樹の背景がそれを証明していた。
「……ふー、疲れたァ」
緊張が一気に解けたあたしは車内のベージュともクリームともつかない薄汚れたシートにばふん、と腰掛て鞄を放り出し、自分で自分の肩を揉んだ。
「お疲れさんだねぃーおじょーさん」
誰もいないはずの車内から、奇妙な声があたしの耳に届いた。あたしははっとして肩を揉んでいた手を止めて左右を見回す。やっぱり誰も車内には居ない。ストレスのせいで遂に幻聴が聞こえ始めたかと二度目の溜息を吐きかけたその時、あたしの視界の端っこで何かが動いた。
「そぉんなに溜息ばっかり吐いちゃってぇー酸素が足りてないんじゃないのぉ?」
声のするほうに顔を向けた。きっとその時のあたしはそれまでの生涯で一番間抜けな顔をしていたと思う。兎に角それぐらい、有り得ないことが超現実臭い片田舎を出発したばかりの赤字ローカル線で起こっていた。絶叫しても、おかしくない。
日光で退色した車内の吊り下げ広告の一枚が、あたしに向かって皮肉な笑みを浮かべていた。いやいや正確には、吊り下げた広告の中の奇天烈な格好をした人物が、だ。
そいつはあたしにウィンクしてけたけたと笑った。あまりに驚いてシートからずり落ちたあたしを見て、そいつはまた笑った。存在意義が理解できない広告な中の喋るそいつに、あたしは開いた口が塞がらなかった。